デジ青は木次線で大賑わいです。今更筆者の同じような画像は二番煎じと思い、皆さんの画像を閲覧する読者を決めていましたが、その内ムズムズし始め、西村さんの『出雲坂根今昔』を見て、三段画像なら比較してみようと、油に更に火を付けたく、投稿におよびました。学生時代最後の冬休み、名古屋の住職見習い(当時3回生)と二人の撮影紀行の話です。
★昭和38年12月30日
前々日、伯備線布原信号場付近で撮影後、住職見習いの友人(その後著名な毎日新聞記者となる)が住む湯の郷温泉に泊めて貰い、翌日の午後、出雲坂根駅に降りたったのです。
▼客427レ(松江発備後落合行き) 機C56104【木】 出雲坂根駅に進入直前。
スイッチバック二段目にあたる坂から登ってくる列車を見下ろしました。
▼客427レ出雲坂根で、606D準急『ちどり』と交換後、バックで二段目を登坂します。
▼606D準急『ちどり』(広島発米子行き)が出発、後姿を一段目で眺める。当時のヘッドマークはいたって簡単です。
▼605D準急『ちどり』(米子発広島行き)が出雲坂根に接近。やはり二段目で見下ろします。
▼同上、出雲坂根を出発、バックで二段目を登坂、スノーシェルターに接近。
左はスノーシェルターを出たところのスイッチバック3段目の線路です。
▼スノーシェルター奥で再びスイッチバック、三段目を通り三井野原に向かいます。
当時は、線路敷地内に入り撮影できた。上の画像も同じく、昨今ならとてもできない撮影です。
出雲坂根駅構内北側に延命の水があり、滾滾と湧きでています。当日及び翌朝の飯やおやつの即席ラーメンはこの水で洗い、炊きました。そればかりかこの水を沸かして地酒の燗をしたり、生で頂いたり。お蔭で今日まで大きな患いもなく命を永らえている有難いお水です。右の画像はこのお水を使い、即席ラーメンを炊き、二人が啜っている図です。
初日の撮影後は出雲坂根駅で、二人でステホの予定でした。駅の待合室で、先ずホエーブスのラジュースで飯を炊き夕食を済ませました。それから『ステホ30回』を記念して、地酒の熱燗で駅員も加わり祝杯です。酒は注ぎ口と弦の付いた、縦長の風流な錫製の器で温めました。勿論、延命の水で湯を沸かし燗をしました。その後ベンチで寝袋に入って寝るつもりでした。が、駅長が官舎でコタツに入って寝るように勧めてくれます。駅長自身は、二本の『夜行ちどり』など当直があり寝ないから、部屋は空いているとのこと。当日の学生二人の品行方正振りにいたく感心したのか、初対面の貧乏学生を疑うこともなく、駅長自身不在の自宅官舎を、コタツ付きで貸し与えてくれたのですから。
ステホの回数アップも未練だが、お勧めを断る訳にもいかず、二人で駅長官舎のコタツに足を突っ込みご就寝でした。その後の撮影行で官舎の風呂に入れてもらったことは一度ある(陸羽東線・中山平駅)が官舎で寝たのは後にも先にもこの一度だけです。明日は裏山に登り、スイッチバック三段を俯瞰しようと、暖かい部屋で眠りました。外は先日の雪がかすかに残る寒い夜でした。
★昭和38年12月31日
朝食の飯炊きは当然延命の水です。早々に済ませ、8時過ぎから撮影開始。
▼客420レ 機C56136【木】と415Dキハ023 C56曳く客車とレールバスの交換。
構内の様子が判る一枚、第1回のDRFC写真展に出品したもの。画面左手に、『延命の水』が湧き出ています。
10時過ぎ、駅南側の地道を上り、スイッチバック三段の見える場所に到達しました。
▼下り貨物、出雲坂根に接近。
ポイントを通過、駅に進入直前。
▼スイッチバックして出雲坂根を出発、列車後部がポイントを通過。駅周囲に、結構沢山の建物があるのが判ります。
▼第2段目を登坂。
▼更に登坂。左手に三段目のトンネルが見えます。湯口先輩の『周辺図』で、トンネル番号(1)です。
▼スノーシェルターで再び方向転換、トンネルを抜け三井野原に向かいます。
▼丁度出雲坂根駅の真っ直ぐ北側あたりを行く貨物、列車番号メモが見当たりません。
▼撮影時期の2年前の交通公社発行時刻表、1961年12月号。時刻、列車番号は撮影時とほぼ変りません。
tsurukame様
