都市伝説だったのか?オレンジ色に塗りまちがえられたクモハ32

 「【46552】昭和45年6月27日 高槻電車区見学会」のなかで「車両班見学メモ」にクモハ32が吹田工場で塗り間違えた話があったことが書かれていました。その後に関三平さんの「昭和の電車」でオレンジ色のクモハ32002が紹介されて、“あれあれあれ”という感じで「【46728】まいど!お騒がせの高槻電車区 クモハ32002の不思議」を投稿しました。この投稿に関して井原、藤本両先輩から貴重なコメントをいただきました。

 さて、「まいど!お騒がせ・・・」に書いてある文章を後で読んでみると、何やらぐちゃぐちゃに混乱していて恥ずかしいぐらいです。コメントをいただいてから、このままの状態にするわけにはいけないのでわかる範囲で調べてみました。まず最初にコメントで教えていただいた電車の所属区と所属区の移動について図解しました。図解してみると淀川の002と高槻の001が交換された形跡が見られないように思いました。そして、オレンジ色のクモハ32は001なのか002なのか、それとも・・・。では、推理をしてみましょう。

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まいど!お騒がせの高槻電車区 クモハ32002の不思議

 以前クエ9300に関して西村さんが投稿された高槻電車区見学会のコメントでクモハ32の写真があったと書き込んだのですが、再び少しばかりお騒がせをしたいと思います。まずはクモハ32002の写真からどうぞご覧ください。見学会で撮影したものです。左側に“茶坊主”でなくて、誰かの腕が写っています。

JPG-高槻電車区クモハ32001

 正面の窓はHゴムに改造されています。写真で見る限り塗色は茶色のようです。ところで関三平さんの「昭和の電車 国鉄クモハ32002号 特別塗装の内勤者」ではオレンジ色をしていたとありますが、「【46552】昭和45年6月27日高槻電車区見学会」で「車両班見学メモ」の解説文の中で次のように書いてありました。

「以前高槻には32001、淀川には32002がいたのですが、吹田工場で32001に間違ってオレンジ色に塗ってしまったため淀川の32002と交換したという話が残っています。」

これによるとオレンジ色のクモハ32は001で淀川電車区にあって、多分片町線で走っていたのではないでしょうか。片町線の旧型電車はオレンジ色であったと思います。ところでもう一両のクモハ32003はどこなのでしょうか。手持ちの「電車ガイドブック」には岡山駅で1962年8月と日付のあるクモハ32001(写真の車番がはっきり見えないが活字として記載されている。)の写真が載っています。モノクロ写真ですが色は茶色のようです。行き先表示から宇野線での運用のようです。どないなっているのでしょか。どなたかこの不思議を解いてください。

馬堀で時空散歩  あの写真はどこで撮ったのだろうか?

 山陰線の馬堀へは学生時代にはよく行ったものである。ところが卒業後はほとんど、ご無沙汰である。馬堀で撮った写真で気になっているものが一枚あり、これを撮った所がどのようなところであったか、もう一度行ってみたいと思っていた。そして40年あまり過ぎた4月15日に行ってみた。京都からの電車内は観光客でいっぱいで特に海外からの観光客が多い。40年ほど前ではこんなことはなかった。昔は気動車もあったがほとんどが客レ(客車列車のこと)であったし、乗客も少なかった。そして駅周辺は田んぼだらけであった。今は馬堀駅の南側は住宅地が広がっている。京都から馬堀まで電車で25分ほどであるから通勤などには便利がいいからであろう。

 馬堀には嵯峨野トロッコ列車の終点であるトロッコ亀岡駅があり、馬堀駅は40年前と違って多くの観光客が降りる。特に海外からの観光客が目立つ。観光客はトロッコ馬堀駅へと行くが、私は急いで桑田神社へと向かった。40年前の撮影場所と目星を付けていたからである。特急きのさきや気動車特急はしだてとなっているKTRタンゴディスカバリーもやってくる。とにかく神社へと急ぎ、撮影場所を決めなければならない。散りかけているがまだ満開のような桜とともに列車を撮れるところを見つけた。

