和歌山紀行、続けます。“た~ちゃん”は現役時代、昭和32年12月、同35年3月の2回、和歌山を訪れています。2回とも、和歌山市内線を撮影・乗車のあと、市内線の終点 近くにある野上電鉄日方駅を訪れています。車庫も隣接していて、事務所を訪れると、30歳代の車両課長に応対してもらい、いろいろな話をしてもらったと述懐しています。中小私鉄ならではの悲哀も聞き、この時の会話が、全国の中小私鉄に目を向けるきっかけになったと言っています。
野上電鉄と言えば、廃止直前の姿しか知らない私など、阪神・富山地鉄から来た小型車という印象が強いのですが、それらが入線する以前で、10両の電車が在籍していました。
△ 和歌山市内線の「野上電車前」で下車、目指す野上電鉄の駅・車庫はすぐだった。
△ 野上電鉄日方に到着した、当時の最新車両31号、集電はポールだった。ホーム一面の終端駅で、続きに車庫があった。
野上電鉄が廃止されてから、20年以上が経過したが、当時を思い出すと、日方を出ると、すぐに連絡口のホームがあり、国鉄海南駅と連絡していた。連絡口は、日方の構内の一部と見なされ、運賃計算も同一だった。特異な構造の駅だが、これは、国鉄、市内線、野上3者の成立をたどると理解できる。最初にできたのは野上電鉄(当時・野上軽便鉄道)で、大正5年に開業し、日方駅を設けた。大正13年に国鉄紀勢東線が開通、近くに日方駅を設けた。そして市内線が昭和4年に開業し「野上電車前」の停留場を設ける。終点は少し行った内海だった(のちに海南駅前と改称)。昭和11年に付近の町村を合併して海南市が誕生、国鉄日方駅も海南に改称された。野上に連絡口ができたのは昭和24年だった。
△ 23(モハ20形) もと阪急の1形、つまり箕面有馬電軌の創業時に造られた栄えある1形33両のなかの26号を出自とする。1形はその後、さまざまな改造を受けるが、26号は丸屋根で角ばった車体に改造された。書類上は大正3年汽車会社になっている。△ 24(モハ20形) これももと阪急の1形、3号が出自、こちらはモニター屋根のままで、箕面有馬時代の面影を漂わせている。△ 26(デハ20形) 車体はもと阪神の701形710で、電動機・台車は南海のものを利用して組み合わせて、昭和32年にデビューした。こちらは2扉。△ 31(モハ31) 車体はデハ23の中央部を延長、下回りも流用で、昭和33年にできた最新の電車で、窓は二段、上固定、下上昇式となった。デハ23の出自は、八日市鉄道のレカ101で、戦後に購入して電車化した。△ 101(クハ100)昭和3年の路線延長時に増備の単車のデハ6を戦後、自社で車体延長し、ガソリンカーの台車を履いてボギー車となり、クハ化された。△ 102(クハ100) 101と同様に単車デハ7を車体延長、ボギー化して、クハ化、朝夕のラッシュ時にM+Tcとして使用された。△ 103(クハ100)もと八日市鉄道のレカ102を購入、電装してデハ24(初代)とし、のちにクハ化され103となった。出自が同じモハ31と同系の車体をしている。△ 3(デワ3) 唯一の電動貨車で大正15年製、貨物輸送に従事するほか、国鉄線との貨車受渡しにも使われる。△そして車庫の片隅に、阪神から移って来た601形604が番号もそのままに置かれていたのを発見、同車はその後、モハ24となって再起、ほかの阪神車両とともに廃止の日まで活躍する。