信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その1

近鉄生駒線の大和川橋梁の橋脚が複線用となっていることから始まった「信貴電の不思議」はさらに芋ずるのごとく次から次へと「信貴電の不思議」が出現した。天理参考館で買った絵葉書にあったデハ51形の仲間が池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄、そして水間鉄道などにも同型車があったこと、そして遠く新潟県の蒲原鉄道にもあったことがわかった。そして、デハ51形が走り出す前の開業時に走っていたデハ100形は日本電機車輌株式会社という謎めいた会社に発注されたが当時の経済環境から自社製造となった電車である。このデハ100形と日本電機車輌株式会社については調べれば調べるほどナゾの深みにはまっていった。そして、このデハ100形については当時としては画期的と思われる村田式台車と言われる台車をはいていたという。とりあえずはこの村田式台車について数少ない資料から考察してみようと思う。

考察するにあたって、私の手元に村田式台車に関する資料として以下のものが手に入れることが出来た。ほとんどが図書館などの複写資料であるが鉄道史料第130号については書店で購入した。

1.特許第29813号 明細書 車台動揺防止装置

2.奈良県公文書 大正10年信貴・生駒電気鉄道 土木課

3.鉄道史料第98号 大正期・大軌関連資料を探る(3)

信貴生駒電鉄創業期の車両について   今井健夫

4.鉄道ピクトリアルNo.727

信貴生駒電鉄開業時の車輌101形を探る  吉川文夫

5.鉄道史料第130号 目蒲・東横 戦前期の車両  高山禮蔵

6、DRFC OB会の長老様より送っていただいた写真と図面のコピー

最近は公立図書館などがネット上でデジタル化された文献などが閲覧や文献の検索ができるので便利である。各図書館で必要とする文献が蔵書されているか調べて、蔵書があればその図書館に行けば目的の文献が閲覧できるのでたいへんに助かる。便利になったものである。上記の1番目の特許明細書と2番目の公文書にあった図面を主にし、その他を参考文献として考察をおこなった。

かつてデハ100形が走っていた大和川橋梁、今は近鉄電車が走る。

かつてデハ100形が走っていた大和川橋梁、今は近鉄電車が走る。

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テレビカー、時代祭行列が駆け抜けた。そして、越中で

 総本家青信号特派員さまが「京阪(旧)3000系を思う」と題して5回の連載投稿をされていました。正月や祇園祭りの頃、雑踏の中を走る京阪3000系の写真は圧巻で、さすが総本家青信号特派員さまと思いました。これらの写真には足元にも及ばないですが、富山に再就職した京阪3000系の写真も含めて綴ってみることにしました。

MN00314-京阪3000

寝屋川車庫での5000系見学会で撮影

 まずは昭和46年(1971年)6月の守口車庫での見学会の写真から。 続きを読む

蒲原鉄道保存車両モハ1のこと

  以前にNHKの番組で録画した「思い出の鉄路 本州編1」を久しぶりに見ていた。順番に南部縦貫鉄道、小坂鉄道と見て、そして蒲原鉄道になってから現在の保存車両が写っているのを見ていると、どうも「信貴電の不思議 改訂版」で紹介した信貴電のデハ51とよく似ているのに気がついた。映像を戻し、一時停止してよく見てみるとやはり似ていた。デハ51の絵葉書と見比べてみたが、ドアと窓の配置と数が同じであった。見た感じの大きさも同じのように感じた。保存車両がモハ1となっていたのでインターネットで検索してみるとこの蒲原鉄道モハ1について投稿記事が多くあり、新潟県加茂市の文化財として県内最古の木造電車として加茂市の所有として保存されていることがわかった。蒲原鉄道のモハ1は全長11.455m 定員66名 自重20.03tである。信貴電のデハ51は信貴生駒電鉄社史の車両一覧で全長11.40m 定員65名 自重12.9tとなっていた。全長と定員についてはほぼ同じであることがわかった。

