どですかでん氏の投稿に続いて、tsurukame氏から奥山先輩の貴重な写真のご紹介があり 昨日来 奈良線の写真を改めて探すことと相なりました。奥山氏の写真を拝見して、撮影地点などを推測してみました。
(1)D51750牽く客レ
撮影月日が10月24日ということで この臨客は10月26日に開催される天理教秋季大祭に向けて全国から信者が天理に向かう臨時列車だと思われます。通常奈良線にはD51は走らず、このような長編成の臨客にD51が使われていました。
(2)632D
準急色のキハ55を4両もつないだ列車があったとは驚きです。たまたま私の手元に1961年6月号の時刻表がありますのでこれを見てみると 確かに632Dは王子発9:06 桜井線、奈良線経由京都着11:50の普通列車として走っています。しかし奈良線には当時準急列車は設定されておらず、強力なキハ55を4両も普通列車に組み込むのは不思議です。何かのアルバイト運用なのか、よくわかりません。この列車の先頭はキハユニ16ということですが、京都向きにキハユニ16を組み込んだ列車が1往復走っていました。従ってこのキハ55はうしろからの撮影だと思われます。
(3)C11157牽く 3713レ
撮影月日が1961年6月5日ということなのですが まさにこの月の時刻表を見ても定期列車にはこの列車はありません。臨時列車なのかと思われます。私の時代にはC11は片町線でしか写したことがなく、奈良線のC11の写真を初めて拝見しました。ところで 撮影場所ですが、背景に煙突のある工場が見えます。これはユニチカ(当時は日本レーヨン?)宇治工場だと思われます。従って宇治・新田間ではないかと推察します。
(4)臨3622D
これもユニチカバックの宇治・新田間と思います。
(5)C5851牽く貨物列車
C5851は奈良線や草津線、信楽線で何度も撮影したなつかしいカマです。しかし煙突の両脇に大きな除煙板?を付けた姿は初めてです。うしろのワムはオレンジ色の帯と急行と書き込まれたワムですね。遠くに工場の煙突、そして3本の腕木信号機(場内信号機)が見えることから、宇治駅北方、これから宇治川橋梁を渡ろうとしている地点と思われます。
(6)C5851牽く荷物列車
このC5851は上の貨物列車から約半年後の撮影で、変な除煙板はなくクルクルパーに替わっています。奈良線にはマニ2両の荷物列車が走っていました。県庁所在地である奈良市に向けて、関西本線経由より京都経由のルートが速かったのかもしれません。ところでこの撮影場所ですが、宇治・黄檗間だと思います。このあたりは京阪宇治線と並走していて、三室戸、黄檗、木幡と本数の多くて便利な京阪を利用してよく奈良線を撮りに行ったものです。
(7)キハ17 2連
奈良線の主力はキハ16、17で晩年はキハ35,36が幅をきかせていました。この2連は新田折り返しの区間列車だと思います。さて撮影地点ですが上のC58荷物列車と同じ地点です。私がここで撮影したコマをご紹介します。線路右手の建物に御注目。
この3コマはほぼ同じ場所で 南を向いて上り列車を 北向きに下り列車を撮っています。奥山氏の写真の背景にある背の高い木々でこの場所と特定できます。現在は丁度 京滋バイパスが通っているあたりでしょう。当時次第に宅地化が進んでいましたが、田んぼもあって のどかな風景でした。私の写真では不鮮明ですが、もう一つの手掛かりに、高圧送電線と高圧鉄塔があります。これは現在と位置が変わっていないので、撮影地点の特定に有用です。
(8)DF50重連お召列車
奈良線に架かる長い鉄橋と言えば、まず鴨川、そして宇治川、木津川の3本しかないと思います(天井川をくぐるトンネルはありましたが)。そこでこの場所ですが、まず鴨川ではありません。宇治川か木津川かとなりますが、水面からの高さから見て 宇治川橋梁だと思われます。木津川はもっと橋脚の背が高いのです。私の宇治川鉄橋の写真をご紹介します。
