永らくお休みしていましたが「スクラップブック」を再開します。家庭の事情でなかなか集中してスキャンなどの作業が出来ません。ボチボチと進めます。
当時では大きい事故とは言えないかもしれませんが、いまなら大事故でしょう。
昭和38年(1963年)ですが、まだまだ信号無視や居眠り運転が横行していました。
年が代わり、東京オリンピック・新幹線開通の記念すべき年となりました。が・・
⇩広島駅から東へ行った広島機関区との間の跨線橋から撮った写真でしょうか?
⇩この頃はまだ、地方鉄道には木造車が多かったのですね。
⇩車番がわかりませんか?
⇩やっとこの頃になって踏切に支障警報装置が設置され出しました。
1964.4.24の事故はクロ151-7です。
ほへほへ様
ありがとうございます。
これは、その後廃車でしょうか、復帰でしょうか?
もしお分かりならお教え下さい。
米手作市様
会員ではないものですが、こちらの記述が一番簡潔かと思います。
https://ameblo.jp/daruma-dennsya/entry-12256007657.html
D511162様
ありがとうございます。
私は電車には詳しくないため、改造復帰したように思い込んでいました。その場で解体!したのですね。見たかったです。
今後ともお付き合いをお願い致します。
米手作市さま
当時こんなにあったのかと改めて驚きますね。それ以前の大事故に慣れてしまったのか、高校生活の多忙から関心が薄れたのか、いくつかの事故についてはあぁあったなあくらいは覚えていますがほとんど知りません。最後の静岡での第一富士の事故ははっきり覚えています。数日間153系「替え玉」が走ったり、上越線とき用の181系クハを繋いだりして何かと話題の多かった事故でした。並行する静岡鉄道を利用して運転されたことがあったと記憶しますが、写真で見てもか細いレールで果たして通過できるのか不安になったものでした。実際にも種々の不都合があり、直ぐに取りやめになったと記憶します。
当時の国鉄は完全にたるみ切っていたようですね。こういう事故の積み重ねで現在の安全が確保されたということを重く認識しなければなりませんね。
静岡鉄道の線路を使ったというのは初めて聞きました。写真はあるのですか?151系は幅が広がっていたのにすれ違えたのでしょうか?いくらでも疑問が広がります。
米手作市さま
写真があったか、またそれを見たかについては確たる記憶がありませんが、当時ピク誌に投稿があったと記憶します。少なくともポイントを仮設したと記憶します。
時間が出来たらちょっと調べてご報告します。
米手作市さま
ネット情報をあちこち探してみましたが見つけられませんでした。当時見たと記憶している雑誌を発掘することも叶いませんので、記憶だけの話になりますから、静岡鉄道線仮設迂回の件は撤回いたします。意外に知られていないようです。
静岡鉄道線で東海道本線の列車を迂回させた史実はあるようです。
1950年3月27日、草薙ー清水間で上り貨物が脱線、上下線が不通になり、静岡鉄道は事故現場に並行する自社線を提供することとした。応急の工事で翌28日から29日に国鉄列車の迂回運転をした。この間、静岡鉄道は全面運休。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0e7b2713f349ca6ccb72dce8b082fcb32928ce00
「静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ」(2020年)に記述があるようです。
『RAILFAN』No.126(昭和39年6月)p.10に、「事故現場は操車場の近くであり、新幹線工事現場だったので、クレーン車やブルドーザーなどがすぐ使えたので、復旧作業は意外にはかどった。上り線は14時10分、下り線は19時45分開通したが、ダイヤの乱れは25日まで続いた」とあります。静岡鉄道の件は別の事故ではないでしょうか。
ここに書かれているようです。1900生さん、貴兄は間違っていません!
ただし特急富士の事故ではなく、乙訓の老人の甥さんが言われる、それより昔の貨車事故の時だったようです。
https://www.mapple.net/articles/bk/7979/?pg=2#ls_2
Mさんからメールでご連絡いただきましたのでご覧下さい。
こんな事があったのですね。
古い新聞記事を今一度見直してみるのもおもしろい研究になることを知りました。
Mさん、ありがとうございます。
皆様
記憶間違いを正していただき感謝と御礼を申し上げます。どこで記憶がくっついたのか定かではありませんが、富士事故の前に同様の事故があったとは。お騒がせして申し訳ございませんでした。