 大和川鉄橋を渡る生駒線の電車

 ∧ かつて信貴電のデハ51が走っていた大和川橋梁を望む。

信貴電デハ51は北大阪電鉄(現在の阪急千里線)のデハ1形(新京阪P1)として大正10年3月に梅鉢鉄工所製で8両製作されたものの中から信貴電に売却されたものであることが知られている。そして、蒲原鉄道のモハ1はインターネット上の投稿記事からまとめてみると当初はデ1、2の2両あり、保存されているのはデ2が倉庫として使用されているのを復元改修して現在の状態で保存されているということである。この電車は大正12年(1923年)に蒲田車輌製作所で製作されたとあった。さらに、この電車は目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄の前身)の大正11年(1922年)汽車製造合資会社で製造されたデハ1形と寸法がほぼ同じとあった。そして信貴電デハ51と全長がほぼ同じということは・・・?

 デハ53号電車

∧ 再び信貴電デハ51形53号電車の絵 (信貴山下駅に停まっている絵葉書より作成)

 さて、蒲原鉄道デ1,2(現在の表示形式モハ1)、目黒蒲田電鉄デハ1、北大阪電鉄デハ1形の三つ巴の関係はいかに?まったく関係なく、たまたまに同じようなものがほぼ同じ時期に偶然存在したのか?それとも、なんらかのつながりがあったのか?名探偵金田一さん教えて~

天理軽便鉄道が走った。 安堵町歴史民俗資料館

 かつて天理軽便鉄道が法隆寺駅から天理まで走っていましたが、法隆寺から平端までは昭和20年(1945年)2月11日から営業休止となりました。戦争の為に線路がはずされついに昭和27年(1952年)に廃線となったのです。2月11日に天理軽便鉄道法隆寺線が走っていた安堵町歴史民俗資料館で鉄道模型運転会がありましたので行ってきました。例によって法隆寺から廃線跡を写真を撮りながら歩いて行きました。

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∧ 左側に廃線跡があり、右側は大和路快速が走り抜けていく。

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 ∧ 廃線跡に残るレンガ組み 続きを読む

終い撮り鉄 近鉄内部八王子線の巻

 京で師走を感じる行事として東寺の終い弘法がありますが、今年の鉄道写真撮り納めとして近鉄内部八王子線に行ってきました。実は青森へ行く時ついでに内部八王子線に寄ったですが、この時に「開業100周年記念 内部・八王子線1日フリー乗車券」のパンフレットを手に入れたので、これを使って沿線を探索したいと思っていたのであります。そして、12月19日に行ってきた次第です。 

フリー切符とパンフレット 前回と同じ経路で近鉄四日市へ。今回は往復とも特急を利用しました。久しぶりに近鉄特急に乗るとなかなか快適でありました。伊勢中川で乗り換えて四日市へ。車窓を眺めていると思ったより海岸に近いところを走っているところがあり、また遠く山側を見てみると鈴鹿の山までが平坦で高いところがないので東南海地震が起こった時の津波への不安を感じました。あれやこれや景色を眺めていると四日市について内部線の乗り場でフリー切符を購入してまずは内部へ向かいました。 続きを読む

小樽から江差へ、そして青森 4日目から7日目 江差は遠かった。

 3日目の夜、雷雨の小樽から札幌に行き、夜行バスで函館へ。江差線の一番列車で江差へ行く。天気が心配であったが、何とか雨がやんでほっとしたが、前夜のすさまじい雷雨でとんでもないことになった。そして江差から函館に戻り、唯一の動かないところでの一泊をする。

  いよいよ津軽海峡を越えて青森へ。写真展の会場に行き、S氏とT氏に会ってワイワイがやがや。夜に皆さんと別れて再び津軽海峡を渡って、函館から?へ行き、苫小牧から船で敦賀へ、そして奈良に帰った次第である。 続きを読む

