こんなモンもありまっせ!

小学校時代からの写真を整理していると「これはなんや?」と撮した本人が首をかしげるモンに出くわします。ちょっとそんなモンを数枚ご覧に入れます。

向日町運転区が出来たのはちょうど中学を卒業する頃です。まだ新幹線もない田んぼの真ん中にダンプが砂煙をあげて整地されていきました。やがて線路が敷かれ、建屋が出来てきましたが、架線が引かれるのはずっと後になってからでした。
その頃の運転区は多分に漏れず出入り自由(とは国鉄は言っていませんが)で、カメラを持って日参していました。この写真はそんな頃に撮りました。

都ホテルの従業員バス

当時のムコテンはDC特急の基地。乗務する従業員の送迎に都ホテルが準備したマイクロバス。一気に増えた特急食堂車への意気込みが分かります。

急行なにわ食堂車

同じ頃、京都駅で撮った急行なにわの食堂車。当時は急行にも食堂車があったのですね。おもしろいのは板前さんの頭上にあるメニューです。
こはだ・あなご・いかは15円(多分一貫)、ひらめ・まぐろは20円、赤貝・しゃこは25円なのにのり巻きが40円、キュウリ巻が50円!多分一本なのでしょうがなにかアンバランスでは?

ここで問題です!
次の写真を見てなにがヘンなのかを考えて下さい。ヒント:機関車はC51です。

C51259

この写真は撮影場所がわかりません。なので撮影時期もわかりません。

 

こんなモンもありまっせ!」への20件のフィードバック

  1. 部外から失礼します。
    C51259は1961年に山陰線の米子を中心に何回か見かけました。事故復旧の際キャブとテンダーがC57タイプにされたのではないかと思います。C57キャブは、このあと吉松で272を見ています。

  2. 村樫四郎様、
    ご名答でございます。
    事故復旧時にキャブとテンダーをC57に替えたものだと、後に知りました。撮影時は「なにか違うな?」という違和感を感じていましたが、ハッキリとした認識もなく撮りました。しかし、C51もなかなかの男前になるものですね。他にも272があるとは知りませんでした。これで米子での撮影と分かりました。ありがとうございます。

  3. 米手作市様
    またまたお宝写真のご披露ありがとうございます。架線のないムコテンには行ったことがありませんので、非常に新鮮に拝見しました。雨が降ろうとヤリが降ろうとムコテン通いをされていたのでしょう。都ホテルのバスのカットに小さな女の子?が写っているのはなぜでしょうか?このバスの左端にチラッと気動車が写っています。ムコテンの通勤車キハ0643だと思われます。昭和44年当時もこのキハ06はおりました。最新鋭のキハ82と並んで異彩を放っていました。サハシの写真もなつかしいです。一度母とこの電車急行に乗ってカウンターでにぎり寿司を食べたことがありました。電車急行の食堂車はビュッフェと呼ばれて、テーブル席がなく 立ち食いばかりだったと思います。寿司はあまり火を使わないので食堂車に適していたのかもしれません。バカな瑞風などに金を使わず、新幹線にすしバーを復活させる方がよっぽど外国からの観光客にウケると思うのは私だけでしょうか?

  4. 湯口先輩、
    ありがとうございます。
    村樫様ご指摘の通り、重油併燃のためのタンクだと思います。

    西村様、
    お尋ねのムコテンにいた女の子ですが、記憶によると当日はどこかの見学会があったように思います。小学校か町内会かではないかと思います。
    気動車は職員送迎用に向日町駅とムコテンを往復していました。でも、よく気がつきましたね!書こうかと思いましたが、チョットしか顔が出ていないので分からないだろうとタカをくくっていました。
    サハシで寿司を食ったとはうらやましい!これとかオシ16などが今もあればと思います。バカな瑞風には大賛成します。

    でも、楽しいですね!こんなスナップでも皆さんからのリプライが来て、ホームページが盛り上がって、こんな嬉しいことはありません。他の方も一杯書き込んで下さい。

  5. 米手作市様
    向日町区については小生にも印象に残る思い出があります。
    当時は摂津富田から京都の予備校に通っており、広大な敷地に建屋が出来る様子を毎日車窓から見ながらの通学でした。
    合わせてキハ82系の気動車が次々と増え、見る間に特急気動車群が出現したのに目を見張ったものです。
    そして時刻改正前日には同区に出向いて『白鳥』をはじめ『かもめ』『まつかぜ』『みどり』などが勢揃いしている中をカメラを持って忙しくシャッターを切って回った時の高揚感は未だに忘れられません。
    当時、同区の実態は『気動車区』そのもので、『運転区』として発足したのかどうかの記憶が定かではありませんが、西日本一帯(いや、青森~宮崎まで)をカバーするに相応しい大規模区でした。
    確か未だ客車区については大キトが存在したとの記憶も有り、まさか伝統の大キトが、あっけなく吸収され消滅するとは考えもしませんでした。
    小生の自己満足いっぱいの自慢は、この時未完成のヤードで撮った『かもめ』&『白鳥』や『かもめ』&『まつかぜ』の並びをフレーム一杯に収めた『自分に取っての青春の1ページ』が鉄道誌に採用掲載された事です。
    久々の『大ムコ』ネタに反応した私でした。

