鶴見線大川支線を訪れるには、前項のように、分岐駅の武蔵白石にはホームがないため、ひとつ鶴見寄りの安善で乗り換える必要があります。訪れたのがちょうど冬至のとき、関東では、関西より20分は早い日の入りを迎え、16時30分になると、周囲はもう薄暗くなりました。決して優れた風景ではないものの、目障りなものも隠してくれて、あたりは暮色に包まれました。そんななかに、見掛けはごく当たり前の列車ながら、異色の列車が到着しました。
◀高圧線を併設した背の高い架線鉄柱も、最近はあまり見かけなくなった。暮色の安善に到着したのは……。
▲16時44分、安善に到着した1605レ、鶴見線の定番、205系の3両編成だが、始発は弁天橋、終着は武蔵白石、この間たった1.7km、わずか5分の列車だ。これは営業列車として阪和支線の鳳~東羽衣の列車と同じ距離、日本一短い列車と言われている。阪和支線は終日の運転だが、鶴見線では1605レだけの設定である。なぜこのような設定があるのか、よく分からないが、ちょうど夕方ラッシュ時に当たり、車両基地のある弁天橋から直接、営業列車として出区したと言うところだろうか。車内はほとんど人の気配がないが、ちゃんと車掌も乗務するツーマン列車、律儀に出発喚呼をして、つぎの終着駅、武蔵白石へ向かって行った。
海芝浦へ
海芝浦方面へは浅野での乗り換えとなる。駅構内は扇状になっていて、鶴見線は島式一面二線ホーム、海芝浦方面は相対式二面二線ホーム、両線の間に駅舎があるのは、小野田線雀田駅や鳴門線池谷駅などの分岐駅と同じ構造だ。鶴見臨港鉄道の設立者で、浅野財閥の浅野総一郎にちなんで名付けられた。
全く余談ながら、初めて自分の小遣いで買った「鉄道ファン」6号(1961年12月)に「関東の国電」特集があり、憧れを持って熟読した。このなかに浅野駅で写された、ガスタンクをバックに発車するクモハ11+クハ16の写真がとくに印象的だった。「撮り終えると、助役さんが熱いお茶を注いでくれた」とのコメントも忘れられない。国鉄のサービスが最悪だった当時、こんな親切な職員がいるのか訝かったが、撮影者は国鉄のエライさんだったことで納得した。
▲浅野を出て、中間駅の新芝浦を過ぎ、わずか4分で潮の香り漂う海芝浦に到着。
浅野を出て、事業所の私有道路を横断した後、旭運河沿いをしばらく走ると新芝浦に至り、複線区間はここまで。駅正面が東芝京浜事業所の正門。新芝浦を出ると、単線となり、旭運河沿いを南下、京浜運河の手前で右に直角カーブし、終点の海芝浦駅に至る。
一面一線の棒線駅で、終点側の端に改札口があり、改札機だけ置かれている。ホームが海に面している珍しい駅で、“都会のなかの秘境駅”と、よく喧伝されている。ここは、東芝京浜事業所の敷地内にあり、駅の出口がそのまま工場の門になっている。駅用地全体が東芝の私有地で、関係者以外は駅から出ることができない。それどころか、新芝浦からの線路敷地までも東芝用地となっている。最近、東芝の計らいにより線路の延長上に公園が作られ一般に開放されている。▲ホームの横は京浜運河、対岸にはLNG基地が見え、首都高の鶴見つばさ橋なども見えるが、距離があって期待したほどの夜景ではなく、改札口からも出られないので、折り返し3分のみの滞在で、そそくさと海芝浦を去って行った。
海芝浦の一日乗降数は公表されていないが、3000人程度らしい。海芝浦線は朝夕晩にシフトした設定だが、昼間でも2時間ヘッド程度で運転されている。終電は22時29分、残業者に合わせた時刻設定になっているのだろうが、これも“働き方改革”で、終電時刻も変更されるのかもしれない。また東芝全体で、土休日出勤がある場合や、平日昼間に終業する場合は、臨時電車が増発されるらしい。
鶴見線の記録から
▲鶴見小野に発着する17m旧国 クハ16 211+クモハ11 116(手前)
昭和47年8月、Fujimotoさんに連れられて、鶴見線の最後の17m国電を写しに行った。当時、弁天橋電車区には、クモハ11が22両、クハ16が23両、大川線用の両運クモハ12が2両配置されていた。72系の配置も始まり、まもなく、最後の17m国電の活躍も終わろうとしていた。先の「鉄道ファン」には、“これほど混雑する線も珍しい”と書かれていたが、ラッシュ時の混雑は異常なものだったようで、大きな20m車の導入は急務だった・
▲海芝浦行きが到着 クハ16 449(手前)+クモハ11 100
▲発車する クハ16 003+クモハ11 152(手前)
