夏休み日本縦断の旅 6日目② おもへば夢か時のまに

熱海から浜松までの所要時間は2時間半、ロングシートでの移動でしたが、思いのほか早く通り過ぎたという印象です。長旅に慣れてしまったせいかもしれません。

熱海から211系電車に揺られること2時間半で、浜松に到着。

浜松で乗り換えたのは転換クロスシートの313系。窓側に着席することができ、お昼時ということもあったので、浜名湖を眺めながらシウマイ弁当をいただきました。普通列車とはいえ、駅間距離も比較的長く線形が良いこともあって結構スピードを出していた印象です。30分ほどで豊橋に到着しました。

シウマイ弁当の掛け紙。

煙を水に横たへて わたる浜名の橋の上 (鉄道唱歌第一集 29番)

豊橋では、すぐの接続で新快速が発車するため、乗客のほとんどが新快速に殺到しました。私は先を急ぐわけでは無く、着席したかったこともあり、一本後の快速に乗りました。車窓や駅名を眺めつつ、「もうこんな所まで来たのか」という思いが湧きます。昼下がりの快速は名古屋周辺こそ少し混み合っていたものの、概ね空いていたため、ゆったりした移動時間でした。

豊橋から乗車した快速大垣行き。

大垣では、8分の接続で米原行きに乗り換え。大垣~米原間も313系による運用が増えていた時期でしたが、運良く311系に乗ることができました。車内は、一本前の新快速からの乗り継ぎ客で混み合っていましたが、空席もあり、着席できました。

大垣からは311系に乗車。この車両も今年の6月に引退した。

関ヶ原を越え、30分ほどで米原に到着です。ここまで来ると、もう家の庭にいるような感覚です。向かいのホームの新快速に乗り換えます。6日ぶりにJR西日本ひいては関西の電車を見て、「帰ってきたな」という思いが強くなります。12両編成の車内は空席が目立っていました。ここから1時間も走れば12両編成が混み合う区間に突入するというのが不思議に思えます。陽が傾き始めた近江平野の景色をぼんやり眺めるうちに、次第に住宅やマンションが増え、気がつけば瀬田川の橋梁の上。あっという間に東山トンネルを抜け、京都に到着しました。乗り継ぎがスムーズだったこともあり、気づけば京都に帰ってきたという感覚です。地下に降り、6日ぶりに烏丸線に乗って帰宅しました。(続く)

米原から乗車した新快速。そのまま乗り続ければ、姫路を越え播州赤穂まで行くことができる。

湖西線50周年記念ヘッドマーク付きの221系が出迎えてくれた。

6日ぶりに烏丸線に乗車。

夏休み日本縦断の旅 6日目② おもへば夢か時のまに」への4件のフィードバック

  1. 岡山好きの元京都人様

    JR東海の駅名標は簡潔な住所表記があるのがよいですね。車内で食べたシウマイ弁当はさぞかし美味しかったことでしょう。

    地元に戻ってきた安心感は束の間、新たな出発点になりますね。ここから一気に九州に向かうのでしょうか。次も楽しみです。

    • 奈良の駅名研究家様
      住所表記があると、おおよその位置を把握することもできますね。
      JR西日本でも、旧北陸本線の一部の駅で住所表記がある駅名標がありましたが、なぜ北陸だけなのか理由は不明です。
      シウマイ弁当は、この時初めて食べました。一度食べて見たかったことや初めての東海道線普通列車の旅ということもあり、とても美味しかったです。

      旅もいよいよ後半戦です。京都から西へ進む中で、次回は大好きなあの駅も登場します。お楽しみに。

  2. 岡山好きの元京都人様
    前回に続いて「鉄道唱歌」談義です。鉄道唱歌東海道編では東京(4節)、鎌倉(4節)近江八景(6節)、大阪(4節)が歌われていますが、京都は余程思い入れが強かったのか46節の「東寺の塔を左にて」から53節の「あとに名殘は殘れども」まで全66節のうち最大の8節が歌われています。
    この歌の初版が発行されたのが1900(明治33)年5月ですが、この時代には1906(明治39)年3月31日に『鉄道国有法』も公布され、技術の進歩や駅の増設、初版の誤謬等があり、作詞家の大和田建樹は東海道編の内容を、時代の変化に合わせて修正したいという思いがあり、版元も協力して「訂正鉄道唱歌」を出版することになりました。全編見直されましたが、主な個所は
    12節:「國府津おるれば馬車ありて」→「國府津おるれば電車あり」
    40節:「瀬田の長橋右に見みて」→「勢田の長橋左に見」*左右訂正
    46節:「驛夫のこゑも勇ましや」→「車掌のこゑもなつかしや」
    57節:「三府の一に位して」→「帝󠄁國第二に位して」*大阪市の人口2位に転落
    65節:「おもへば夢か時のまに 五十三次はしりきて」→「おもへば夢かときのまに 一百五十里はしりきて」*五十三次は京都までなので距離に訂正
    となります。訂正版が発行されたのが大和田の死後の1911(明治44)年1月となり、本人は見ることがかないませんでした。

    • 快速つくばね様
      大変興味深いお話をありがとうございます。
      京都について各名所や季節の情景、特産品等を細かく歌っているのは、大変嬉しく思います。
      『訂正鉄道唱歌』については、存じ上げませんでした。そのような経緯があったのですね。

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