もう桜の季節になったのにもう少し激寒の季節の話を・・・
上野駅から高崎線、上越線を経由して越後鹿渡に行くのは準特急さん、大津の86さんと私である。しかし、飯山線へは越後湯沢からほくほく線で十日町からと、越後川口から飯山線に入るルートの2つがある。とにかく、行ってみないと雪の状況がわからない。状況を見てから、どうするか考えるしかない。上野駅8時39分発の高崎行快速は3名を乗せて順調に北上する。上尾駅を通過。なぜか実際にはなじみがないのに覚えている。上尾事件が頭にこびり付いているからである。そんな話をしていると、左には遠くに富士山が見え、右には国定忠治の赤城山が見える。上州といえば新田郡三日月村の生まれ“木枯らし紋次郎”。我々3人は渡世人のようなものである。堅気さん(地元の人)には迷惑をかけてはいけない。これが渡世人の仁義である。鉄の渡世人の中には堅気さんに迷惑をかけるものが時々見受けられるが。
高崎で水上行きに乗り換える。山間部に入ると雪になる。水上でまた乗り換えである。気分転換になると考えればいいのであるが、めんどくさいし、足が悪い人などには乗り換えはたいへんである。となりの同じホーム上で乗り換えであればよいのであるが、跨線橋を渡るとなると一苦労である。雪国は特に階段が滑りやすくなっているので注意が必要である。越後湯沢を過ぎ、大沢駅で大津の86さんははくたかなどを撮影するために下車をする。私と準特急さんはさらに先の越後川口に向かう。そこから飯山線に乗って、二つ目の駅である越後岩沢に行く計画である。越後岩沢駅は飯山線で駅が開設した当初の状態で現存している唯一の駅である。準特急さんは昨日のわあわあ会で私の計画を聞いて越後川口経由の切符を買われたので、準特急さんとの飯山道中膝栗毛となったのである。
越後川口には13時16分に到着である。ここで食事をしないと鹿渡に着くまで何も食べられないことになる。飯山線の列車は14時13分発であるから時間はあるので食事をすることにする。
駅員さんになにか食べるものを売っている店を教えてもらい、駅からまっすぐに行ったところのスーパーを教えてもらう。ちょうど、弁当が2つ残っていた。スーパーには弁当などが食べることのできる席があり、少し遅い昼食となる。食べ終えると列車の時間が迫っていた。駅へ戻って飯山線の列車に乗る。列車はキハ110系2連である。国鉄時代の気動車と違って座席も座り心地が良くなっている。越後川口から10分ほどで二つ目の駅である越後岩沢に到着した。
はっきりと覚えていなのであるが、ここで降りたのは我々だけであったような気がする。次の十日町行は16時7分発である。まだ、1時間30分ほどあるが、その前に越後川口行きが来る。どこかで写真を撮ろうと思って、斥候に出て行った。準特急さんは駅に残ってもらう。踏切を地図で探して越後川口方面への道を行けるところまで行く。途中、地元の人が屋根の雪下ろし作業をしておられた。じゃまにならないように歩いて行く。地図では線路の反対側に行ける幅の広い道があり、踏切があるが除雪はされていないので通れない。踏切の向うは地図で見ると人家がなく田んぼである。多分、行く必要のないところであるから除雪されていないのであろう。駅に戻りだすと、雪が降りだしてきた。こんな時に富山で買ったフード付きのコートが役に立つ。向うからおばあさんが来られたので、挨拶をすると話しかけられた。“どこから来なさったのか”と聞かれたので、奈良から来たというと“まあ、まあ、それはご苦労様です”と言われ、世間話をする。雪のことを聞くと、雪が多くなったのは年が明けてからで、昨年末までは雪があまりなかったとのことであった。しばらく、話をしてから別れて駅に戻った。駅では準特急さんが駅近くにおられた人に線路の向う側に行ける踏切を聞きかれたようである。駅から見ると十日町側の線路の南側(駅から北側に町の中心部になっている。)に人家がある。間違いなく、踏切は除雪されてあると思う。30分ほどで越後川口行きの列車が来るので踏切の所に急いだ。駅から400mのところに線路の方に行く道があった。多分、この道を行くと踏切に行くであろうと左へ曲がる。道は登り道であり、除雪された雪が壁のようなっているので見い通しがきかない。ところで歩いていると硫黄臭(一般的に硫黄臭と言われているのは硫化水素の臭いである。)がしていたので温泉でもあるのかなと準特急さんと話をしていたが、これは後で理由がわかった。ついに目的の踏切に来たが雪の壁が出来ていてどうも具合が悪い。写真を撮ったがあまりよくない。