馬堀-002

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元祖4扉通勤電車の写真発見

 DRFC現役時代に高槻電車区見学会で救援車となった元祖4扉通勤電車を撮っていました。多分、当時見学会に行かれた方も撮影していると思います。「青信号24号」の活動報告の中に6月27日(1970年)高槻電車区見学会14名参加とあります。

高槻電車区救援車001-1

ところでこの写真でいいんですよね?運転台より3枚目の扉が改造されているようです。電車の詳しいことはわかりませんので先輩諸氏よろしくお願いします。

 

交通科学博物館で時空散歩

 今月の6日で閉館する交通科学博物館へ行って、展示物の写真を撮ってきた。展示物のなかで以前に見た自転車を撮りたかったのであるが、今回は残念ながら展示していなかった。それでも写真を撮りながらじっくりと見てみるとなかなか面白く、しだいに忘れていたものが思い出してくる。博物館を見ることの意味の一つとしてこういう点もあったと考えさせられる。

 訪れたのは3月28日(金曜日)でちょうど春休み中であることもあって賑わっていた。今回はまもなく閉館するとあって、年配男子がいつになく多く来ていた。そういう私もその中に含まれるのであるが。館内はそんなに展示物が見られないほどの混雑ではなく、いつもの休日に家族連れが少し多い程度でいい雰囲気であった。

交通科学博物館館内

 撮影をしながら見ていくと「あっ、あの時こんなんあったんや」とか「へ~、こんなぐあいになってたんか」というのがある。そういうものを少しばかり。

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よみがえった大阪顔をした電車の写真

 阪堺電車に鹿児島の市電など大阪顔の原型ともいえる3001型のカラーポジ写真が以前に家を片付けている時に見つかった写真の中にありました。大阪顔の電車の話がでてきたのでデジタル化をしてみることにしました。しかし、ほかの写真(以前公開した加古川線、南海の緑の電車など)もでしたが保管が悪く、カビカビで赤く変色している部分があります。以前と同じように 何とか見入ることが出来るように画像処理ソフトを使用して修復を行いました。修復作業は根気よく、しかも時間をかけてじっくりしなければなりません。この作業はあまり長い時間を続けてすると目が疲れます。よって少しずつしかできません。今回はカビの被害が少なかったので何とか短い期間で2枚の写真が公開できるようになりました。ひどいものを修復するときは1か月以上もかかります。南海電車の写真はとにかくひどいもので苦労しました。

 修復した写真をよく調べてみるとどうも守口で撮ったようです。

大阪市電3001形-1

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「いい加減な電車」の写真があったやちゃ。よかったら越ノ潟へ行ってこられ。

 「なんだこりゃ?窓の配置」電車が走っていた加越能鉄道高岡軌道線は万葉線株式会社となり、路線も通称万葉線となった。ところで、万葉線の万葉とは万葉集からきたもので、その万葉集には越中国守として現在の伏木にあった国府に赴任していた万葉歌人である大伴家持の歌が17巻から19巻に載っている。そして「越中万葉」と呼ばれているものが家持以外の歌も含めて337首ある。まんざら、越中は万葉集とは無縁ではないのである。

 さて、本題の「いい加減な電車」の写真であるが家持と同じように奈良から越中に単身赴任をしているときに万葉線を訪れて撮ったものである。撮影した車両は7053号で、2003年3月9日に越ノ潟駅で撮っている。

