湯口先輩の「コンヤの電車」を見ていると、これと同じような電車を撮ったことがあるのを思い出しました。乙訓の長老様のコメントを読んでみると、ドイツで撮ったような気がして写真を見てみると、1994年6月にドイツのフランクフルトであった国際化学技術・バイオテクノロジー見本市視察ツアーに参加して、ケルンに行った時に撮った電車とよく似ていることがわかりました。ケルンで3連泊して企業と大学を訪問したのですが、自由行動の時間があったので市内をぶらついて撮ったものです。さて、これは同じ電車なのでしょうか。
投稿者「どですかでん」のアーカイブ
ぐるっと鹿渡 第4日目 木曽谷を下って これは何なの 〇△?道 ガイドウェイバス
ぐるっと鹿渡 第3日目 無念 の上境、そして姨捨から松本平へ
阪急2300と柴島浄水場の桜
桜咲く大和路 近鉄生駒線と田原本線
ぐるっと鹿渡 第2日目 いざ行かん、豪雪の飯山線へ
もう桜の季節になったのにもう少し激寒の季節の話を・・・
上野駅から高崎線、上越線を経由して越後鹿渡に行くのは準特急さん、大津の86さんと私である。しかし、飯山線へは越後湯沢からほくほく線で十日町からと、越後川口から飯山線に入るルートの2つがある。とにかく、行ってみないと雪の状況がわからない。状況を見てから、どうするか考えるしかない。上野駅8時39分発の高崎行快速は3名を乗せて順調に北上する。上尾駅を通過。なぜか実際にはなじみがないのに覚えている。上尾事件が頭にこびり付いているからである。そんな話をしていると、左には遠くに富士山が見え、右には国定忠治の赤城山が見える。上州といえば新田郡三日月村の生まれ“木枯らし紋次郎”。我々3人は渡世人のようなものである。堅気さん(地元の人)には迷惑をかけてはいけない。これが渡世人の仁義である。鉄の渡世人の中には堅気さんに迷惑をかけるものが時々見受けられるが。
ぐるっと鹿渡 旅の計画と第1日目 君は木道を見たか
準特急さんの投稿からあれよ、あれよという間に鹿渡で冬季狂化合宿を行うことになった。さて、どのようにして鹿渡に行くか。旅の楽しみは計画を立てることから始まる。まず、デジ青にもあったように上境駅近くのお墓にはお詫びに行かなければならない。鹿渡の先に行くか、それとも鹿渡に泊まってから行くかで変わってくる。考えた末に大阪を長野行の夜行バスに乗り、早朝に長野駅から飯山線で上境へ、そして鹿渡へという計画にした。が、東京在住の会員と親睦を図ろうという話がでて、東京経由で鹿渡へ行くことになった。さて、どのようにして東京へ行くかであるが、ここが最初の思案のしどころであった。どのようなことを考えたかというと・・・
1.できるだけJR以外の鉄道会社路線を使って行く。
2.旧東海道線を通って行く。すなわち、丹那トンネルを通らずに御殿場線を通る。
3.最寄りの王寺駅より西日本ジェイアールバス夜行高速バスのプレミアムシートに乗って行く。
4.徳島まで行き、オーシャン東九フェリーで行く。
などであるが、これらはただ乗るだけであるので意外と東京までの間のところをあまり見ていない。東京までのどこかを見ながら行ってみようと考えた。
ついに途絶えた東海道本線の客車列車
「トワイライトエクスプレス」の運行が終わることについて豪華寝台特急が運転終了として巷では騒がしかったが、もう一つの意味がある。それは東海道本線を走る客車列車がなくなるのである。団体貸切特別列車のような客車列車は走るかもしれないが、どこかへ行くお客さんが乗っている客車列車はなくなる。東海道本線はすべて動力分散式列車となるのである。輸送手段としての効率から考えると動力分散式の方がよい。効率重視で考えると電車などの動力分散式に変わって行くのは当然のことだと思う。
長野電鉄OSカーの写真のこと
