前回に続いてDRFC合宿中に撮影した写真です。
始めは、熊ノ平-丸山(信)間の第3橋梁を行くED42です。
この碓氷線には18の橋が架かっていますが、碓氷川に架けられたこの第3橋梁が最大の橋です。全長90.8m、高さ31.4mのレンガアーチ橋で、建築師長・ボーナルの設計による。レンガ202万8000個、セメント2,720樽を使用。”めがね橋”の愛称で呼ばれ、1993年には国の重要文化財に指定された(『越境のドラマ!』鉄道博物館刊行より引用)。他にレンガ造りのアーチ橋がもう一つ、中尾川に架かる第13橋梁(中尾橋)が存在しました。
▼上り(峠を下る)DC急行列車と本務機ED421、一補、二補。 1962.9.6 05627 ▼下り(峠を登る)DC急行列車とED42本務機ほか 同日 056709
線路の直ぐ北側で、来たるべき新線の建設が始まっていた。建設会社の看板や、橋の向こうにセメントで固めた斜面のノリが見える。建設中の橋脚らしきものも。 ▼四重連! 機関車の回送はまとめて行っていたらしい。 同日 05707 ▼上り(峠を下る)DC急行 熊ノ平-丸山(信)間 同日 05710 ▼下り旅客(峠を登る)列車 列車先頭の三補機ED423 同日 05711 ▼同上列車の後尾、本務機ED4217ほか 同日 05712 現在線に平行して部分的に完成した、丸山信号場付近の新線を使って、試験運転が続けられていました。沢山の関係者が乗り込んでいるのが見える。
▼EF631 試験走行中 同日 05700▼EF631 横川駅構内 同日 05702
1962製造初年、東芝・三菱・富士・川崎で25両製造、アプト式に代わる粘着運転を可能にした機関車。電磁吸着ブレーキ、双頭連結器、主々の連結車両に対応したジャンパなどを装備。 ▼同EF621 横川駅構内 同日 05704
1962製造初年、川崎・汽車・東洋で54両製造、3軸台車×2(C-C軸配置)、勾配抑速ブレーキ、電気暖房装置を備える。後に東海道・山陽本線に回り活躍。 ▼横川-軽井沢間新線の平面・縦断面図
(『越境のドラマ!』 2013.10. 鉄道博物館刊行より引用) ▼信越線下り時刻表 1961.12(日本交通公社刊行) ▼同上り時刻表合宿撮影の前年1961年12月現在で、横川-軽井沢間を通過する列車は上り・下り共に各20本、合計40本です。1960年6月が上下28本、1950年6月が上下18本(前回掲載)ですから、線路容量の逼迫振りが判ります。
翌1963年7月15日碓氷峠新線開業と同時に、軽井沢-長野間の電化も完成。碓氷峠は新線と旧線とが並行して運用されました。そして10月、全列車が新線に切り替えられて運転されました。ここにアプト式の旧線は廃止されたのです。
さて、新線建設で大きな目標は達成されたのでしょうか。先に紹介した鉄道博物館刊行『越境のドラマ!』-峠を越える鉄道の物語-にこんなコラム欄がありましたのでここに引用掲載させて頂きます。
今回はこれで終了。次回はこの沿線で1962年に開催された、DRFC合宿撮影行とその後の合同乗り鉄会を紹介します。
アプト区間は4度乗っています。最初は中学2年、初めての一人旅、長野から上野への夜行列車で寝ていました。特殊軌条と知り意識したのは同志社入学の歳、ラック区間で3重連の響きを楽しみ、草軽電鉄に乗りに行ったときです。3度目は旦那、徹ちゃん、新兵様と4人で野辺山から上野への移動の時。最後は新線切り替え直前に上野から「白山」で旧線での最期を楽しみました。東京出張の帰途で、いつもは途中どこか寄り道して夜行での帰路でしたが、「白山」に乗るのは成功したものが故郷に錦を飾る時に乗る列車だと言われていたので乗ってみただけの事でした。