こんなん、出てきました。(1) DRFC OB CLUB NO.1

 家の中を片付けていると、いろいろなものが出来きました。昔、買った雑誌や旅行などで使った切符、ネガなど・・・。見ているとあの時はあんなんあったんやな~。そんな事を思ってしまうのも、年のせいかなと考えてしまいます。 

 それでは今回はまさかこんなものを残しておいたのかと見てびっくりした代物です。それはDRFC OB CLUB NO.1とNO.2会報などです。NO.1は1985年11月22日の日付で26年が経っています。多分、OB会総会に参加した時にもらったではないかと思いますが、定かではありません。

 NO.1の大見出しは「あーあ吉谷さん逝く!」で、さらに中見出しは「すかたん列車赤信号を暴走」「極楽本線へ異線進入す」と続き、記事の最後は「オッサン、帰って来いや!」で締めくくっています。これには1985年11月19日付の毎日新聞大阪版の記事が転載されています。この新聞記事が吉谷さんのことがかなり詳しく書かれてあったのは、びっくりしました。写真に写っているのが1985年2月20日発の第1「すかたん列車」で同じ年の11月17日には4次元線へ経路変更したようです。なんか、上方落語の地獄八景亡者戯みたいなやな~。吉谷さんは「鉄道ファン」に吉谷さんらしい内容のエッセイが投稿されていました。これはまた別の機会に紹介することにしまっさ。

 NO.2はDRFC30周年としてマイテ492を走らせることについてのOBと現役との話し合いのやり取りを赤裸々に記録されたものであります。

 もうひとつはDRFCが出来るまでのいきさつと創成期のDRFCを知る上で貴重な歴史的史料です。30周年記念号である青信号57号にも「同志社大学鉄道同好会30年の軌跡」として書かれてあるが、この史料にはDRFCが出来た頃についてエピソードも含めて書かれてあり、読み物としてもおもしろく、DRFC重要文化財として保管することにしました。しかし、4次元鉄道の列車に乗ったらいずれ捨てられるやろな~。

では、つぎの掘り出し物はなんでしょう。

富山の話題 2題

地鉄サンクスデー開催!

 富山地鉄を舞台にした映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」の公開を記念して稲荷町車両基地の電車展示、撮影会とトークショーが1023日にありました。NHKのニュースを見て知り、稲荷町の車庫が住んでいるところから地鉄電車の線路に沿って10分のところなので昼食を食べてから行ってきました。小雨が降っていましたが、家族づれや鉄道ファンで盛況でした。

   ▲ 稲荷町車庫では家族づれや鉄道ファンでにぎわっていました。レッドアローと記念写真を撮る人も・・・ 

 トークショーでは映画のプロデューサーである安部秀司さんと映画に出演され新人運転手役の中尾明慶さんが招かれていました。話のなかでプロデューサーの阿部さんは電車が好きで模型を作ったことがあると話されていたので、前作の映画で一畑電鉄を舞台にした事や今回の富山地鉄を選ばれていることからなるほどと思ったしだいです。新米運転手の設定が東京の所沢出身で西武のレッドアローにあこがれていて、その運転手になりたいために富山に来たということになっているそうです。

 ▲ 車庫内でのトークショー会場 電車の前でトークショーが開催されました。開始前の写真ですが、開始されると立ち見の人が多くいて、大変盛況でした。

 富山地鉄の方から聞きましたが、そのレッドアローですが当初は3両編成でしたが、ワンマン化のために現在は2両編成になっています。しかし、映画の封切りを記念して12月ごろから3両編成を復活させるそうです。映画も夫が定年をむかえた夫婦の話で、私も同じような状況であるので興味があり、ぜひとも見ようと思っております。富山で11月19日より先行ロードショーがあるので、見に行こうと思っております。

模型の走っている喫茶店ブルートレイン

 富山に来てから通勤で車で通っている道路沿いにブルートレインという喫茶店が気になっていました。どうも店内でHOの模型を走らせているようで、長男が富山に来たのを機会に一緒に行ってきました。

 店内の壁際を一周するようにレイアウトがあり、お客さんが来ると模型を運転してくれます。カウンターと椅子席があり、椅子席は写真のように客車のようになっており、窓の外側を模型が走っているようになっています。模型は完成車両と自作車両があり、自作車両は昔の富山電鉄の電車とか、富山港線の旧型電車がありました。マスターにいつごろから始められたんですかとたずねたところ、30年前からはじめたと言われていました。

場所は地鉄市内電車の安野屋停留所のある安野屋交差点から南北の通りある通称けやき通りを南に少し行ったところで西側の並びにあります。富山に行かれた時によってみてはいかがでしょうか。

駅風景 富山地鉄五百石駅

初めての投稿で失礼します。先輩諸氏の投稿内容がすばらしいので、ちょっと恥ずかしいですが、富山地鉄の駅が、なにやら趣きがあるので、なくならないうちに写真に撮っていた矢先に、新しい駅舎に建て替えるために五百石駅の駅舎がなくなりました。虫の知らせか、解体工事開始の1ヶ月前にあたる今年の2月6日に写真を撮りに行けたのでホットしています。

外観は左右対称のモダンな感じで、特に正面の車寄せの上にある屋根の形がモダンな雰囲気を出しています。富山地鉄の他の駅でも、このような屋根の駅があります。この駅舎は昭和6年(1931年)生まれで今年で80歳でした。車寄せの屋根を支える柱もしっかりしており、80歳とは思えません。

立山線の前身は立山軽便鉄道として大正2年に滑川から五百石間で開業したものです。富山の出版社桂書房から出版されている草卓人著の「富山廃線紀行」で立山軽便鉄道の項で開業当初の五百石駅は現在の駅の北東にある立山製紙の工場内であったと記載されています。この本によるとその後、富山市へ直行できないために乗客減となって経営改善のため富山地鉄の前身である富山電気鉄道と合併をします。これが昭和6年で、この時にこの駅舎が生まれたと思われます。駅の位置も現在の位置に変わったと思われます。

 

富山軽便鉄道は五百石駅から先は立山駅(たちやまと読む)が終点で、現在の岩峅寺駅のところでした。現在の富山地鉄五百石と岩峅寺の区間は立山軽便鉄道の線路を改軌、電化されたものです。

五百石駅の周辺には立山町役場があり、立山町の中心地となっています。駅員さんに話を聞くと、立山町役場に行く人が時々終点の立山アルペンルート出発点である立山駅まで行く人が時々あるそうです。考えてみれば、事情を知らなかったら立山町役場の最寄り駅が名前が同じ立山駅と思うのは無理もないことだと思います。まさか、五百石駅が最寄り駅とはとは思わないでしょう。

富山地鉄では旧駅舎を記念して「ありがとう五百石駅舎記念乗車券・入場券」として乗車券2枚、入場券1枚で700円で発売しています。台紙付で切符は硬券で駅舎の絵がかかれたものです。詳しくは富山地鉄のホームページにありますので興味のある方は一度見てください。また、「富山廃線紀行」は興味深い本で富山の桂書房から出版されており、ホームページもありますので、これも一度見てください。10月8日時点で残部小となっていました。やはり、このような本は売れるようです。