地図を携えて線路端を歩いた日々 -18- 

名立付近を行く列車。糸魚川~直江津は海岸沿いの急峻な地形が続いて、何度も地滑り災害に見舞われ、抜本的な線路改良が望まれていた(以下昭和44年8月撮影)

今回の「地図シリーズ」は、いま豪雪に見舞われている北陸本線の昭和40年代に飛びます。北陸本線の歴史をたどると、それは線路改良の歴史でもあると言ってもいいほど、数々の移設、改良、新線工事を繰り返してきました。それだけに急勾配区間や災害多発地域を抱えていたことにもなります。大きな改良区間としては、
・木ノ本~敦賀 柳ヶ瀬越え(のちの柳ヶ瀬線)の迂回新線・複線化
・敦賀~今庄 急勾配区間を日本最長の北陸トンネル貫通で短絡・複線化
・津幡~石動 倶利伽羅越えの改良・複線化
・市振~青海 親不知など日本海沿い災害多発区間を移設・短絡・複線化
が挙げられます。これらは、昭和40年代初頭までに工事は完了しており、私は旧線時代の記憶・記録はありません。そして最後に残った大規模な改良工事が、糸魚川~直江津の新線・複線電化工事でした。昭和44年10月ダイヤ改正から新線に移り、これによって昭和30年代から進められてきた北陸本線の全線複線・電化工事が完成しました。


撮影に行った際、確かに五万分の一地形図を持って行ったはずだが、探しても見当たらない。代わって、雑誌に載った地図を一部加筆のうえに転載した。

当初の糸魚川~直江津は、日本海が迫る海岸沿いのルートで、有数の地滑り地帯として過去多くの災害が発生していた。開通以来、地滑りで列車の脱線・転覆が12回、不通が165日に及んだと言う。とくに記憶に残るのは、昭和38年3月の能生での大地滑りにより列車が巻き込まれ、牽引していたC57 90が日本海まで押し流された。この機は現地で解体されて廃車となったが、剥がれ落ちたナンバープレートを救助に向かった国鉄職員が抱きかかえている写真が、「鉄道ピクトリアル」に載っていたことが記憶に残っている。
そこで、内陸部に別線短絡ルートを建設することになり、当時日本第3位の長大トンネル、11355mの頸城トンネルのほか、地下駅の筒石の建設も含む難工事の末に完成した。トンネルの総延長は23.5kmに達した。

北陸本線の終点となる直江津駅。D51512の牽く貨物列車、信越線と北陸本線の分岐駅は、多くの車両で埋められていた。

訪れたのは昭和44年8月21日の一日だけだった。この時は、竜ヶ森で行われたDRFC狂化合宿にも寄って、メンバーとともに北海道へ渡る一ヵ月近い旅の第二日目だった。当日は、東京回りで上越線の臨時急行「鳥海51号」に乗車し、長岡で下車、長岡4時15分発の富山行き522レで北陸本線に入り、撮影地の下見も兼ねて糸魚川まで行き、折り返して、能生、名立、郷津の撮影地に降りた。わずか一日だったが、さすが日本海縦貫線、多くの旅客・貨物列車や優等列車を、電化直前にも関わらず、別線化されるため、非ポールのもとで写せた。では、その522レの乗車時のスナップから見てみよう。
富山行き522レは、直江津でDD51 27からD51379に交代した。長岡~直江津の信越線も線増工事の最中で、単線、複線が、駅ごとに入れ替わる。長岡(宮内)~直江津は、年表によると、訪問の日の翌々日から電化の供用を開始したと記されているが、交換する列車は、EF15、EF81が見られたものの、D51、DD51もまだ多く見られた。谷浜~有間川行く。この付近は、従来線に腹付線増されたから、複線の架線下を走る。有間川で交換する荷2047レ、D51588牽引。有間川を出る522レ、有間川駅は従来駅の利用のため、架線が張られていたが、すぐに別線化されるため、ここでは架線がない。

名立で交換した221レ、糸魚川直江津行き。ちょうど朝のラッシュ時で、田舎の駅からも多くの人が乗り込む。能生~筒石の百川信号場を通過する。単線区間の糸魚川~には3ヵ所の信号場があり、列車交換を行っていた。