manyou006

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年の初めは 信貴電の不思議

新年あけましておめでとうございます。本年もお願いします。

 さて、「信貴電の不思議」でありますが、大和川橋梁の橋脚が継ぎ足されていることについて疑問に思っていました。いろいろ調べてもよくわかりませんでした。昨年のことですが、鉄橋のすぐ近くに「久度神社」があるので、そこの方に聞いたらなんらかの手がかりがあるのではないかと思って行ったのですが、どなたもおられませんでした。それでは正月であれば初詣の参拝する人が来るので、神社の方もおれれるのではということで1月2日に初詣を兼ねて久度神社にお参りをしました。さて、「久度神社」は「久度神」をお祀りをしています。しかし、平安遷都の時に平野神社へ「久度神」を遷座されました。ところが、名前は「久度神社」のままでした。再び、平野神社より「久度神」を勧進してお祀りしています。それは昭和になってからで遷座してから1175年という歳月が経っていました。鉄橋のことをお伺いした神主さんは氏子の方々が年に一度、平野神社へ正式参拝を行っていると言われていました。この「久度神」がカマドの神さんといわれている事について神主さんにお聞きしたら、カマドのことをクドということから、後の世になってから「久度神」がカマドの神さんと言われるようになったとおっしゃっていました。ところでカマドは「へっつい」とも言いますが、湯口先輩の名著『「へっつい」の系譜 -低重心超小型機関車の一族-』の冒頭に“おくどさん”という言葉が出てきます。大阪では“へっついさん”といっていましたので、私は“へっついさん”の方がなじみがあります。そういえば子供の頃、家には“へっついさん”がありました。

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   ↑ さわやかな境内の久度神社 

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 ↑ 右側の森が久度神社の神域です。(この写真は昨年の5月に撮ったものです。)

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40年前の出雲路紀行 一畑電鉄と木次線

 米手作市さんの「50年ぶりの木次線」を拝見して、私の場合は40年前ですが一畑電鉄を訪れて、その帰りに木次線を経由したことがありました。その時の写真がありますので当時のことを思い出しながらご披露したいと思います。時は1973年12月10日から11日とネガカバーに日付が書かれてあります。ところがなぜ12月10日、11日に行ったのかよくわかりません。おぼろげながらゼミ旅行で玉造温泉に行ったような気がしているのです。しかし、定かではありません。このときに一畑電鉄の一畑口から一畑薬師のふもとでかつて一畑駅があったところまでバスで行ったのです。ところで西村さんも「追憶の旅(その2)」で一畑電鉄川跡駅と一畑廃駅の写真が投稿されています。どうも西村さんと一緒に行ったようです。川跡駅での写真といい、一畑廃駅でのバスを写した写真もほとんど同じものでありました。

 MN01804-一畑電鉄

 上の写真は大社方面から来た電車が着いて、出雲市か松江方面へ乗り換える乗客が駅構内の踏切を渡っているところです。西村さんの投稿されている内容を見ても同じような光景のようです。

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1970年夏のC56149

 準特急さんの「保存蒸機とその現役時代(17)」でC56を取り上げておられ、その中で小海線のC56149の保存機を見てひょっとしたら1970年DRFCに入会して初めての夏期合宿(小海線清里)で撮った写真の中にC56149があるのではないかとさがしてみたら、やはりありました。単機回送と貨物列車でした。単機回送はあの有名な西川鉄橋で撮ったものです。まずは西川鉄橋で撮ったものからご覧ください。

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秋田にまぼろしの電車を求めて

 どうも、信貴電の呪縛から逃れることが出来ない。信貴電に関することを調べていく中で過去に秋田で走っていた電車がなにやら関係があるかもしれないのではと感じたのであるが詳しいことがわからない。もやもやとしていたのであるが、ふとしたことから秋田県立博物館で「あきた大鉄道展」を知り、8月25日までは小特集として「機関車・電車のものがたり」で秋田の電車についても展示があるという。ということで、なにか手がかりがないかと秋田へ向かったのである。秋田行きからまもなく2ヶ月になるので秋田弾丸ツアーの一部始終を述べてみよう。