小樽から江差へ、そして青森 1日目から3日目小樽まで

 青森の写真展から1ヶ月以上が過ぎた。私も青森へ行くことにしたのであるが、せっかく北の方へ行くのであるからあちこち行ってみようと計画をした。そして考えたのがとにかく船で北上することにした。理由は運賃が安いからである。いろいろ考えた結果、奈良から近鉄で名古屋へ行き、太平洋フェリーで苫小牧へ。苫小牧からとにかく函館に行き、ここから青森へ行くことにした。帰りは再び苫小牧に戻り、今度は新日本海フェリーで敦賀へ。そして奈良に帰る計画である。せっかく北海道に行くのであるから、小樽と江差に行き、津軽海峡は船で往復することにした。その結果、船中4泊、夜行高速バス1泊、ビジネスホテル1泊という7日間の旅となった。

 この旅では予期せぬことがあり、面白い旅となった。写真を中心にして構成したが、船とか建物などの鉄道以外の写真も多く出てくるので、この点は少しお許しを・・・

 では、1日目から3日目の小樽までを。 続きを読む

信貴電の不思議 改訂版

デジ青掲示板のトラブルにより「信貴電の不思議」が消えてしまいましたが、原稿が残っていましたので復活することにいたしました。ただ、そのままでは芸がないので追加して「信貴電の不思議 改訂版」としました。

 信貴山下駅から先の第2期工事でも複線化工事を行ったことを示すもの以外に、天理参考館で購入した絵葉書に信貴山下駅で撮影された51形53号電車の写真があり、これがどのような電車か調べてみました。そして、平群駅にある信貴電の名残、東ケーブルの写真などを追加しました。

彼岸花の咲く頃
彼岸花の咲く頃 平隆寺前を行く

 それでは消えてしまった部分から。

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「2012 サークルステーションIN三条」に現役同好会が参加

3000系の運行時間を調べるために京阪のホームページを開いてみると最新情報の項目の中に「同志社大学×京阪電車連携イベント 2012サークルステーションIN三条」の開催についての発表があって、開いてみると現役の鉄道同好会が鉄道模型展示と運転で参加することが記載されていました。このイベントは平成22年から開催されていて、今回で3回目だそうです。前回までは「同志社グリークラブ」の男性合唱と「同志社大学マジック&ジャグリングサークルHoucus-Poucus」のマジックショーでしたが、あらたに3サークルが参加し、そして鉄道同好会の鉄道模型の展示運転と盛大に行うようです。開催日時と場所は下記のようになります。

場所 京阪電車「三条駅」地下1階コンコース
日時 平成22年9月22日(土、祝日)
男性合唱、マジックショーなど  13時30分から16時(予定)
鉄道模型展示と走行       12時00分から15時30分(予定)

詳細は京阪のホームページをご覧ください。OB会員の皆様、現役の活動を盛り上げに行きましょう。文字だけでは寂しいので学生時代に撮影した3000系6連の写真を掲載します。

「鉄道絵葉書の世界」と「天理軽便鉄道法隆寺線代行バス?」

クローバー会員の皆様 残暑お見舞い申し上げます。

ところでこの炎天下の中、さる7月26日に天理参考館で行っている「鉄道絵葉書の世界」を見てきました。天理までのルートは私のところからですと、信貴山下駅から王寺で田原本線に乗り換えて西田原本まで行き、橿原線、天理線で行くのが運賃も安く、時間が早く行けます。田原本線の電車に乗って景色を眺めていると、これが大阪市内から1時間もかからない所かといつも思ってしまいます。しかし、西田原本駅から橿原線田原本駅の乗り換えは便利になっていました。今までは橿原線の踏切を渡らないと田原本駅の改札口に行けなかったのですが西田原本駅と田原本駅の間がロータリーになっていて踏み切りを渡らずに改札口に行くことが出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平端駅で天理線の電車に乗って発車を待っていると子供を引率した団体が乗ってきました。子供はどうも幼稚園児のようで、よく観察してみると東京から来たようで、しかも親は付き添っていないようです。あとでわかったのですが、夏休み恒例の「こどもおぢばがえり」に参加するために天理に来たようです。天理駅に降りると、まもなく貸切列車が出発していきました。乙訓の老人が言われていた客車が駅の南側の公園に保存されていました。写真は帰りに撮ることにして天理参考館に急ぎました。天理参考館に行く商店街は全国から来た天理教の信者さんでにぎわっていました。 続きを読む

車石 それから

あの溝のある石(車石?)は何か?