乗車した522レは、7時56分、糸魚川に到着、ここで折り返し、DD5113牽引の525レに乗り換えて、改めて糸魚川~直江津に向かう。525レは、大阪を前の晩に発車した鈍行夜行で、終点の新潟へ向かう。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -18- 」への7件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員さま
    いつも楽しく読ませて頂いています。記事中に小生も参加した北海道合宿が登場したので旧線と合宿にまつわるコメントを。
    さすが旧線区間でも撮っておられましたか。小生は一度だけ同区間を通過したことがありますが、なにせ直江津を20時頃に発車した米原行き夜行528レでしたから、車窓からの景色を見ることが出来ず、ついに旧線は実質知らないままです。その後食パン電車419系で新線から海岸方向へ離れて行く旧線跡を眺めましたが、ご紹介の地図からすると浦本と有間川・谷浜の各駅だったようです。
    旧線とはこれくらいの縁しかありませんが、前述の合宿の帰りにまさにこの区間に関係するハプニングがありましたのでその顛末を。当時の北海道均一周遊券の有効期間は確か26日間で、合宿後は有効期間ギリギリまであちこちをうろついたため、帰路の青函連絡船で期間切れとなるという強行軍でした。さすがにさっさと帰りたいと思い、札幌から「北海」~連絡船~「白鳥」と乗り継ぐことにしました。北海に乗車すると隣席の若者がどちらまでと声をかけてきました。京都までと答えると自分も京都までと言います。暫く言葉を交わすうち、なんと彼も同志社の学生で、北見の実家から後期授業のため帰るところだとか、親父が国鉄マンだとかがわかるに至り、急に親近感が湧いてきましたが、直ぐにショッキングな事実を告げられました。曰く、直江津から先で土砂崩れがあり、白鳥が動くかどうかわからないというではありませんか。この辺りで車内放送でも案内があり、復旧の目途や代替列車の案内は後刻ということで、彼と成り行きに任せるしかないかと話し合いました。こうなると一人より友連れの方が心強いものですが、実際には親父は国鉄勤めでも彼にはそれほどの知識は無く、どうやら小生がアテにされていたようではありましたが。
    結局土砂崩れ区間は復旧せず次の代替案を案内されました。白鳥は長岡行として運転はするが以降は知らん、東北線~新幹線経由ならこだま号でと。急いで時刻表を繰った結果、青森からはつかり1号の指定席(当時は全席指定)+こだま、指定席がなければ盛岡で急行「いわて1号」に乗継ぎ+こだま、ということになった。案の定はつかりの指定席は満席で、仕方なく後者案によったが、そこはさすが新幹線で白鳥とほぼ同時刻での帰京であった。新線切り替え直前の、災害の多かった旧線にまつわる49年前の話でした。

    • 1900生さま
      コメントをいただき、ありがとうございます。そうですね、昭和44年の夏休み旅行は、竜ヶ森合宿のあと、DRFCからは10人以上が渡道し、“現地闘争”と称して各地で撮影しました。数多く行った長期旅行のなかでも、いちばん思い出に残る旅行でした。
      戻りの「白鳥」での体験も面白く読みました。同志社生と隣り合わせたことはありませんが、よく経験したのは、ユースホステルに泊まったとき、相手が「京都から来ました」と答えると、決まって同志社生だった経験は何度かありました。とくに夏休みは、前期試験の日程が他大学とは違うため、同志社生が集中する時期があったのでしょう。土砂崩れによる「白鳥」の運転取りやめは、直江津から先というと、まさに今回の能生付近で発生したのではないでしょうか。いまでも京都駅の体験として覚えているのは、昭和40年でしたが、能生か親不知あたりで、地滑りが起こり、「白鳥」は長期間、富山行きで運転されていました。「白鳥」は自然災害の多い、当時の日本海縦貫線を走るぶん、運休や行先変更が多かったものでした。

  2. 総本家青信号特派員様
    私もこのシリーズを楽しく、懐かしく拝見しています。そこで一つ気になっていることがあるのですが、D51379の次位に連結されている郵便車の形式は何でしょうか?荷物扉の幅は狭そうで、窓も少なく、中央にサボ受けのようなものも見え、エアコンは無さそうでオユ11のようであり、違うようでもあり よくわかりません。形式が判ったところでそれがどうなるものでもないのですが、一度引っかかると気になって夜も寝られません。北海道の廃客車を訪ね歩いておられる客車の神様におすがりした方がよいのかもしれませんがよろしくお願い致します。

    • 西村様
      いつも見ていただき、ありがとうございます。今回の糸魚川~直江津など、ほぼ50年前に廃線になっている区間ですから、記憶も記録もどんどん先細っていきます。いまは最後のチャンスと意気込んで、記しています。たった一枚の写真から、このコメント欄のように、談論風発へとつながるのは、何よりのデジ青の魅力ですね。

  3. オユ10かオユ11のどちらかですが、1-3位側採光用小窓が7個ならオユ10、8個ならオユ11です。ホームでの画像を見たところ7個のようですので、オユ10ではないでしょうか。

    • 井原様
      リサイズ前のデータを拡大して確認しましたところ、やはり小窓は7個でしたので、オユ10ですね。オユ10、オユ11の見分け方を初めて知りました。さすが、客車研究のレジェントだけはあります。北海道廃車体シリーズも楽しみにしています。

  4. 総本家青信号特派員様
    このシリーズも楽しみですね。列車にただ乗車しているだけでなく乗車の前後や乗車中もよく記録されておりその姿勢に頭が下がります。もっとも傍に座ったお客さんは迷惑ではなかったでしょうか。北陸線の線路付け替えの歴史は改めて同線の地形の厳しさを感じました。大体地滑りの起こりそうな所は気色がいいのですが、安全等のため別線になっており改良後は味気のない風景になるのは致し方ないことと思います。つまんない写真ですが、冬の荒天の能生で降りてD51やC57を撮ったことがあります。鉄ピクのC5790の哀れな姿は覚えています。コメントの1900生さんも大変でしたね。また、この頃の思い出話をご披露下さい。

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