関三平さんの「昭和の電車」で長野電鉄のOSカーが出てきた。この電車ができた時に雑誌鉄道ファンで見たのだが、正面のデザインが地方私鉄の電車とは思えないような形で驚いたものである。しかも、FRPで出来ているので、これもすごいなあ~と思っていた。まだ、中学生や高校生では見たくても、長野まで行くことはできなかった。しかし、高校生の時に長野に行く機会があった。この時は長野電鉄に乗ることはなかったが、駅へ行くとひょっとしたらOSカーが来ているかもしれないと思ったのだろうか。駅で撮った写真が出てきた。撮った写真を調べているとカラースライドで1枚だけ長野電鉄の長野駅で撮ったOSカーである。少し修正して見ることができるようにしたのが次の写真である。
ご覧のように地下駅でなく、地上駅である。ホームを歩いている女性や電鉄職員の服装を見ていると夏かもしれない。そういえば、夏休みに信州方面へ部活の合宿で行ったことがある。その時に撮ったようである。これは正面にかすかに2という数字が見えるので増備されたモハ2である。そして、この写真を見ているとホームが1面で2本しかなかったことがわかる。もう1つ不思議な取り付け方をしている電飾駅名看板である。よくある駅名看板は電車から見えるところにあるが、これは位置が高く、電車に乗っていると見えない。しかも電車に直角である。これは改札口からホームへ入ってくる乗客に見えるようにしたような気がする。このような駅名看板があるのだろうか。見たことがない。あらためて、よく見てみると面白いものである。 今回の「昭和の電車」はそんなきっかけをつくってくれたのであった。
備後・備中に消えた鉄道を訪ねて 最終回 ~こんどは“おのてつ”のまぼろしと尾道の「ハッサク電車」~
いよいよ最終回である。
芦田川を越えて福山の町に入った。福山城の横を通って、福山自動車時計博物館の所へ来た。野外展示場が見えたが本来の目的地へ向かうことにした。それは再び井笠鉄道の車両が保存されているところである。そこは福塩線上戸出駅から北へ約1.5Kmほど行った所にある新市クラシックゴルフクラブである。この入口に井笠のコッペル2号機とホハ12が保存されているのである。ところがこのコッペルは西村さんによると3号機で、岡山の池田動物園に保存されているコッペルと入れ替わった番号になっているらしい。福塩線沿いに走って、途中でゴルフ場へ行く道を上っていく。ゴルフ場へ行く道であるから車は走りやすい。そして、間もなくすると井笠のコッペルが見えてきた。ゴルフ場入口の手前にフェンスで囲まれて保存されている。西村さんが以前に投稿された時に述べられているが、運ぶのが大変だったと思う。だが、井笠開業時のコッペルが3両とも残っているのは奇跡というか、喜ばしいことである。
備後・備中に消えた鉄道を訪ねて その4 ~夢か、うつつか、水呑のまぼろし~
いよいよ笠岡から鞆鉄道の資料があるかもしれない田尻民俗資料館に向かった。鞆鉄道のさよなら運転の時の写真があるのはわかっているが、それ以外に何かわかることがないか探索することも目的としている。事前に電話で聞くと日曜日しか開館していないので訪問日が決まってしまい、そして旅行の日程も決まってしまった。
新山の井笠鉄道記念館からしばらく県道48号線を笠岡に向かって走る。そして、笠岡駅近くで保存されているホジ9を見たところから「野上式弾機」の話になった。とにかく、田尻民俗資料館への話に進めようと思う。
備後備中に消えた鉄道を訪ねて その3 ~もう少し井笠 野上式弾機装置でお付き合いを~
2カ月余りのご無沙汰です。前回の投稿が昨年の12月12日であるから間もなく2カ月になる。いよいよ笠岡から鞆鉄道の資料があるかもしれない田尻民俗資料館へと話は進むはずであったが、もう少しだけ井笠でお付き合いを
湯口先輩のコメントで、ホハ1の台車に野上式弾機装置(弾機とはバネのこと)が組み込まれたものとわかった。この野上式弾機台車については「鉄道史料109号、121号」に湯口先輩が詳しく書かれている。これについては私も興味があるので、どんなものか少し考えてみたい。
鏡に映った”汽車”
新年あけましておめでとうございます。本年も珍奇な投稿をしますがよろしくお願いします。