あの溝のある石が気になり、気分的にもやもやしていたので再び訪れることにした。通りがかりに偶然見つけたものだからどのあたりかよくわからず、適当に歩いていると、気がついたら問題のところに来ていた。

左の写真でわかるように古い旧家の門の前にある階段に設置されているものである。とにかく、この家の人に聞いてみることにしたが、この家には人が住んでいなかった。近くに人がいないかと周辺を歩いていると80歳ぐらいのおばあさんがいたので聞いてみることにした。 

 「ちょっとお尋ねしますが、この先にある家の門の前にある階段に溝が付いた石はなんのためにあるのですか。」と聞くと、その場所まで一緒に行ってくださり「ああ、これは人力車を通すためのものですわ。ここの家はお医者さんでした。」と言われた。どうやら家から出かける時に人力車を使っていたため、玄関先まで人力車が行くのに階段部分を車が通りやすくしたものとわかった。

最初に考えていた荷車でなく人力車であったが、車を通りやすくするためのものであったことには間違いなかった。「いつ頃に出来たものですか。」と聞くと「よう、わかりませんわ。」ということだった。また、別の人が通りかかったので、尋ねてみると、同じように人力車を通すためで、ここで使っていた人力車は文化センターの民俗資料として寄贈されて展示していると言われた。これは大変参考になる情報であった。とにかく、主要部の寸法測定と詳しく写真を撮っておくことにした。

写真の数字はそれぞれの溝石の長さで、左右をずらして設置されている。適当な長さの石がないためなのか、わざとずらしているのか本当のところはわからない。しかし、継ぎ目をずらすことで車輪がうまく通るようにしたのかも知れない。なお、これから記入されている数字の単位はmmである。

溝の間隔は全体の写真から見ると870mmと850mmと違っているが、最上段には車が登り易いように切り欠きがある。その間隔が850mmであることから、本来は850mmで870mmは施工時か使用中にずれたものではなかろうか。

 

最上段は右の写真にあるように切り欠きがあり、その中心線での間隔は850mmであった。文化センターに展示されている人力車の車輪中心線間隔を測定すると850mmで同じであった。これよりこの溝にある石は人力車が登り易いようにしたものという聞き取りの情報は十分に理解できる。

 左の写真は道につながる部分でこれも登り易いように傾斜がつけてある。展示してある人力車は1人乗車用で車輪の幅は70mmで、車輪直径は1020mmであった。この様に車輪径が大きいので通るには問題はなかったのであろう。

 

 

あの溝のある石は人力車を通し易くするためのものだった!

この一連の調査で偶然見つけた溝ある石造品は人力車を通し易いように設置されたものとわかった。ただし、設置された時期についてはわからなかった。そして、人力車について調べてみた。最近は観光地でよく見られるのであまり気にしていなかったが、調べてみると以下のことがわかった。

1. 人力車のはじまりはいろいろな説がある。一般的には1869年(明治2年)泉要助、鈴木徳三郎、高山幸助の3名が考案し、翌年の1870年(明治3年)東京府から製造と営業の許可を得て、人力車の営業を開始したと言われている。

2. 全盛の頃は1896年(明治29年)で、全国で21万台があったといわれている。そして、都市交通だけでなく、組織化され乗り継ぎにより東海道、奥州街道などの長距離営業も行われていた。