  6. 河昭一郎様、
    同時期に同じ空気を吸っていたのですね。このHPを介して50年前の思い出が共有出来るのも同好の士であればこそです。これからもよろしくお願い致します。
    さて、この時もまだ大キトは存在しました。そもそも大キトは梅小路機関区に隣接して西側に広大な留置線を有していましたが、京都駅の南側、奈良電に面したところにも分駐所があり、西の端は堀川通りまで延びていました。そこでは車内のゴミを掃除するゴミ捨て場があり、弁当ガラに混じり陶器の茶瓶がうずたかく積まれていたのを覚えています。お召し列車が入るとお帰りまで留置されていました。そんな写真もまたお見せ出来ると思います。

  7. 米手作市 様
    花咲か爺さんのように、次々と掲示板に楽しい画像を咲かしていただき、ほんまに懐かしい限り。急行なにわの食堂車、中央窓の下部に少し紙ナプキンが写っています。今はほとんど見られなくなった三つの山が並んだように三角に折った紙ナプキンがスタンドに入れられています。女性給仕さんが暇なときに折っていたのです。今では機械折りの長方形のものが全盛で、手折りの三角折りナプキンを使う店は絶滅危惧みたいな店ですが、頑固親爺が昔ながらやっている洋食屋が多く、美味しい店がほとんどです。
    家業の紙ナプキンが、昔の姿で鉄道写真に出てくるなんて、あ~嬉し。ええもん見せて
    もろた。

  8. 大阪通信員様、
    紙ナプキンにそんな深い歴史があるとは知りませんでした。それだけでも投稿した意義がありました!皆さんが取り置いている写真にもこんなモノがあるんでしょうね?

    ところで先日、後輩から「清水三重子さんと和田平助さんはどんな方ですか?」と質問されました。

  9. 米手作市様
     暫く留守にしておりましたが、凄い盛り上がりですね。このシリーズはさすが!お宝満載ですね。
     食堂車は時刻表には、日本食堂、帝国ホテル、都ホテル、新幹線からはビュッフェ東京が加わったようですね。食堂車は正直縁深いものではありませんでした。列車で食事というのは「あこがれ」でした。今回の写真を拝見して、こういう風にして、営業が始まるのかと改めて認識することが出来ました。
     田舎者から見ると、「なにわ」「六甲」「せっつ」等々電車急行もあこがれの的。そのビュッフェでは寿司が食べられるということは聞いておりましたが、これも改めて確認出来ました。
     北陸線に471系の電車急行が投入され、「ゆのくに」や「立山」のビュッフェでは、寿司ではなく、「そば」「うどん」の麺類が食べられたようでしたが、残念ながら食したことはありません。こういう時代はもう来ないのでしょうか?
     獅子文六著「七時間半」という小説があります。どなたかの紹介で読んだことがありますが、あの時代の列車特急のシーンをいろいろ想像出来、面白かったです。筑摩文庫から出版されているようです。
     有り難うございました。

    • こんばんは  偶然にも会長さまが投稿された直前に「七時間半」を購入しておりました。古本コーナーのワゴンの中からで、ロクに中身も確かめずに、でしたが、、、
      まだちょうど読み出したところですが、電車化前の青大将のことを「婆さん芸妓の化粧直し」などとあり、先が楽しみです。

      • タイムスリップして楽しんで頂けること、間違いないと思います。この小説は東京の始業シーンから始まりますが、京都だったら都ホテルのバスになるのかな?獅子文六さんは「箱根山」も面白かった思い出がありますが、良い作品があれば、是非紹介して下さい。

  10. 老人の中学時代の同級生が列車コックをやっていて、同窓会で話を聞いたことがある。当時厨房が電化されだしたが、火力が弱くて腕の振るいようがなくダメ。昔ながらの石炭レンジなら、スコップでちょっと石炭を足すだけで、ビフテキがうまく焼ける、といっていた。仕事は結構大変だったようだ。学生当時食堂車というより先に、食堂車が連結されている列車なんぞに乗ったことがなかったので、ただ聞くだけだったが。