 秋田へ行くには特急日本海があれば大阪駅発17時47分で秋田駅には翌日5時32分に着く。しかし、もはやお盆の時期でも不定期で走らなくなったようだ。飛行機以外は新幹線を乗り継ぐか日本海側を特急3列車乗り継ぎでいけるのであるが、どちらも秋田で用を済まして帰ってくるには秋田で2泊しなければならない。しかも旅行代金として高くつく。そして夜行ではないので効率が悪い。残る手段は船便とバス便である。 

 8月19日、敦賀10時出港の新日本海フェリーの新潟、秋田寄港の苫小牧行「あざれあ」に乗船して秋田へ向かったのである。秋田に到着するのは翌日5時50分の予定である。船旅では時間がタップリあるので、これをうまく利用するに越したことがない。私は日頃ゆっくりと本が読めないので、本を読むことにしている。沿岸を航海しているときは風景を眺めたり、船内をブラブラしたり、本を読んだりと好きなことをしているとすぐに時間がたつ。考えてみればたいへん贅沢な旅であるが、ツーリストJ船室(このクラスは従来の2等船室である。)であれば運賃は秋田まで6800円である。こんなに安い料金で贅沢な気分を味わえるのはすこぶるよろしい。

 フェリー航海-L

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近鉄内部・八王子線存続へ

存続か廃止かと以前よりヤキモキしていた数少ない軽便鉄道の近鉄内部・八王子線の鉄道存続が四日市市と近鉄の間で合意されたと本日9月19日23時の朝日新聞デジタル版で報道されていました。報道によると車両と施設は近鉄から四日市市へ無償譲渡され、運行は近鉄の子会社が行うという「公有民営方式」を導入されたとあります。年間約1億3千万円の赤字については料金、人件費などの見直しを行い、四日市市と近鉄の両者で負担するということで合意したそうです。さらに詳細について協議を行っていくとの事です。昨年末に訪れた時も思っていたより利用者が多いので廃止になると利用者は不便になるのではないかと思っていましたが、存続が決まって何よりです。しかし、赤字には違いないので合理化をして新しい公共交通機関として生まれ変わることを望む次第です。下の写真は1973年11月に撮影したもので、この時より現在の方が乗客が増えているのではないかと思いましたが、勘違いでしょうか?沿線も畑や田んぼが住宅地に変わっているので利用者を増やす余地があると思うのですが。

近鉄内部線日永駅

はしーる電車は緑の電車、なーんなーん南海電車

総本家青信号特派員様のおかげで幼い頃の南海電車を思い出しました。加太線ではありませんが、よく祖母と一緒に学文路にいった時のことです。難波より緑の電車に乗って行ったのです。森林鉄道みたいな紀見峠越えを緑の森の中を緑の電車がくねくねと走っていったのをはっきりと覚えているのです。私の場合は南海電車といえは高野線でした。そして少しばかりの写真を。

まず、最初に緑の電車です。鉄道友の会に入っていた時に千代田車庫見学会に撮ったものです。ポジカラーですが保管が悪く、カビだらけになってやっとデジタル処理で何とか見れるようにしました。色は少し悪いですが緑の電車の雰囲気があると思います。

南海千代田-01

修正南海千代田-02

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信貴電の不思議 じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川の橋脚が

  じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川橋梁の橋脚が~~~なんと・・・・。

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最初の「信貴電の不思議」で書いたように大和川橋梁の橋脚が開業当初のものかどうかわからなかったのです。社史に書かれていた橋桁数が現在の橋梁と異なっていたのでわかりませんでした。ところで、例の信貴電に関する奈良県公文書の中に大和川橋梁の図面がありました。これで開業当初の大和川橋梁がどんなものかわかりました。それを簡単に図にすると下のようになります。

 開業時の大和川橋梁の図

      開業時の大和川橋梁をデハ100が王寺に向かって走っていくの図

ご覧のように王寺側の橋脚数が現在と違っています。また橋桁の高さと長さが王寺側の6連と信貴山下側の5連では違っていることがわかりました。現在の橋脚は王寺側が3本抜けているのもわかりました。そして、その橋脚が抜けたところに痕跡があるか調べに行きましたが、その痕跡はありませんでした。ところが、偶然にも他の重要なことが発見できたのです。