3. 人力車の輸出もされており、明治後期では中国、インド、東南アジアなどに輸出していた。数は少ないがヨーロッパ、北アメリカなどにも輸出していた。

                 参考文献 日本史小百科 交通 東京堂出版

同志社のホームページにある「新島襄ディスコグラフィー」によると同志社の創立者である新島先生が1874年に帰国され、東京から故郷の安中へ帰る時に人力車を3台借り切って向かい、そして、安中に着いたのは深夜であったという。また、新島先生が全国を伝道のために旅行をされているが、鉄道網が整備されていない頃であるので、航路を利用し陸路は人力車、馬そして徒歩で移動されたとある。この様に当時は人力車が重要な移動手段の一つであったのであろう。そして、鉄道網の整備などによりしだいに衰退し、地方で自家用などとして残ったという。今回見た溝のある石はその自家用人力車を通すため作られたものであると思う。そして、寄贈された人力車を調べるために文化センターに行った時、教育委員会でこの民家を調査した報告書があると言われたので資料をコピーしていただいた。そこには「道路に至る階段には、診察に使用した人力車のための溝を切った石が残っており興味深い。」とあった。

 ということで大津と京都間で見られる「車石」と同じものではないが、軌間850mmに敷設した「石のレール」といえるのではないだろうか?しかし、「車石」が気になるのでさらに調べてみると京津間の交通事情が・・・ ではまたいずれ!

久しぶりの京阪3000

例の車石を実際に見てみようと大津の86さんに案内をお願いして、今日大津に行ってきました。京橋から浜大津まで京阪電車のルートで行くことにして、京橋から乗る特急を事前に調べるとと、これが3000でした。そして、京橋駅にてパチリ。先頭車で一番前で運転士のすぐ後の席で三条まで乗車しました。京阪特急として乗るのは何年ぶりでしょうか?

そして、40年ほど前の守口車庫での3000見学会の記念写真です。なつかしい顔ぶれがそろっています。その3000も来年の春に定年をむかえます。

展覧会のご案内 鉄道絵葉書の世界

奈良県立図書情報館に行ったとき、「鉄道絵葉書の世界」のパンフレットが目にとまりました。天理大学付属天理参考館の第66回企画展で7月4日から8月12日までおこなっているそうです。パンフレットによると今回展示される資料は明治から昭和にかけてのものだそうです。詳しくは天理参考館のホームページをご覧ください。これによりますと展示資料はすべて天理参考館の収蔵品だそうです。鉄道模型走行実演もあるようです。ただし、運転日不定期ですので注意してください。写真に写っている案内チラシもPDFで見ることが出来ます。チラシだけではさびしいですのであやしい電気機関車の模型もついでに・・・ OBの方でこれについてご存知の方もおられると思います。なにせ、現役の時、だれかさんから作りかけの車体をいただいて、ありあわせのもので作ったものです。

教えてください。天下茶屋のTORI

 京阪特急3000のオリジナルカラーで西村さん、INUBUSEさん、乙訓の老人さまから投稿があり、うれしく思っています。特に乙訓の老人さまの投稿で、はるばる越中に京阪3000が再就職した時、すべて塗り替えたのではなく京阪特急の現役時代の塗装のままで走っている写真を見た時は驚きと、またうれしく思いました。

 さて、フィルムで撮影した写真のデジタル化を行っています。総本家青信号特派員さまの「写真整理学-3-」に書かれていたビネガーシンドローム症状のフィルムがあり、このフイルムからデジタル化を行っています。症状はひどくないのでホットしているしだいです。このなかにINUBUSE様とW氏と一緒に行った九州の蒸機の写真があり、これがだめになるとかなりの痛手となります。なにせ、九州の蒸機の写真はこれしかないのです。このデジタル化をしているフィルムの中にいつ撮ったかわからないが、南海天下茶屋車庫で撮った写真で入換用だと思いますが、「TORI」と車体側面にかかれた機関車があります。これはいったいどのようなものなのでしょうか。ご存知の方は教えていただきたいと思います。

 

 

 

 

 

富山地鉄にあの懐かしい京阪特急が

今日、子供が帰ってきて、富山に行ってきてこんな写真を撮ってきたと見せてくれました。それが左の写真です。携帯のカメラで撮影したものですのであまり鮮明でありませんが、これを見てびっくりしました。すでにご存知の方がおられるかもしれませんがとりあえず報告まで。