▲南武支線で最後まで使われていた101系が鶴見駅で展示された。平成15年12月13日▲後継の103系と顔を合わせる
▲最後の編成は クモハ101-130+クモハ100-172
総本家青信号特派員様
ご自分のお気持ちと言いましょうかポリシーと言いましょうか河さんのコメントはよくわかります。総本家さんとの双方向のやり取りに入り込もうとしましたが、18切符鶴見線特集第2回にお邪魔させていただきます。学生時代に既に横浜に実家が移っていたせいかどうかわかりませんが、鶴見線は17m車時代から、72系、101系、103系、205系と変わっていきましたが私には珍しくどの時代も撮っていました。特に南武線が20m車と17m車が混在した時代にも鶴見線は17m車ばかりの2~4連でこちらの方が魅力的で東テシ(東京鉄道管理局弁天橋電車区)をわざわざ訪問して撮影しました。高い鉄塔の下をC11も走っていました。総本家さんの詳しい説明には毎回頭が下がる思いで勉強になります。私もこの線には少しばかり思い出があり主な駅の印象を申し上げますと鶴見線の十三のような浅野駅、ちょっと迷いやすい乗り換えの浜川崎駅、初めての人は降りていいのかどうか戸惑う海芝浦駅、昭和ムード満点の国道駅(特にホーム下)、私鉄ムードそのものの始発の鶴見駅等々です。最近は駅のポスターで鶴見線のビール電車が出ていました。海芝浦に向かうようですが、JR東日本鶴見線ビール電車で検索すると出てきます。
準特急様
年も押し詰まってのコメント、ありがとうございます。鶴見線は、正直なところ、ほとんど関心もなかった線区ですが、今までの車両の変遷をきっちり記録されているとのこと、さすが準特急さんと敬服いたします。鶴見線へ行くきっかけとなったのは、準特急さんが、本掲示板に発表された小田急LSEの素晴らしい写真の数々でした。ぜひ一緒に連れて行ってもらいたいと念願したところ、集合場所が小田急新松田となり、それなら前日に鶴見線へ行き、神奈川県下で前泊して新松田集合に備えようと思ったものでした。デジ青のもたらす広がりの例だと思います。来たる年も、この例のように、ひとつの投稿から、どんどん新たな展開が広がるような投稿をしていきたいと念願しています。
総本家青信号特派員様
そうでしたか。結果的にあっちこっち引っ張りまわして申し訳ありません。昨年は総本家さんの他、会長さん、ワクヒロさん、今なお現役のTsurukameさんが関東方面に来られ撮影や一杯会を楽しみましたが、新役員になられた高橋さんと佐倉・高槻に在住の川中さんはご案内できず大変失礼しました。特に川中さんは上等な御靴がドロドロになりひどい目に遭われたようで申し訳ありませんでした。これに懲りずにまたお越しください。ということで総本家さんおっしゃられるデジ青の広がりに少しでも役立てるよう今年も体力づくりに励みたいと思います。
年が変わってからの返答で失礼します。まさに“友あり、遠方より来たる”ですね。遠方からでも人が来てくれるのは、撮影対象だけが目的ではないと思います。やはり人との交流を求めてのことだと思いますよ。私も、準特急さんのように、遠くからでも人が来てもらえるよう、人間性に磨きを掛ける一年にしたいと思っています。
総本家青信号特派員様
3枚連続のモノクロに魅了されました。
脳裏に焼き付いた『前期?旧国』が彷彿と思い出されて、しばしの間ウットリ。
当初は『?』だったPS13と大形ヘッドライトも、この頃にはスッカリ板に付いて、今風に言えばカッコイイ!!
これが後の標準となる20メートル国電に繋がった訳ですからしっかり記録しておくべきでした。
小生は、と言うと『国電ファン』を自認しながらも当時は認識が甘く、どちらかと言うと半流20メートル車に目が行きがちで、17メートル車は記録数も少ないのに気付きました。
それは丁度、昨今のファンが3ケタ国電(JR)以降しか知らず、カモノハシやスポーツカーと見紛う新幹線ばかりを追うのに似て、それに批判的な自分への反省を思い知らせてくれる貴殿のレポートでした。
新春早々にコメントをいただき、ありがとうございます。今年も、人の心に響くような写真を載せていきたいと、ひとり勝手に思っています。そうですね、パンタがPS13に換装されているのですね。私は全然気がつきませんでした。私は車両でも雰囲気から入るほうで、細部には関心がなく無知の限りですが、逆に、いまとなっては、雰囲気から入っていたからこそ、記録には残らないが、記憶に残る写真を残せたのかなと、図々しくも思っています。また今年も暖かいコメント、厳しいご指摘も合わせて、お願いいたします。