市電が走った街 京都を歩く 四条線②

祇園〈2〉 ブランドナンバー「1」

前回〈1〉で、四条線を走っていた1系統は、文字どおりのファーストナンバーと記しました。衹園-百万遍-千本今出川-四条大宮-衹園と市内中心部を循環する系統でした。ほかの都市を見ても、東京都電では、品川駅前と上野駅前を結び、銀座通を貫通する系統が1系統であり、大阪市電でも、阿部野橋から四つ橋筋を通り大阪駅前に至り、堺筋を通って阿部野橋へ戻る都心の循環系統もやはり1系統で、「1」は、都市を代表する系統とも言えるでしょう。しかも京都の場合、壬生車庫の系統板の地色は赤で、ほかの車庫の系統板ように、車体色に同化する色ではなく、ひと目でそれと分かる鮮やかな色は、なおさら存在感がありました。ただ私の場合、1系統の循環コースのほぼ中央に住まいしていたので、ふだんの生活のなかで乗車する機会は、ほとんどありませんでした。

今回は、1系統に限定して、しかも四条線の廃止で、消えてしまった車両を集めてみました。こうして見ると、車両だけでなく、並走するバス、撮影のジャマをしたクルマまでも、50年前ならではの価値があります。

1600形ワンマンカーに改造されずに残った、戦前製の600形が4両いたが、四条線の廃止で廃車となった。最後は錦林車庫だったが、撮影時は壬生車庫で、「1」を付けて祇園石段下を曲がっていくのは、須田寬さんも絶賛された“青電”の雰囲気をよく伝えていた(以下、昭和43年5月)。

500形を短縮した514形514~517は、伏見・稲荷線の廃止時に廃車になっているが、ずっと壬生車庫に所属していた。

京都には「1」のような循環系統のほかにも複雑な経路の系統が多く、前面幕板部の行先幕を、適宜途中で入れ換えしていた。どこで行先を変更するのか、1系統のような循環系統の場合、対角線上となる停留場名に入れ換えるのがルールだったようだ。その参考となるのが、上掲の514形の写真で、行先幕は百万遍であるが、これから祇園の対角線上に当たる千本今出川に変更するところ。ただアナログの時代、さほど徹底していたわけではなさそうだ。

撮影した昭和43年から、800形を1800形ワンマンカーに改造する工事が始まっていて、まだ多くの800形ツーマン車が走っていた。

多くの「1」が集まった。手前の686は、戦争中に製造、戦後に完成した686形のトップナンバーに当たり、686~695の10両あったが、通称“粗悪車”と呼ばれていた。四条線廃止に先立つ昭和46年7月に余剰廃車されている。

一枚目は601号、二枚目は伏見・稲荷線廃止時に消えた500形、三枚目は686号だが、注目すべきは、市電では無く、チラッと写った市バス、いずれもボンネットバスで、順に東福寺行きの16号系統、稲荷・国立病院行きの46号系統、尻を見せた宇多野行きの10号系統だった。

 

 

 

 

昭和40年の「市電運転系統図」(三和銀行の粗品)

 市電が走った街 京都を歩く 四条線②」への9件のフィードバック

  1. 514型は、514と515、516と517の2グループに分類され、形が微妙にちがいます。外形上の違いは幕板の厚みがちがいます。
    写真は11号系統の516号。七条大宮

    • たしかに幕板の寸法によって、ずいぶん表情が違います。514、515の方が軽快感がありますね。この516は「11」ですが、「11」は烏丸線回りの白梅町行き、「10」が七条大宮経由の白梅町行きだったはず。「10」「11」は折返しでセットで運転されていましたから、系統板のひっくり返し忘れでしょうか。

  2. 私が小学校の時に見たツーマンの市電にうっとりです。
    総本家様、ありがとうございます。
    ところで、N電北野線が昭和36年7月31日に廃止されるまで
    11系統は京都駅~七条大宮~みぶ~千本今出川~
    烏丸今出川~四条烏丸~京都駅のルートでした。
    従って、写真が昭和36年7月以前に撮影されたものでしたら、
    11の系統板で正解です。 失礼しました。

    • なるほど!  北野線廃止前は循環系統「11」だったのですね。廃止後、北野線の「10」をもらい受けて、10、11の別系統になったわけですね、分かりました。

  3. 昭和45年11月30日、①の712です。
    後の小屋「通称ハト小屋」は、シナイセンの落研こと山本清治さんから質問があった小屋だと思います。

    • お写真にある「通称ハト小屋」は、市電のものではなく、警察が設置したものですね。“ハト”ならぬ“パト”なんです。同じ形をしたものを、京都駅前や西大路四条等の交差点で撮影された諸先輩の写真で拝見していますが、昭和末期にはなくなっていますね。
      祇園交差点の自動転換ポイント化は昭和34年12月15日に竣工したとの交通局の記録があることと、地べた(祇園さんの石段下南側?)に操作小屋があったと聞いたことはあるものの、その写真を見た記憶が僕にはありません。

  4. 2枚目の写真の市バス10番はかつて寺町通りを走っており、小学校卒業まで河原町丸太町に住んでいた私にとっては一番馴染みのある系統です。
    祇園終点で乗客を降ろしたバスは一旦石段下まで移動。小休止した後に四条通りに入って宇多野へ行く、こんな感じで折り返ししていました。交通量の多い今からすると信じられない転換のやり方ですね。

    • そうそう、そうでしたね。10番のバスは、祇園で、ぐるっと回っていましたね。思い出しました。河原町ではなく、寺町を通っていて、河原町沿いの私は、なかなか利用する機会がありませんでした。勘秀峰さんのブログでも、四条線の思い出が始まりましたね。ことし廃止50年、二人で回顧の輪を広げていきたいものです。

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