ことし夏の18きっぷも先月10日で終わってしまいましたが、今年の夏は例年になく頼まれごとで忙しく、購入したものの、終了3,4日前になって3乗車分が残っていることが分かり、あわてて近郊にプチ撮影・見学してきました。ネットのイベント情報を見ていると、米原市の鉄道展に興味をそそられるテーマがあり、即座に実行しました。米原市は、“鉄道のまち”を公言しており、過去の鉄道史料・遺産の保存・顕彰を続けています。その一環として、「御召列車資料展」が米原市春照にある伊吹山文化資料館で行われました。 ▲下車駅は東海道線近江長岡駅
▲会場は近江長岡駅の北方約3キロのところにあって、バスの便もあるが、本数が限られているため、バス待ちの間、駅の西へ歩き始めた。10分も歩くと、伊吹山が正面に入る、おなじみの撮影地へ至る。過去に何度か来ているが、夏場の雑草が以前より繁茂しており、足回りの見える箇所がなかなか見つからない。ちょうど、時刻は12時前、残り少なくなったEF65PFの牽く5087列車がやって来る。曜日が合えば、同じ時間帯に、EF64牽引の8865列車も来るが、この日は運休、それでも久しぶりの晴天で、伊吹山もきれいに見えて一本だけで大満足して、バス乗り場へ向かった。
伊吹山麓を歩く
展示の行われた伊吹山文化資料館は、春照にある。“すいじょう”と読む、近江の深い歴史を感じさせる優雅な地名だ。古くは北国脇往還が通り、古くから北陸と東日本を結ぶ近道で本陣跡も残っている。明治になると、旧東海道線が明治16年に関ケ原から長浜へ開通し春照駅が設けられた。以前にも廃線跡の取材で、街中を自転車で走り回ったことがある。駅の痕跡は、全く残っていないが、道路となった線路跡には、何ヵ所がその面影を残していた。 ▲どこからも伊吹山が見える、伊吹山文化資料館、実は廃校になった中学校の校舎を転用したもの。また、旧東海道線の春照駅跡は、この写真の撮影位置の反対側にあり、今でも“ステンショ道”の名が伝わっているとか聞く。
▲教室ごとに常設展示がされており、2階の一室が今回の「御召列車展」の部屋となっている。展示内容は、期待値が大きかったせいもあるが、ンッと思うようなものだったが、地域には元国鉄職員も多く住んでいるようで、地元の人たちの協力があってこその資料が並んでいた。
▲自分としての新発見の展示は、“米原駅にデルタ線が2ヵ所もあった”ことだった。第二次大戦中、機関区の転車台への空襲・攻撃に備えて、各地にデルタ線を作っていた。小型蒸機ならいざ知らず、大型蒸機の運転には、転向が不可欠で、転車台の代替として機関区近くにデルタ線の設置となったのだ。これらの史実は、ほとんど埋もれたままだったが、戦後すぐに上空から日本全国を撮影した米軍の航空写真が国土地理院から公開されて、その存在が明らかになった。上空からだと、独特の三角形をしているから、よく分かる。私も趣味団体の会合で話題になり、興味をそそられた。鉄道の要衝である米原にも設けられたが、てっきり1ヵ所だけと思っていたが、展示の写真で2ヵ所にあったことが分かった。ひとつは、もとの第一機関区の南側あたり、もうひとつは構内の北部、東海道、北陸線の分岐付近だった。米原市の鉄道遺産では、岩脇山の列車避難壕は、戦争遺跡としても有名で、地元の人たちの協力で整備されたが、デルタ線のことは、地元の資料を見ても詳らかでない。▲帰りはバスの便も無いので、館の勧めもあって「伊吹せんろみち」を歩いて帰ることにした。昭和27年に開業した大阪窯業セメント(当時)の専用線の跡だ。伊吹鉱山の石灰石を運搬する専用線として、平成11年まで営業していたが、廃止後、廃線跡の一部が遊歩道として整備されたもの。歩いてみると、田んぼのなかを行く、ただの一本道で、鉄道線の面影は見られないが、唯一、遊歩道の入り口付近は、ガーダー橋がそのまま道路橋に転用されていて、かつての面影をとどめていた。
▲現役時代の専用線、電気機関車「いぶき」が牽く列車が新幹線をくぐって、現在も残るガーダー橋にかかる。上の現況と同じ付近。
総本家青信号特派員様