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信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その2

いよいよ問題のボギー台車の考察をしようと思う。このボギー台車は単台車と違って写真が残っている。しかし、この写真は信貴電のデハ100形のものでなく池上電気鉄道(以下池上電鉄と略称)のデハ3,4のものである。池上電鉄は現在の東急池上線で大正11年10月6日に鎌田・池上間が開通した。信貴電の開業が同じく大正11年であるが5月16日より営業開始をしているので、池上電鉄の方が信貴電より5ヶ月ほど後で開業している。池上電鉄も開業にあたり日本電機車輌に4両発注していたが開業までに完成しなかったようだ。ところが信貴電では池上電鉄が開業に間に合わなかった村田式台車をはいた同じタイプの電車が走っていたことになる。この池上電鉄の電車はしばらくして完成して納車された。この4両のうち2両は問題の村田式台車で、残りの2両はブリル27GE1であった。村田式台車はこのブリル27GE1を改造したものと言われている。この村田式台車をはいた池上電鉄の電車と台車の写真は村田式台車を考察するのにたいへん重要な資料となった。

ボギーになった村田式台車は

はじめて見た村田式台車の写真の印象は“なんとキャシャな台車やな~!”というものであった。走っているうちにバラバラになるのではないかと思ったぐらいである。その村田式台車の姿を図1に示す。

村田式ボギー台車

図1.村田式台車

図1は奈良県公文書の図面から主要部を中心に作成したものである。当時(大正時代)としては珍しい全てコイルバネを使用している。外観からの印象では戦後の高性能台車のようであるが実際はどのような台車であったのか。そして特許車台動揺防止装置は?公文書の図面と池上電鉄の台車の写真から村田式台車を考察してみようと思う。

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人と鉄道と 近鉄 オーストリアに寄せて

 ぶんしゅうさんが1フレームに複数の写真を表示する方法を投稿されましたので、同じようにやってみました。お会いした時にPhoto shopで出来ると聞いたので、早速にマニュアル本を頼りにテスト的にやってみました。その後、投稿記事があったので、これも参考にして本格的にやってみました。まったくいっしょの方法でありませんが、ちょっと見てください。文字も入れてみました。また、新しい技を習得できたのでうまく組み合わせていきたいと思っています。せっかくだから手持ちの写真で最近の投稿に因んだものにしてみました。

 「人と鉄道と」をベースに写真を拾って見ました。古い写真から順番に。まずは近鉄からです。

橘寺駅 2題-1

 近鉄橘寺駅で撮った写真です。中学生の時に飛鳥へハイキングに行った時に撮った写真です。カメラはオリンパスペンSです。ハーフサイズカメラです。

人と鉄道と 4題

上の4枚の写真は4番の写真以外は高校生の時のものです。4番はDRFC現役時代です。さて、これらはどこで撮ったのでしょうか?全て有名な?所です。当ててみましょう。

 大津の86さんがオーストリアに行かれたそうで、それに因んで少しばかり。オーストリアの写真は仕事をしていた頃、会社からヨーロッパの工場視察のツアーに行った時に自由行動の日にウィーンから日帰りで行って撮って来ました。現在のチラタール鉄道がどうなのか投稿を楽しみにしています。

オーストリアの蒸気機関車

 ところで鉄道写真といえばDRFCに入った1970年7月に発行された青信号24号に写真班が「鉄道写真とは何か」というアンケートの結果がまとめてあります。読み返すと面白いもので、「6×6判は正しくない!」とか「乱写は間違っている」とか「一発至上主義は間違っている」と喧々諤々と好き勝手なことを当時は吼えまくっていたのです。私も新人であるのにアンケートを書いてくれと言われて、これが私の最初の青信号投稿記事になりました。ところでこの中でなぜか「カメラは蛇腹が最も正しい!!」というのが印象に残っていて、富山にいる頃に商店街に写真屋さんショーウィンドにあの「パールⅢ」が置いてあるのでム、ム、ムッムでありました。いつもその店の前を通るとしげしげと眺めていました。今でもあるのでしょうか。富山に行くことがあればのぞいてみたいと思います。 