  11. yuguchi先輩様、
    北陸トンネルを通過中の「きたぐに」の食堂車から出火して、大変な惨事となりました。その時使われていたのがオシ17で、レンジが石炭仕様だったための事故でした。

    • KAWANAKAさん
      出番ですよ~。
      火災事故は下りきたぐにで発生したものですが、この数時間後に通過する上りきたぐにの寝台車に会員の同氏が乗車されていたのです。後に聞いた話では早朝の福井でたたき起こされ、代行バスを待って敦賀へ行き、列車に乗り継いで帰宅されたのは夜だったそうです。
      この話にはちよっと経緯がありまして、当該寝台券は当初は小生が使用する予定で購入したものでした。
      当時は羽越本線・米坂線・只見線等にまだSLが残っていて、これらを撮りにでかけたのですが、この旅からの帰阪用の寝台券でした。
      ところがたまたま彼もほぼ同時期に東北へ出かける予定であることがわかり、彼の最終日と小生の初日を日程調整して一緒に笹川流れで撮ることにしました。幸か不幸か仕事の都合で小生の旅程が一週間遅れになったため、前述の寝台券が浮き、いっぽう同氏は秋の紅葉シーズンとあって指定券等の入手がままならず、小生の寝台券を譲ることになったわけです。
      この事故を想定して譲ったわけでは決してないのに、後々「お前の寝台券でエライ目に逢うた」と苦情を言われて参りましたねえ。
      しかしこの事故を契機として、小本線でのナハ10実車火災実験等をふまえて列車火災時、とりわけトンネル内での取り扱いが改められ、それまでの「まず停車し消化を」との方針が「とにかくトンネル脱出」とされたほか、客車の貫通扉のガラス等の構造を類焼しにくいものに改めるなどの改良が加えられたのは事故の教訓が生かされた好例になりました。

  12. こんなもんありまっせの投稿からきたぐにトンネルの火災まで話題が広がり、1900生氏の暴露話が出てきたので、ついでに悪乗りします。
    当時から1900生氏は、乗りそうな指定券をいっぱい買いまくって、どうころんでも対応できるようにしていました。
    ときどきそれを利用させていただいたということがありました。火災の時は初めは弁当が国鉄から差し入れがあり、それから優等列車の客は優遇されて優先的に連絡列車?に乗せてもたっらりしましたが、ついにトンネルを通ることは当然できず、バスの代行となりました。この時点で優等列車の扱いはなくなり、列を作ってバスにのり、暮れ行く日本海の荒波をみて、敦賀、米原・・・と帰ってきたのでした。
    さてビュッフェですが、東海道急行は2輌のビュッフェの間にサロが2輌挟まっていて、サロの客はどっちのビュッフェへも行けて、なおかつハの客によるロへの侵入がないようになっていました。さすがです。九州から上ってくるときは2輌のロ以外にハが挟まっていました。がビュッフェは立ち席ではなく窓側に椅子があり、ゆっくり食事ができましたね。食堂車をロケの最後に始末して余ったゼニを散財するのは締めくくりの楽しみで、急行つくしの利用、きたぐにの朝食そのあと出勤(火災ではこれができなかった)が楽しみでした。
    しかし、トンネル事故のあと、これが理由で急速に食堂車が悪いと廃止になっていったように記憶します。これに限らず今でも、理由をこじつけて、それを恰ももっともだと言うメディアのせいで鉄道をつまらなくしている、さらにボディーブローのように鉄力を殺いでいると思いますが、どうですかね。

    • ビュッフェと食堂車の衰退については同感です。きたぐにの火災事故も食堂車が悪いのではなく石炭レンジが問題だったのですがね。衰退の流れには時代背景も当然影響したはずですが、近年の3セク等による「〇〇食堂」の人気ぶりを思うと工夫次第で存続できた可能性もあったのではと思われます。
      また当時は10~12両という58系などの長編成DC急行用にキハシが出来ないかと期待しましたが、これはついに実現しませんでした。
      もう一つあの火災事故に伴いナハ系の客車が消えてゆきましたね。実験の結果軽量化を目的に採用された内装材の難燃性に問題があるとされたためですが、おかげで東京発着で一往復だけ残っていた昼行客車急行「高千穂・雲仙?」の編成が、殆ど近代化されたオハ35やオハフ33に変更されてしまいました。それはそれで楽しかったのですが。

  13. 1900生さま、KAWANAKAさま、
    一枚の写真から旧悪が暴かれて、さぞ忸怩たるものがあるでしょう。
    でも、こんな事件を笑い話に出来るのも掲示板のおかげですね~!

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