18切符残存消化にあわてる気持ちよくわかります。私も曇天の日に勝沼(現在は勝沼ぶどう郷)まで往復しましたが収穫なしでした。さて、米原。この駅名の下には滋賀県坂田郡米原町と表示されていたのを覚えておりますが、いつの間にか米原市になっています。よく考えてみると滋賀県唯一の新幹線停車駅ですね。国鉄時代は名マイの表記された客車をよく見かけましたが、あれは米原が名古屋鉄道管理局管内の駅や機関区、客車区であったからと思いますが今の米原駅は新幹線駅はJR東海で在来線はJR西になっており東海道本線のJR東海との境界は次の醒ヶ井との間の様です。昔の蒸機時代はここ米原でほとんどの列車が機関車の付け替えをし、米原は鉄道の町であったと思いますが、御殿場線の山北も昔は鉄道員の多い町でした。米原といえば私なんかよりもマルーンさんの方が思い出の多い駅かもしれません。見てるかな。
次に大阪窯業セメントの線路ですが新幹線の下で急カーブしていた印象がありますが電気機関車は大井川にいるようですね。米原にはデルタ線が2カ所もあったとは驚きです。資料館は常設ですか。一度行って見たいです。
準特急さま
いつもコメント、ありがとうございます。18きっぷは、以前と比べると有効期間が短縮され、消化に苦労しますね。米原は、京都・大阪から上がってくると、初めて普段とは違うところへ来たことを感じる場所です。国鉄時代は名古屋の管轄でしたし、いまも東海・西の境界駅です。キオスクでも、中日新聞、中日スポーツが売られており、経済も野球も中京圏を感じます。
今や大阪、京都からの北陸路は湖西ルートになって久しく、米原はだんだん遠くなっているのが正直なところです。鉄道の要衝で駅の規模ほど町は大きくないと教えられていました。今まで一度も降りたことがありません。
米原は表日本と裏日本の分岐点!?、機関車の付け替え、夜行で止まると大きな洗面台?、なんか黒々としたイメージがあります。学生時代471系急行で帰省した頃も遠い過去になりました。
デルタ線、学習しました。なるほどと思いました。有り難うございます。
伊吹山は雪をかぶると綺麗ですね。天候が悪いと姿を見せてくれませんが・・・
米原はマイバラと呼ぶものばかりと思っていましたが、高速道路ではマイハラと呼びますが、何故でしょう?
マルーン様
コメント、ありがとうございます。そうですね、湖西線ができたのが昭和50年ですから、我々世代よりも下の人間には、もう米原が北陸への入り口という意識は無いのでしょうね。ホームの洗面台も最後まで残っていた駅で、米原は本線の乗換駅の風格がプンプンしていましたが、いまは、すっかり簡素な駅になってしまいました。
「米原」の読みですが、もともと地名としての米原は「まいはら」でしたが、明治22年に駅ができると「まいばら駅」となりました。町の時代は「まいはら」でしたが、認知度が高い駅名に合わせて、市制施行時に「まいばら市」に改名しました。高速インタは、地名のままですね。
このように濁音のある無しで、市名、駅名が異なるケースはほかにもあるようです。
またまたお邪魔します。米原が九州にあれば「マイバル」といったかどうかわかりませんが、それは冗談として米原は関西と中京の境目のような感じはよくわかります。以前、関西弁と名古屋弁の分水嶺は関ヶ原あたりと推察した記憶がありますが、米原はどうなのでしょうか。大垣は完全に名古屋弁の地域になると思いますが、米原は関西弁ではないかと個人的に想像します。昔、京都競馬場でバイトをしていた時に木之本から通う大学生がいましたが、関西弁でした。マルーンさん、また、引っ張り出してすみません。マルーンさんによると敦賀、福井は関西弁ではなく福井弁と言われたように思いますが、鯖街道の関係か小浜地方は関西弁であるとのことでした。阪神OBの川藤はこのあたりの出身とか。近畿地方全体に関西弁の勢力が強いことがよくわかりますが、戦国の舞台となった福井県、滋賀県、岐阜県の県境は微妙な所で興味深いです。
準特急さま
お邪魔、大歓迎です。関西と中京圏の境は、中日新聞のような例もありますが、線引きすると、やはり関ケ原付近だと思います。米原で使われる言葉は関西弁ですが、滋賀県の東部は、“近江弁”とも言うべき、アクセントが京都弁とは異なり、京都北部の丹後地方のアクセントと似ています。これは、方言・アクセントが、京都から同心円状に広がって行ったという、かの有名な“探偵ナイトスクープの“アホ・バカ分布”とも一致します。