 

だいぶん前の、ちょっと前の、ついこないだの路面電車

乙訓の長老様が投稿されていましたが、6月8日の日に阪堺電車あびこ道にある車庫で「路面電車まつり」がありました。目的はデト11の台車でしたが、イベントの舞台に使っていたので写真撮影や詳しく調べることができませんでした。しかし、乙訓の長老様から資料や写真を提供していただいたので調べたい内容はほぼわかりました。また、ここでお会いした日本路面電車同好会関西支部の皆様にはいろいろなことを教えていただきありがとうございました。この場をかりて厚く御礼申し上げます。

_MG_1141

「路面電車まつり」に因んで、今までに撮った路面電車の写真を新旧おりまぜて少しばかり。まずは「だいぶん前の路面電車」から。といっても45年ぐらい前と思いますが、見ていただきたいと思います。

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信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その1

近鉄生駒線の大和川橋梁の橋脚が複線用となっていることから始まった「信貴電の不思議」はさらに芋ずるのごとく次から次へと「信貴電の不思議」が出現した。天理参考館で買った絵葉書にあったデハ51形の仲間が池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄、そして水間鉄道などにも同型車があったこと、そして遠く新潟県の蒲原鉄道にもあったことがわかった。そして、デハ51形が走り出す前の開業時に走っていたデハ100形は日本電機車輌株式会社という謎めいた会社に発注されたが当時の経済環境から自社製造となった電車である。このデハ100形と日本電機車輌株式会社については調べれば調べるほどナゾの深みにはまっていった。そして、このデハ100形については当時としては画期的と思われる村田式台車と言われる台車をはいていたという。とりあえずはこの村田式台車について数少ない資料から考察してみようと思う。

考察するにあたって、私の手元に村田式台車に関する資料として以下のものが手に入れることが出来た。ほとんどが図書館などの複写資料であるが鉄道史料第130号については書店で購入した。

1.特許第29813号 明細書 車台動揺防止装置

2.奈良県公文書 大正10年信貴・生駒電気鉄道 土木課

3.鉄道史料第98号 大正期・大軌関連資料を探る(3)

信貴生駒電鉄創業期の車両について   今井健夫

4.鉄道ピクトリアルNo.727

信貴生駒電鉄開業時の車輌101形を探る  吉川文夫

5.鉄道史料第130号 目蒲・東横 戦前期の車両  高山禮蔵

6、DRFC OB会の長老様より送っていただいた写真と図面のコピー

最近は公立図書館などがネット上でデジタル化された文献などが閲覧や文献の検索ができるので便利である。各図書館で必要とする文献が蔵書されているか調べて、蔵書があればその図書館に行けば目的の文献が閲覧できるのでたいへんに助かる。便利になったものである。上記の1番目の特許明細書と2番目の公文書にあった図面を主にし、その他を参考文献として考察をおこなった。

かつてデハ100形が走っていた大和川橋梁、今は近鉄電車が走る。

かつてデハ100形が走っていた大和川橋梁、今は近鉄電車が走る。

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テレビカー、時代祭行列が駆け抜けた。そして、越中で

 総本家青信号特派員さまが「京阪(旧)3000系を思う」と題して5回の連載投稿をされていました。正月や祇園祭りの頃、雑踏の中を走る京阪3000系の写真は圧巻で、さすが総本家青信号特派員さまと思いました。これらの写真には足元にも及ばないですが、富山に再就職した京阪3000系の写真も含めて綴ってみることにしました。

MN00314-京阪3000

寝屋川車庫での5000系見学会で撮影

 まずは昭和46年(1971年)6月の守口車庫での見学会の写真から。 続きを読む