私が書物から引用した写真とは比較にならない すばらしい写真をご披露頂きありがとうございます。昭和38年の大みそかに 品行方正、前途洋々の若者2名が奥出雲の山中に足跡を残した確かな証であり、貴重な写真の数々です。木次区のC56はきれいに磨きあげられていますね。もうこの当時シールドビームを装備していたのですね。キハ55は旧塗装と新塗装が混在しているようです。駅の下にある数軒がひと夜を過ごされた官舎なのでしょうか。現在 駅舎の下は広い道路になっていますので 今度坂根を訪ねた際にはじっくりあたりを観察し当時の痕跡を探してみようと思います。半世紀前と大きく違うのは山々の様子です。家庭での燃料や冬季の暖房といえば木炭、石炭、練炭が使われていた時代ですから、山の木々は大切な資源だったはずです。戦時中はなおさらで、多分ようやく時代が落ち着いてきて 植林に手をつけ始めた頃だったのでしょう。第1トンネルの上あたりはそんな気配が感じられます。話はそれますが 昭和30~40年代の瀬戸内海の島々の写真を見ると殆ど樹木がなく、はげ山状態です。製塩の燃料に伐採したことと、終戦で引き揚げてきた島の若者に仕事がなく、やむなく食べるために山に段々畑を作ってイモを植えたためにそんな景観が生まれました。総本家氏撮影の昭和40年代後半の呉線の写真でも 背景に写っている島々がそんな様子です。そのイモ畑がのちに柑橘畑に変わってゆくのですが、この奥出雲の風景もいろんなことを語りかけてくれているようです。かつて花粉症などというものはなかったのですが、全国で一生懸命に植林した杉が半世紀を経て成長したおかげでスギ花粉が問題になっているのも この写真を見るとうなずけます。米手作市様やマルーン様から木次線ツアーを計画せよとの暗黙のプレッシャーを感じているところですが、湯口様はじめ諸先輩のこのような貴重な写真を拝見すると 三江線同様あまり先送りできない線区ですので、出雲坂根で延命水を浴びるほど飲む木次線ツアーをまじめに企画せねばと思い始めているところです。
キハ55:準急ちどりの姿、懐かしいですね。富山から大阪に転勤後2年ばかり山陰地区の担当を命じられ、松江、米子に行く機会がありました。最初は広島の代理店の担当者の車と言ってもマツダの軽トラックでしたが、2度目からは国鉄で単独行動となりました。夜行ちどりは22時を廻った頃の広島発で、満員になるから1時間以上前にならぶように言われ、担当者と駅前の食堂で一杯やって並びました。発車するや寝てしまい、スイッチバックで気はついても夜の山間区間とあって再び夢の中でした。地区担当と言っても代理店傘下の特約店の要請にもとずくもので気楽な仕事でした。翌日は伯備線経由で、または鳥取経由で岡山に出て大阪へのコースで帰社でした。年に3,4回あったかな、まだ自動車でウロウロする時代ではなく、皆さん地方出張を嫌がっており汽車に乗るのが好きな老人には打ってつけの仕事でした。2年後に様相は大変化を見せました。各地の1級国道の整備、高速道路(有料)の開通と続き、鉄道は大きな変容を迫られました。
西村雅幸様、乙訓のご老人様
コメントを感謝します。半世紀前がついこの間のような気がします。スイッチバックは全国にありますが、撮影したのは出雲坂根と立野、大畑、中在家くらい。その結果、出来の好かったのはごく一部で、他はあまり好くありません。撮影には大畑の様に場所が広大過ぎぬこと、スイッチバック全体が俯瞰できること、できたら見渡せる高い場所があることなど、場所的条件にもよるようです。半世紀前の出雲坂根は撮影条件が整っていたと言えるようです。現在は各地とも木が繁り、見通しが悪く、おまけに平地には雑草と蔦類が蔓延り、美しい日本の山野、山河、水田、田畑は半世紀で様変わりです。
話し変わります。西村雅幸さんの話で中国地方の鉄道が随分紹介されました。古くは呉線、可部線、山陽線、芸備線等、そして最近の三江線と。私も少しですが、デジ青に投稿しましたが、未投稿なのが伯備線・布原です。2度行き、今整理を急いでいます。なお、この時の一宿は線路小屋でした。
tsurukame様
是非布原の保線小屋宿泊記をご披露下さい。立野があんなことになってしまって、今では通り抜けができない現役のスイッチバックは出雲坂根だけです。出雲横田と三井野原間にはワゴン車の定期バスも走っています。木次線のこの区間は生活路線としての役目を終えてはおりますが、ここにしかない景色、景観があるのですから、接続ダイヤを工夫するとか 自転車持ち込みOKにするとかもっと知恵を絞って観光客を集めれば良いのにと思ってしまいます。かく言う私がマイカーで沿線を走っていたのでは文句を言う資格はないのですが。