この分野の泰斗である西村氏を差し置いて恐縮であるが身近な所をレポートする。見つけ方や撮影のコツなどをご教示いただきたい。また、総本家青信号特派員氏はJTBのキャンブックスでたいへんなご苦労をされたと仄聞している。
1.高橋交差点 茨木市駅前3丁目 34.816891, 135.569586
茨木市のJR茨木駅と阪急茨木市駅の中間、高橋交差点の南西角にあり、高さが約2mの大きな道標である。バックは茨木市役所。
茨木の村を挟んで東西に茨木街道が、南北に高槻街道が延びていた交差点である。
石に刻まれた文字が判読しにくいが、
右 茨木停車塲
左 大阪 距 高麗橋元標 四里廿四丁拾間
と、大きさのわりには少ない。
右に行くと確かに茨木駅に行ける。左の高麗橋東詰は歩いてはとても行けない。
▼交差点北側から見た現代の道標は下のようなものである。
2.茨木市宿川原町 34.835583, 135.545389
西国街道から茨木街道が分かれる交差点で、宿川原本陣(椿の本陣)の近くにある。高さは1mもない。根元が一度折れて接着しなおした痕がある。
風化が進んでいて、たいへん読みづらい。
右 茨木停車塲 そうぢじ 道
「茨木停車塲」と「そうぢじ」は並列でその下の中間に「道」が彫られている。
▲停車場の道標は一番右、合計3基の道標がある。
▲左が宿川原本陣(椿の本陣)、道標は画面右奥突き当たりにある。
以上2点、「茨木停車塲」は阪急ではなく官設鉄道茨木停車場であるから、明治9(1876)年8月9日前後かそれ以降設置されたものであろう。
井原さま
客車廃車体巡りの次は、石碑巡りに転向ですか? はい、私も以前の出版で“鉄道道標”の編集をしたことがあります。やはり多いのは、関西圏のようですが、茨木市内にこのような石碑があったとは知りませんでした。とくに茨木市役所前のものは前を何度か通っているはずですが、気づきませんでした。茨木市内の鉄道遺跡と言えば、東海道線の築堤下に多くの煉瓦造りアーチが残っていることが知られていますね。中でも田中町のアーチしは、“ねじりまんぽ”で、市のガイドにも載っていますが、その中に、下部の礎石には、高槻城の石垣が再利用されていると書いてありました。これも、初めて聞きましたが、なぜわざわざ高槻から茨木まで運んだのでしょうね。
転向したわけではありません。身近な所で見つけただけです。高槻市ではまだ発見できていません。道標や高槻城石垣やとなりますと、郷土史家の領分でしょうね。「ねじりまんぽ」は、ブラタモリに何度か出演された小野田滋氏の著書によれば大阪~京都間に多く、長岡京のあたりにもあるそうです。現場をご覧になったことがありますか。
井原様
身近なところに興味の対象を持つことは、とくに時間のある、われわれに取って大事ですね。長岡京市内には、開業時の煉瓦アーチは残っていますが、「ねじりまんぽ」は存在しないようです。乙訓の老人からは桂川橋梁の西に隠れた煉瓦アーチがあり、それが「ねじりまんぽ」と聞いています。近々に出掛けてみたいと思っています。
長岡京-山崎間の「円妙(明か?)寺架道橋」が「ねじりまんぽ」だそうです。
西国街道の円明寺バス停のすぐ近くです。
34.905647, 135.688256
一昨年(元々怪しい記憶力がさらに減退しているので昨年か3年前かもですが)に伊丹から茨木まで旧西国街道歩きをし、その際、椿本陣も通りましたが、石碑には全く気付かずでした。見てても読解力はないですが、、、
明治以降も、石碑道しるべが実用だったとは知りませんでした。これも文化遺産ですね。ご紹介ありがとうございました。
古い地図を見ますと、椿の本陣付近の道標から分岐して名神高速道路茨木ICの西を通って茨木停車場に至る道があります。
戦後まで国道171号は影も形もなく西国街道しかありませんから、今では自動車がすれ違うことができない位の道が主要街道だったので道標が設置されたのでしょう。
2番目の道標が折れてた時がありましたよ、今は直してありますが。