京都市電も撮影 (昭和50年1月~4月)
まだまだ“古古古写真”、続けます。先に昭和50年は、京都市電にとっては廃止も無く、安泰の年のようと記しましたが、時間を見つけては、来たる日に備えて、こまめな撮影を続けていました。▲車両面で見ると、ある事情で今までにない車両も現れた。それが赤帯なしのツーマンカーだ。市電は、合理化のためのワンマン化を推し進め、前年の昭和49年3月の烏丸線廃止で、ツーマン車である700、800、900形は姿を消し、ワンマン改造した1600、1800、1900形が占めるようになった。退職による自然減や、配置転換を行ったが、まだ余剰を抱えることになり、苦肉の策として、ワンマンをツーマンに戻すことになった。内訳は1600形(錦林、九条)、2000、2600形(烏丸)で、なかでも2000形は初めて見るワンマン表示の赤帯のない姿で、まるで別形式のように映った(烏丸車庫前)。
▲百万遍を行くツーマンカーの1600形、少し前まで見られた600形の再来のようだ。車掌の余剰問題も、昭和50年度末で解決し、まもなく“戻り”のツーマンは姿を消す。
▲百万遍の西北電停に到着の1600形、こちらは赤帯を入れたワンマンカー、背後に真っ赤なジーンズショップがあり、今から見ると、信じられないような外観の色だった。
▲東へ行って、銀閣寺の疏水前を行く2号系統、1600形、勘秀峰さんは、銀閣寺前で写してから嵐電桜のトンネルへ行ったとの記述があったが、私も同一日ではないが、接近した日に、いずれの場所へ行っていた。
▲正月の祇園石段下は、ほぼ毎年行っているが、時間帯、天候によって、ずいぶん人出が違う。この年は、思ったほどの人でもなく、写欲も湧かず、この一枚だけ撮って引き揚げた。
▲紫の1863さんも関心をお持ちの今出川通の“むしこ壁”の旧宅の横を行く、これまた珍しい「水色系統板の12号」が行く。たしかに今出川通を行くと、古い家並みはほぼ姿を消していることが分かる。
▲国立京都博物館の前を行く6号系統、1900形、京阪バスの半日定期観光バスが市電の後に続く。
▲京都第一日赤病院の屋上から見ると、手前を東山線の市電が行き交い、京都タワーがよく望めた。
総本家青信号特派員さま
懐かしい写真を拝見させて戴き有難うございます。ただ小生恥ずかしながら写真の2000型をはじめ、ツーマンに戻したワンマンカーがあったことを今まで知りませんでした。昭和50年といえば就職して5年目、当時配属先の経理部で決算と運賃改定業務に忙殺されていた頃でしたから、それどころではなかったのでしょう。写真の2004号車といえば伊予鉄市内線へ移籍した車ではなかったでしょうか。10年ほど後に環状線系統に乗った際に来たのが確か2004だったと思います。2000型は京都時代から台車のスプリングが軟らかかったのですが、この時も専用軌道区間のレール継ぎ目やポイント部でフワフワと揺れて時折上下動ストッパーが作用してゴツンゴツンとショックを感じました。久しぶりの乗り心地を堪能して、降り際に若い運転士に「京都でよく乗っていた、今でもバネが軟らかいね」と声をかけましたが、何を云うとんねんみたいな怪訝な顔をされて、あとの言葉が続かなかったことを憶えています。京都から来た電車だということすら知らない様子でガッカリしたものでした。
1900生様 2004は京都時代と同じ車番で松山市内で活躍しています。平成27年12月、クローバー会の広島ツアーで広電1900を貸切運転しましたが、その前日にW田氏とI伏氏の3人で1日中伊予鉄を追いかけました。古町車庫で2004を撮っていました。7月になるとW田氏の1周忌が巡ってきます。伊予鉄の写真を見る度に、お元気だったW田氏のあの笑顔が思い出されます。
はい、今出川浄福寺は関心があります。と言うより、総本家様の「むしこ窓と市電」を「京都の市電 昭和を歩く」で拝見し、今出川通でこんな写真が撮れたのかと衝撃を受けました。以来、その場所の「今」が見たくて仕方がありませんでした。
産業としての「西陣」はバブル期を最後に、衰退の一途をたどっています。今出川通には生糸問屋をはじめ、西陣織にかかわる業種が軒を連ねておりましたが、今は見る影もありません。「西陣」を関した金融機関もすでになく、跡地は背の高いマンションが建っています。
