あの溝のある石(車石?)は何か?
あの溝のある石が気になり、気分的にもやもやしていたので再び訪れることにした。通りがかりに偶然見つけたものだからどのあたりかよくわからず、適当に歩いていると、気がついたら問題のところに来ていた。
左の写真でわかるように古い旧家の門の前にある階段に設置されているものである。とにかく、この家の人に聞いてみることにしたが、この家には人が住んでいなかった。近くに人がいないかと周辺を歩いていると80歳ぐらいのおばあさんがいたので聞いてみることにした。
「ちょっとお尋ねしますが、この先にある家の門の前にある階段に溝が付いた石はなんのためにあるのですか。」と聞くと、その場所まで一緒に行ってくださり「ああ、これは人力車を通すためのものですわ。ここの家はお医者さんでした。」と言われた。どうやら家から出かける時に人力車を使っていたため、玄関先まで人力車が行くのに階段部分を車が通りやすくしたものとわかった。
最初に考えていた荷車でなく人力車であったが、車を通りやすくするためのものであったことには間違いなかった。「いつ頃に出来たものですか。」と聞くと「よう、わかりませんわ。」ということだった。また、別の人が通りかかったので、尋ねてみると、同じように人力車を通すためで、ここで使っていた人力車は文化センターの民俗資料として寄贈されて展示していると言われた。これは大変参考になる情報であった。とにかく、主要部の寸法測定と詳しく写真を撮っておくことにした。
写真の数字はそれぞれの溝石の長さで、左右をずらして設置されている。適当な長さの石がないためなのか、わざとずらしているのか本当のところはわからない。しかし、継ぎ目をずらすことで車輪がうまく通るようにしたのかも知れない。なお、これから記入されている数字の単位はmmである。
溝の間隔は全体の写真から見ると870mmと850mmと違っているが、最上段には車が登り易いように切り欠きがある。その間隔が850mmであることから、本来は850mmで870mmは施工時か使用中にずれたものではなかろうか。
最上段は右の写真にあるように切り欠きがあり、その中心線での間隔は850mmであった。文化センターに展示されている人力車の車輪中心線間隔を測定すると850mmで同じであった。これよりこの溝にある石は人力車が登り易いようにしたものという聞き取りの情報は十分に理解できる。
左の写真は道につながる部分でこれも登り易いように傾斜がつけてある。展示してある人力車は1人乗車用で車輪の幅は70mmで、車輪直径は1020mmであった。この様に車輪径が大きいので通るには問題はなかったのであろう。
あの溝のある石は人力車を通し易くするためのものだった!
この一連の調査で偶然見つけた溝ある石造品は人力車を通し易いように設置されたものとわかった。ただし、設置された時期についてはわからなかった。そして、人力車について調べてみた。最近は観光地でよく見られるのであまり気にしていなかったが、調べてみると以下のことがわかった。
1. 人力車のはじまりはいろいろな説がある。一般的には1869年(明治2年)泉要助、鈴木徳三郎、高山幸助の3名が考案し、翌年の1870年(明治3年)東京府から製造と営業の許可を得て、人力車の営業を開始したと言われている。
2. 全盛の頃は1896年(明治29年)で、全国で21万台があったといわれている。そして、都市交通だけでなく、組織化され乗り継ぎにより東海道、奥州街道などの長距離営業も行われていた。
3. 人力車の輸出もされており、明治後期では中国、インド、東南アジアなどに輸出していた。数は少ないがヨーロッパ、北アメリカなどにも輸出していた。
参考文献 日本史小百科 交通 東京堂出版
同志社のホームページにある「新島襄ディスコグラフィー」によると同志社の創立者である新島先生が1874年に帰国され、東京から故郷の安中へ帰る時に人力車を3台借り切って向かい、そして、安中に着いたのは深夜であったという。また、新島先生が全国を伝道のために旅行をされているが、鉄道網が整備されていない頃であるので、航路を利用し陸路は人力車、馬そして徒歩で移動されたとある。この様に当時は人力車が重要な移動手段の一つであったのであろう。そして、鉄道網の整備などによりしだいに衰退し、地方で自家用などとして残ったという。今回見た溝のある石はその自家用人力車を通すため作られたものであると思う。そして、寄贈された人力車を調べるために文化センターに行った時、教育委員会でこの民家を調査した報告書があると言われたので資料をコピーしていただいた。そこには「道路に至る階段には、診察に使用した人力車のための溝を切った石が残っており興味深い。」とあった。
ということで大津と京都間で見られる「車石」と同じものではないが、軌間850mmに敷設した「石のレール」といえるのではないだろうか?しかし、「車石」が気になるのでさらに調べてみると京津間の交通事情が・・・ ではまたいずれ!