いつから、どうなったか富山地鉄のホームページで調べましたがわからなかったので、「富山地鉄京阪特急」で検索すると、北日本新聞の記事に出ていました。これによると4月27日から運行していて、8編成のうち1編成を京阪オリジナルカラーにしたとありました。写真にあるようにハトのマークが付いています。記事には地元の富山レールクラブの会長さんも「鉄道ファンの間では、黄色と赤の”京阪色”が車体にマッチすると話題になっていた。本来の色に戻った車両を今後撮影したい」と言われています。また富山地鉄の人も「富山でぜひ乗ってほしい」といわれています。私も富山にいましたので美しい富山の風景のなかを走る京阪特急はすばらしいものと思います。西武のレッドアローの観光列車やなかなか話題の多い富山地鉄です。また、楽しみが増えました。

車石と中国少数民族イ族のこと

 先日、「佐竹さんを囲む会」に参加して新たに興味深い話をお聞きしました。まず、乙訓の老人さまと例の勢和鉄道についてワイワイガヤガヤとやって、形見分けとして「新日本鉄道史 下 」をいただきました。その後、総本家青信号特派員さまからOB会員ではありませんが今回参加された南草津図書館におられるN氏を紹介していただきました。勢和鉄道やら信貴電やらその他関西周辺の鉄道建設計画などについて面白い話を伺いました。その中で鉄道ではありませんが「車石」の話が出て来ました。これについては私はまったく知りませんでした.

 勢野北口駅近くにある飛鳥時代に聖徳太子が創建した平隆寺が生駒線のすぐ横にあります。このお寺の近くを走る生駒線の電車を以前から撮ってみたいと思っていました。下の写真がそれです。右の電車のうしろの木があるところが平隆寺です。左のお寺は勢谷寺です。地名は「野」ですが寺は「谷」となっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真を撮ってから家に帰る途中で不思議なものを見つけました。それが下の写真にあるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初は何じゃこれはと思いながら通り過ぎましたが、気になったので戻ってきて写真を撮った次第です。荷車を屋敷の中に入れるため、登りやすくしたものではないかと考えました。間隔がちょうど荷車の車輪間みたいで、溝がある石のレールの様でした。このときはまだ車石のことは知りませんでした。ひょっとしたらこれは車石ではないでしょうか。N氏のお話やインターネットで調べたら旧東海道で京の町へ荷物を運ぶために敷設?されていたようで、大津周辺でその遺物 が多くあるようです。私が見つけたのは奈良県で大津周辺から遠く離れています。そうすると、この車石方法は一部の地域だけ知られていたのではなく、他のところでもこの方法が伝わって使われていたのでしょうか。もしかしたら他のところでも見つかるかも知れません。

 さて、「佐竹さんを囲む会」がお開きになったので佐竹さんにあいさつして帰ろうとしましたが、写真展初日にお会いしたとき伺った少数民族イ族の話で再び盛り上がってしまいました。この話に興味があるのは日本文化の基盤のひとつとして考えられている照葉樹林文化がイ族が暮らしている地域から西日本にまで分布しているとされているからです。これについては多く本がでているし、国立民族学博物館にいけば知ることができると思います。大阪モノレールに乗って行きましょう。そして、すでに半分は読みましたが最近ご無沙汰している司馬遼太郎の「街道をゆく 中国・蜀と雲南のみち」を買いました。しばらく時空の旅をしようと思います。(NHKの街道をゆくというシリーズで”時空の旅人 ”といっていました。なかなかいい言葉だと思います。)昔の鉄道を探るのも時空の旅になるのでしょう。

こんなん、出てきました。 レンゲと蒸気機関車と・・・加古川線の段

 明延の一円電車の写真が見つかった時に、すでに忘れていた写真が多く出て来ました。その中にレンゲ畑の中を加古川線のC12が引く貨物列車の写真がありました。前回の時にぶんしゅうさんからニコンのCaptureNX2という画像処理ソフトを教えていただいて、さっそく体験版で実際に画像処理をしてみると、なかなか具合がよろしいので購入いたしました。それを使って加古川線で撮った写真をなんとか見ることが出来るようにしました。