ところで、ついに越年してしまった「備後・備中に消えた鉄道を訪ねて」であるが、いまだに新山の井笠鉄道記念館から進む気配はない。とにかく先に進めなけらばならないところであるが、ちょっとだけ寄り道。
あの桃山あたりのC58はどこで写したのだろうか。
西村さんが「宮城県下の保存C58」の最後に「私にとってのC58は、かつて伏見に住んでいたとき桃山あたりで撮っていた奈良線のC58が最も印象深く、今は亡きS氏とともになつかしくよみがえります。」というところを読んで、思い出したのが、あの私の迷?作である唯一の奈良線C58の写真です。たぶん、毎年学館で行われる恒例「鉄道写真展」に出展したと思います。題して「父ちゃんのポーが聞こえる」であります。この写真の題名は、いまだに治療方法が確立されていない難病ハンチントン病にかかった少女の詩集を出版され、それを映画化された詩集と同名の映画からつけたものです。私は見いていないのですが、1971年東宝で制作され主演は機関士役に小林桂樹さん、少女役は吉沢京子さんという映画です。私の撮った写真も1971年9月に撮影しています。だからこのような題名をつけたのだと思います。その写真というのは
備後・備中に消えた鉄道を訪ねて その2 ~井笠の「やってみなはれ」~
福山、三原、尾道などの備後路は行ったことがありません。しかし、となりの備中にあった井笠鉄道は行ったことはあります。今回、久しぶりに井笠鉄道が走っていたところを訪れることにしました。ここは西村さんにはご迷惑ですが案内をしていただくことにしました。とにかく、お任せです。井笠鉄道も訪れることをしていますので訪問地域は広範囲に及びます。西村さんの車(最新鋭無軌条単端軽油発動車)で各地を訪れることとなりました。まず、最初に訪れるところは井笠鉄道記念館で、場所はかつての井笠鉄道新山駅です。その道中で、三原から尾道までの途中の山陽本線線路際にある「遭難軍人之碑」に行きました。
これは西村さんの話によると、明治時代に日清戦争の傷病軍人を乗せた軍用列車がちょうど台風による高波で海岸沿いの線路が崩壊流失を知らずに通過しようとして脱線転覆し乗っていた軍人と乗務員が死亡した為に、その遭難者の慰霊碑だそうです。今は海岸より離れたところですが、当時はすぐ海だったようです。帰ってから国土地理院のHPで閲覧できる古い地図を見ても慰霊碑のあたりはすぐ海であることがわかりました。山陽道は慰霊碑のところより三原方面に戻った所から山側を通っていましたが、鉄道は山側に迂回せずにまっすぐに尾道の街にひかれていました。今、走っている国道2号線はどうも海であったようです。
まずは井笠鉄道があった笠岡へ急ぐことにしました。福山西ICで山陽道にはいり、笠岡ICで降りて井笠鉄道記念館に行きます。笠岡ICを降りてからのどかな道をしばらく走りました。走っていると、二人とも「線路を走っているみたいやな。ひょっとしたら井笠鉄道の線路跡かなあ。」「いや、もう少し東側を走っていたのでは」とか「左側に見える細い道がそうかもしれませんね。」としゃべってると、知らぬ間に新山にある井笠鉄道記念館に通じている県道48号線と交差するところに来ていました。
備後・備中に消えた鉄道を訪ねて その1 ~旅のはじめはお船に乗って~
備後三原に住まいする西村さんから書状をいただき、備後路の旅を計画されてはいかがですかとお誘いを受けました。私は、備後辺りはあまり知りません。以前に「しまなみ海道」を車で走っただけでしたので、よく見てみたいと思っていました。それでどのように行くか考えてみました。旅の楽しみはまず計画する楽しみです。目的地の行き方ですが、新幹線でシャーと行ってしまう方法もあります。これではあまり芸がないので、「旅のはじめはお船に乗って」ということにしました。備後へ行く船があるのかと言う声が聞こえそうですが、実はあるのです。まず、船で四国へ行って、さらにそこから船で芸備や備後に行くのです。最初は伊予鉄や、途中の三津駅、三津浜駅、高浜駅、伊予和気駅などを寄って、そして広島に渡り広電を見たりとあちこちとてんこ盛りにした計画を立てていました。