今出川通の浄福寺-智恵光院間の北側には、現在7軒の木造家屋が見られ、市電が開業した大正の初めにできたものと思います。総本家様のパクリ、いやオマージュした写真を撮りたくて出かけましたが、むしこ窓の旧家はすでになく、10階建てのマンションが建っていました。
添付の画像は今年の6月に撮影したもので、中央のマンションが「むしこ窓」の旧家があった場所です。マンションに挟まれた民家は、総本家様の写真にも写っています。
紫の1863様
なるほど、私の「むしこ窓と市電」をご覧になって、今出川通や西陣への関心が生まれたのですか、たいへん光栄なことです。たしかに、いまも仕舞屋風の木造二階建ては残っていますね。市電があった頃は、今出川通に、もっと規模の大きな機織、問屋が連なっていました。写真を撮っていると、“ガッチャン、ガッチャン”という機織りの音が聞こえてきたこと、いまも耳元に残っています。
総本家様
昭和50年の市電とサクラのコラボレーション、メモを見ますと4月9日に錦林車庫から百万遍まで歩いていました。3月30日に車掌の乗務したツーマンカーが消え、次は今出川・白川・丸太町の3線が廃止の対象、2系統とサクラはこれが最後かも知れないと思い出かけました。写真は農学部前手前の1658号です。総本家様の1600形にも選挙啓発の看板が掲げられていますが、昭和50年は4年に一度の統一地方選挙でした。京都府知事選や京都市長選にも看板が掲げられていました。市街地を走る市電にはそれなりの媒体効果もあったのでしょう。
勘秀峰さま
写真、ありがとうございます。私の疏水桜と市電は、撮影日がはっきりしませんが、市電には「4/13府市会議員選挙」の告知看板がありますから、それ以前と分かりました。市電ツーマンは、この年の3月末に終わっているのですね。勘秀峰さんのブログで知りました。形式、輌数まで記されていて、たいへん参考になりました。ありがとうございます。
懐かしい風景の数々に感激しております。百万遍のジーンズショップは青春の思い出が詰まった店で、この頃は上七軒から22系統の市電に乗って出かけたものです。壁面に見えるジーンズ(今はデニムと呼ぶそうですが)のメーカーも懐かしく、一番上には当時愛用していたブランドの名前があります。店員さんに奇麗なお姉さんがいて、接客してもらったのも良い思い出です。時は流れ、あの店はどんな色だったのだろう?と思い立ち、百万遍へ見に行きました。もう何年も前のことです。一階には花屋さんが入り、ビルは銀色になっていました。ところが今年に入ってすぐ、前を通るとシートがかけられていて、解体されるのだろうかと心配しました。しかし、改装工事だったようで、今は淡いクリーム色に塗り替えられています。添付の画像は今年の4月の撮影で、市バスに市電の代役を務めてもらいました。
おう、またまた私が発表する前に、見透かしたような紫の1863 さんの定点対比、恐れ入ります。なるほど1863さんにとっては、この目障りな?ジーンズショップは、青春の思い出なのですね。色は変わっても建物は変わっていませんね。となりのマクドも、建物はそのままに見えます。これからも、1863さんを感涙させる写真、載せていきますよ。
総本家様
昭和50年の冬には、雪の日の市電をカラーで撮影していました。この年は12月中旬に全学ストでレポートの提出だけで良い余裕のある日程で、高校時代には考えられなかった、平日の雪風景を撮ることができました。少し出遅れた感もあり、道路の雪は融けていましたが、何とかまとめられました。加茂大橋の撮影を終えて叡電に乗り、木野へ向かいました。昭和50年1月20日です。
昭和50年1月20日はかなりの積雪があったようで、通っていたM高校では雪だるまを作る生徒がいました。授業が終わると近くの鹿苑寺へ行って雪の金閣を写しています。途中の千本北大路で、市電も写しています。この頃は市電にあまり興味がなく、こんな写真しか撮れませんでした。今では街の風景も一変し、もっと周りの風景を入れるべきだったと猛烈に悔やんでおります。