とりあえず駅に引き返して、16時7分発の十日町行きを再び撮ることになって、先ほどの踏切へと向かう。最初に歩いている時に気になっていたのであるが、電気工事会社の建物がどうもちょっと雰囲気が違っていたのである。この建物はひょっとしたら学校ではなかったのではと話しながら歩いていると、同じ方向に歩いている人が廃校になった建物を利用したとものであると言われた。先ほどの踏切の所に来た。撮影ポジションを探すが難しい。そして、何とか撮ったのが下の写真である。
シャッターを押すタイミングが少し遅かったかもしれない。まあ、ぎりぎりでOKと思っている。さて、駅へ引き上げる途中でおばさんがいた。どういうイキサツで立ち話となったか忘れてしまったが、我々は40~50年前に学生時代に汽車を撮りに飯山線に来たことがあったので、再び訪れたことなどの話をしていた。すると、ちょっと私の車を見てくれるといって倉庫(実は車の車庫であった。)のシャッターをがあ~と開けた。中に軽自動車が入っていたのである。車を出すのに除雪が大変らしい。ところでこのおばさんは結構な年配の方であったが、登山によく行くらしい。大変、元気な人であった。ところで臭いについて聞いたら、堆肥に雪が覆っているので、それが発酵している臭いであることがわかった。列車の時間も近くなってきたのでこのおばさんとお別れして駅へと向かう。
十日町行きは17時10分発である。その前に越後川口行きがやって来た。雪が降っているので薄暗い。走り去っていくのを見ていると取り残されたような感じがする。旅をしているから感じられる非日常である。
越後岩沢を発車してから、しばらくは外の風景が見えていた。この列車は十日町で乗り換えのはずであったが、そのまま、戸狩野沢温泉行きとなった。飯山線は豊野から十日町までは飯山鉄道で十日町から越後川口までは鉄道省十日町線であった。昭和19年に飯山鉄道は買収され、十日町線と合併して鉄道省飯山線となった。その名残が残っているのだろうか。十日町を発車して17時54分に越後鹿渡に到着する。
“しかわたり館”は駅からすぐであることがわかっていたのであるが、不覚にも迷ってしまった。お店屋さんらしき所に入って、“しかわたり館”がどこか聞いた。雪の壁と暗かったので、明かりのない看板がわからなかったのである。除雪された雪の山の向うに“しかわたり館”の電気で照らされた看板を見てほっとした。到着である。
翌日の上境でのお墓まいりはいかに・・・ つづく
越後岩沢で雪に囲まれたガレージのシャッターを開けて自分の軽自動車を見せてくれた女性のご老人。こんな雪深い田舎でおしゃべり相手が見つかって嬉しかったことだと思います。若い人よりもご老人の方が人懐こい様に思いますが、私も歳ですのでよく分かります。こういうのも旅の面白いところでしょうね。それにしても単行の気動車をまともに撮れないくらい両サイドに高い雪の壁がありましたね。一人では心細くなるような雪国の夕方でしたが元気な「どですかでん」さんがいて気分的に助かりました。
準特急様 コメントありがとうございます。旅行中に道を尋ねたりするのは年配の方にすることが多くなります。そうすると、どうしてもあれやこれやと雑談になって時間が長くなります。昨年5月の北近畿タンゴ鉄道ツアーの前日に丹後神崎駅近くで由良川橋梁の写真を撮ろうとした時に対岸の由良に行くには橋がないのに地元の人はどのようにしているか地元の年配の方に聞いたら、話が長くなって気が付くと列車が鉄橋を渡る音が聞こえたことがありました。同じように姨捨でもついつい話こんでしまいました。どちらも同じような年頃?なので話やすいのではないかと思います。越後岩沢では私一人では今回のような展開にはなっていないのではないかと思います。準特急さんがご一緒していただいたので私も楽しくすごせました。なかなか面白い鹿渡行きでした。