ところで大阪からの船ですが、大阪南港を22時出航で伊予西条近くの東予港に翌朝6時に到着するオレンジフェリーに乗船するということにし、帰りも船で往復割引を適用できるようにと思っていたのです。そうすると、船中2泊と広島、福山での宿泊で2泊ということになります。しかし、あまり家を空けるのも具合が悪いのでフェリーで往復する弾丸ツアーも考えたのですが、ちょうど旅行を予定した日が「しまなみサイクリング大会」で今治から福山まで乗る予定のバスが、西瀬戸自動車道が今治ICから因島北ICまで通行止めのために午前中運休で断念し、西村さんとメールで情報交換しながら最終的には船中1泊と宿1泊で宿は鞆の浦としました。さて、その三原までのルートというのは図のようなものになります。
珍説飯山雪合戦騒動 上境合戦の段
準特急さんが飯山線越後鹿渡での狂化合宿のことを「保存蒸機とその現役時代(33)」で雪合戦の写真とともに述べられておられるのを読んで、私も1971年(昭和46年)の2月20日から22日にかけて行われた狂化合宿のことを思い出しました。この時に撮影したC56は111号機でありませんでした。しかし、この時の合宿で珍事というか、とんでもないことが起こったのであります。それは上境駅周辺で撮影していたのですが、列車が来るまで時間があったので例によって雪合戦を行ったのであります。ちょうど小高くなった小さい雪山があったので、上と下に分かれて雪合戦を行ったのです。その時のことが「青信号26号」に書かれてあるので引用いたします。ただし、今となっては不適切な表現があるので一部をカットさせていただきます。
無軌条単端機械式内燃動車が走る五新線
トロリーバスを無軌条電車というが、ボンネット乗合自動車は無軌条単端機械式内燃動車といっても不思議ではない。その無軌条単端機械式内燃動車が走るのにふさわし所を走った。それはかつて奈良県五条駅から和歌山県新宮駅まで鉄道建設を計画して途中まで建設されたところをバス専用道とした所である。専用道として走るのは県立五條病院をR168号を少し南に行ったところからである。それまでは普通の道路を走る。これが無軌条であるために出来る芸当である。
実はこの無軌条単端機械式内燃動車には乗っていないのである。これは奈良交通奈良営業所が企画したバスツアーで定員が26名で、午前と午後の1日に2回運行され、五条から城戸を往復するものでる。ラジオ番組で紹介されていたので早い時期に全便満席となったようである。ということで、専用道定期便で撮影できるところに行くことにする。撮影場所は事前に地図や動画サイトにある城戸までの前面展望の映像を参考にして賀名生(あのう)に決めた。無軌条単端機械式内燃動車が賀名生を通過するまでは定期便で城戸まで行って再び賀名生に戻っても十分に時間がある。とりあえず城戸まで行くことにする。
涙の花巻電鉄
あれは1972年2月であった。2回生の時に東北の私鉄めぐりの旅を計画し、南部縦貫鉄道、弘前電鉄、津軽鉄道、羽後交通雄勝線、そして運命の花巻電鉄を訪ねる旅に出発した。それは2月25日23時を大阪駅発の東京行ドリーム号での旅立ちである。題名からすでにお察しされた方もおられるであろう。すでに、花巻電鉄は廃止されていたのだ。
奈良線ぶらぶら 青電車で上狛へGO!
総本家青信号特派員様が「活躍する103系」を投稿されたのを見て刺激され、以前から気になっていた奈良線も103系が走っているのでぶらぶらすることにしました。奈良線は学生時代に一度だけ写真を撮っただけで、写真もC58がタンク列車をバック運転しているものが2コマと単機回送が1コマの3コマしか撮っていません。それに京都へ行くときに電車から沿線の風景を眺めていると、いい感じのところが多くありそうと思っていました。まずは、車窓から見える立派な茅葺の民家があるところへ行ってみることにしました。地図で調べると上狛駅の近くでその民家は重要文化財の小林家住宅です。とにかく、行ってみることにしました。