上の写真が退色復元し、カビで変色した部分などを修正したものです。ごらんのように天気が悪く、ねむい写真になっています。このときの事情が私が保存している「青信号」とともにDRFCの重要な情報誌である「補機」35号に記事として載っていました。

ごらんの写真の様に「青信号」と同様に全手動孔版印刷によるものです。表紙の絵は熊本市交通局350型電車です。

 さて、その記事の題名は「1日Ⅱ←(1or 2)?本もとれる加古川線を訪ずれて」です。原文どおりに書きましたが、実は一部おくり仮名が間違っています。それでは本文ですが「5月3日の憲法記念日、私は加古川線に 蓮華の花とC12を求めて京都8:05発の快速に乗車した。茨城からI氏が、大阪からY氏が乗って来て、ここに第2次青野ヶ原現地闘争のメンバーが集まった。」とあります。人名はイニシャルで記載いたしますので、だれか想像してください。どうも5月連休の時に行ったようです。筆者は蓮華の花とC12にこだわっていたようです。「・・・、10時10分発の鍛冶屋行のディーゼルの乗車、車はキハ177である。とにかくロケハンというので青野ヶ原より一つ向うの社町迄乗ったのであるがクサイので青野ヶ原に、次の上りで引き返す。」今では廃線となった鍛冶屋線の終点鍛冶屋行に乗ったようです。この文章のなかで「クサイ」とあるのは臭いが「クサイ」のではなく、写真にするには風景として雑然としてよい写真にならない時などに使用する言語で、当時のDRFC人が好んで使用した言語です。ほかに「クサイ写真やな~」とかいろいろな場面に使用されていた様です。いまではこのような言葉は不適切な表現となるのでしょうか?

 青野ヶ原に戻ってから本文はI氏がフィルムが買うために八百屋や散髪屋などをうろちょろしているくだりがあり、その後「5分程歩くとコッテリ蓮華のある所があったので、そこに三脚を据える。まだ時間があるので持参した弁当で腹ごしらえをする。どうせのろいのろいとタカをくってゆっくり食っていると突然汽笛一声とともにスサマジイスピードでやって来た。C12167+貨車3両である。」 このときの写真が最初の写真で、さらに接近したときの写真が下の2枚の写真です。

 

そして、筆者は「あわててシャッターを切ったが、アッというまにポコポコ行ってしまった。普通、写真を撮った後は何か余いんが残るのに今度ばかりは何も残らなかった。C62がはやいのはいいもんだがC12があんなに早く走ってはワヤクチャである。」と書いています。とにかく天気が曇りと光の具合が悪く、鮮やかさに欠けた写真になってしまいました。露出やシャッター速度の条件もまだ未熟なのでうまくいかなかったのでしょう。最近のデジカメであれば機械がうまく調整してくれるのでこんなにひどくはならないと思いますが・・・ 。とにかく、画像処理のおかげで何とか見ることが出来ますが、カビによる変色についてはもう少しよくなるように研究が必要です。

 さて、この後は下りの貨物列車までに4時間ほどあるので神戸電鉄で小野の町まで行って時間をつぶしたと書かれてあります。再び、青野ヶ原に戻り、「そして青野ヶ原-社町間の大築堤の所でタップリ蓮華を入れて三脚をセット。まず2本の気動車を狙う。」この時に撮った写真がごらんのようなピントがどこに合わしたか、狙いの定かでない写真が出来上がりました。