思いがけず奈良線でテンションが上がりました。私が最も多く撮影していたのは自宅近くの稲荷・桃山近辺でした。ご承知のように国鉄奈良線の歴史をたどると、京都・稲荷間は旧東海道線で、複線用地がそのまま残っていました。鴨川橋梁の橋脚、稲荷駅のランプ小屋などにもその跡を見ることができます。名神高速道路は旧東海道線跡がそっくり利用されています。一方 奈良鉄道は現在の近鉄京都線のルートで京都から桃山へ向かっていました。そして東海道線の東山トンネル開通で京都・稲荷間は奈良線となり、稲荷から桃山までは丘陵地帯を多くの切通しを作ってつながれました。名神高速から南側からはほとんど開けた場所がなく 撮影には不向きでしたので、桃山駅周辺をよく歩き回りました。乃木神社近くの切通しも格好の撮影場所でした。また当時 各地に旅行する際には連続切符をよく利用しましたが、桃山駅の出札窓口に学割証を持って連続切符を作ってもらいに行きました。駅員さんに「作っておくからあとで来てくれ」と露骨にイヤな顔をされたことを思い出しました。そんな思い出のある桃山駅でもあります。
手元に残っていた連続切符をご披露します。大学2年から3年になる春休みに関東地方の私鉄めぐりをしたときのものです。大垣からグリーン車で上京したようです。帰路の東京・京都間の乗車券が見当たりませんが 帰路を除いて1週間の乗車券が1780+1250=3030円とはウソのように安かったのですね。
ダラダラと思いつくまま長文になりましたが、tsurukame様、奥山様ありがとうございました。
西村様
早速に、しかも詳しい解説をありがとうございます。わずか半日ばかりの短時間に纏める早業に感心しました。私なら数日はかかるところです。そして地元とは言え、背景の煙突、高圧線鉄塔のみならず、川の水面、橋脚の高さからも場所特定の尺度にされるなどまたまた感心しました。奥山さんと同じ場所もありました。よく判りました。そればかりか豊富な地元の話題。離れて住まれているからなおさらでしょう。
このコメントを書き終わったら、乙訓の老人のコメントに答え、奈良機関区のC51を7枚アップの予定です。やはり奥山さんの撮影です。
さてさて、今回の話題はどこまで続くやら、何人が参加されるやら。
西村さん、老人が所持している1969/12時刻表では632Dは奈良始発7:52普通で京都9:02着となっておりますが、9:21発の急行しらはま1号と言うのが設定されていますので、折り返しこれに充当されるならキハ55らしい運用になりますが如何でしょうか。
奈良区にC51が配置されていることで思い出したことがあります。1950年11月、修学旅行に参加できなかったクラスメイトに生姜糖を届けに転居先の大阪の平野まで行きましたが、その時に平野駅にやってきた奈良からの通勤快速列車はC51牽引でした。と言うことは戦後間なしの頃から奈良線もC51の舞台だったのですね。でも桃山へ酒樽や酒瓶を引き取りにワムをバック運転で牽引して行ったC51は梅小路区のものだったと思います。高橋から自転車を走らせ梅小路区に行って原車を見たように思います。奈良のC51は京都駅構内のターンテーブルで向きを変えて奈良に帰っていたのですね。これを見るのも楽しみの一つでした。
乙訓のご老人殿
さっそくのコメントありがとうございます。確かに「しらはま」がありましたね。和歌山線経由なら北宇智の勾配区間もあってキハ55も納得です。ただ奥山氏の撮影年が1961年3月ということですので 判断つきかねます。奈良にC51がいたこと、奈良線の貨物を牽いていたことなどは全く知りませんでした。C51は亀山に生き残っていたC51240と梅小路の124号、271号の3両が私の出会ったすべてです。tsurukame様が投稿して頂いた奥山氏のC51写真を新鮮な眼で見せて頂いたところです。桃山駅の貨物ホームには一升瓶を入れた木枠が山積みされていて、丁度年末の今頃になると 伏見の清酒を満載したワムの扉には「ワレモノ注意」の赤札がくくりつけられ、上り貨物列車には桃山駅でこのワムが何両も増結され 普段の3倍以上はあるでしょうか、定数一杯一杯の貨車を牽いたC58が赤札をピラピラさせたワムをあえぎあえぎ、ゆっくりゆっくり通過していったのが思い出されます。当時はまだ紙パックもペットボトルもなく、液体は樽やガラス瓶で運ばれていたのがウソみたいです。