前ピンでもない、中ピンでまったく恥ずかしい写真となりました。まあ、これはこれで斬新的な試みとして慰めるしかありません。そして「・・・、いよいよ本日のメンエベントである下り貨物を今や遅しと待ち受ける。しかしホンマに遅いがな!!貨物は15:58青野ヶ原通過であるが来いヒンがな。いやな予感がした。・・・いやそんな筈は無いと言い聞かせ、しばらく待つと、スワッ!! やっぱり運休である。・・・、家に帰るために16時20分の748Dに乗り粟生迄行く。車両は木破銃菜々七である。帰りは、神戸電鉄で新開地、阪急で河原町迄と帰って来たが家に着いたのは8時過ぎであった。もちろんヨレボロである。」結局、このときは上りの貨物列車と気動車を撮っただけであったが、今となってはレンゲ畑とC12の貨物列車という貴重な写真になったとしだいです。そして筆者は「しかし、加古川線はエエ、皆様に勧めます。」と締めくくっています。さて、これを読んで加古川線に行った奇特な人はいたのでしょうか。

そして、上の写真はレンゲの花と戯れる筆者の姿です。さて、だれでしょうか?はるか、41年前の出来事でした。

こんなん、出てきました。(2) 明延の一円電車

 両親が住んでいた家の物置を片付けていると、あやしいダンボール箱があって、開けてみると40年ほどたった鉄道模型の遺物がありました。このときはこのダンボール箱を発掘調査をせずに、次の日に発掘調査をおこなったのであります。すると模型の遺物だけでなくカラースライドの入った箱があり、調べてみると高校生の時に撮った写真がありました。中には親父が撮った写真があり、還暦をすぎたおじいが小学生の時の姿が写った写真もあったのです。鉄道の写真では全部を調べていませんが、とりあえず見つかったのは「明延の一円電車」「播但線のC57、C57とDF50の重連、キハ58か28の急行列車」「日中線の列車 喜多方駅と熱塩駅」などです。とりあえず「明延の一円電車」の写真4枚を・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上の写真をごらんのようにフィルムは退色していましたが、エプソンのスキャナードライバーソフトにある退色復元をおこなうと何とか見られるようになります。ただし、カビとかフィルム表面が傷んでいると、カビの部分が青くなったり、フィルムの傷んだ部分が赤くなったりして、あとは画像処理で修復しないと戻りません。実際にやってみると正倉院の御物の修復みたいで、このような作業も面白いものです。親父も写真が好きで会社の仲間とよく撮影旅行に行っていました。モノクロ写真もありましたが、カラースライド写真も多く、よく家で映写会をしていました。そのときの映写機とスクリーンもまだあります。親父は晩年に撮った写真のほとんどがリバーサルフィルムで撮影してプリントしていました。発色がいいのでしょうか。

 左の写真がスライドフィルムです。紙のマウントを使用しています。これはまだ固定されていますが、はずれているものもありました。これを見ても退色しているのがよくわかります。

 撮影に使ったカメラはペンタックスSPでフィルムは富士フィルムです。さくらフィルムも時々使いました。親父は桜の花や紅葉など華やかな被写体や赤系統の色調の写真はさくらカラーで、新緑の風景など緑系統の色調の写真はフジカラーと使い分けていました。 いま使っているCANON EOS10のフィルムカメラは親父が使っていたものです。ただし、レンズは新しく買ったものを使用しています。

 

 左の写真は当時の切符です。1円の切符は鉱山に勤めている人や家族の人が乗るときに使用する切符で、10円はそれ以外の人が乗るときの切符です。ゴム印で押したもので「明神電車」とあります。裏はなにもありません。

 なぜ、一円電車に乗ったかというと当時は鉄道友の会に入っていて、阪神支部の見学会に参加したためです。友の会の会報も残っています。また、雑誌鉄道ファンにある友の会のページにこのときの様子が書かれてありました。また、発掘調査後、埋め戻したので調べるためには再度発掘調査をしなければいけません。そのうち、また発掘調査をするでしょう。当面は遺物や御物の修復技術の習得に励みたいと思っています。

鉄路の北前船と六文銭の里を走る電車 その3 長野電鉄ぶらぶら(午後の部)

湯田中駅前の「楓の湯」でひと休みしてから活動開始です。まず旧湯田中駅の見ることにしました。これは有形登録文化財になっています。訪れたときは雛祭りの季節なので段飾りの雛人形が飾っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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