昨年は西条に「白牡丹」を飲みに行ったじゃけん、今度は富山で、ちょっこし遠い黒部へ行くことになったがや。ということで、6月4日の午後12時に電鉄富山駅に集合したやちゃ。しかし、第一日本語弁の大阪弁と違って、第二日本語弁の富山弁で書いていくのはかなり難しちゃ。もう富山弁で書くのはやめとくが。
投稿者「どですかでん」のアーカイブ
カラーで蘇ったクモハ73106東ウラさんの木次線三段スイッチバックの写真
デジ青で、いつもコメントをいただいているクモハ73106東ウラさんにぶんしゅうさんがお願いした出雲坂根三段スイッチバックを登るC56の貨物列車の写真を見せていただきました。元は総天然色写真だそうですが退色劣化が激しいので白黒で公開されました。やはり総天然色ではどのような写真だったのかと興味がわきます。それで厚かましいのでしたがクモハ73106東ウラさんにお願いをしてJPGファイルで送ってもらいました。見た瞬間にアッと思ったのですが総天然色に復元すると言ったからにはやらないといけません。艱難辛苦の末、出来上がりました。まだ、ちょっと色調が気になるのですが公開いたします。公開にあたってはクモハ73106東ウラさんから了解をいただきました。
コメントにもありましたように1971年3月の撮影だそうです。想像して色調整をしなければならないのが難しところです。最初にカラー復元したものは撮影された3月下旬とはかけ離れた色の風景でした。それを何とかそれらしく見えるように再調整をおこないました。参考になる風景の写真がなかったので火野正平のこころ旅で丹沢山系の風景が放送されました。季節としてはほぼ同じようなので、これを参考にしました。それが先ほどの写真です。それでは最初に調整した写真はどのような色であったかというと
出雲坂根の案内板
湯口先輩の「木次線2」を見ていると出雲坂根の案内板がありました。私も撮っていましたがちょっと?と思ったのです。なぜかというと私の撮った案内板の写真には「貝の化石」と書かれてあったのが湯口先輩の案内板には書かれていなかったのです。しかも全体的にちょっと違うようです。さてその案内板というのは
これは1973年12月に撮ったものです。
深山に分け入る軽便鉄道 いこまいけ黒部へ
ある時期はあれだけ日本全国に多くあった軽便鉄道であるが現在、営業運転をしているのは三岐鉄道北勢線と四日市あすなろう鉄道、そして黒部峡谷鉄道の3つの鉄道になってしまった。そのうちでトロッコ列車であり、森林鉄道の雰囲気が味わえる黒部峡谷鉄道といえばちょっときっかけがないと行くことができないような感じがする。そこがまた魅力的な軽便鉄道である。
マイテが加太越えをした時のこと
まいど、「おじじなる(注)」でなくて、だれかさんの投稿からの芋ずる投稿でお騒がせします。(注:かつてDRFCではオリジナルを「おじじなる」と言っていた人がいたような、いなかったような・・・)
西村さんが「RMライブラリー 200号を見て」 で「DRFC30周年記念号」の記録があったことを紹介されていました。たしか、子供と一緒に参加したのですが、その時のネガフィルムがあったので、久しぶりにちょっと、京都から京都まで再び「DRFC30周年記念号」の旅をしてみたいと思います。
上の写真はパンフレットと記念品一式です。ボロボロになった紙袋にはコースターと同じ図柄が印刷されています。記念写真と名古屋城の観覧券もありました。
5年前のあの時のこと
総本家青信号特派員さんが「あの日から5年≪鉄道版その1≫」を見て、ハットしました。5年前のあの時はまだ富山で仕事をしていました。ちょうど、ダイヤ改正前で富山でも高山線のキハ58+キハ28の最終運行となるということで、前日の10日と最終日の11日に撮影をすることにしました。19時台に富山発越中八尾行きがあるので、それを撮影することにしたのですが、夜であることと仕事帰りに車で行って撮れる場所として速星駅にしました。近くにファボーレというショッピングセンターがあり、ここの駐車場に車を停め、ついでに買い物をして帰るという算段でした。(いつも買い物に行くので買い物のついでに写真を撮りに行ったといってもいいかもしれません。)
ヘッドマークを付けたキハ58+キハ28が到着して乗客が降りて行きました。
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もうこうなったらもう一回、倉吉線関金駅
「一枚の写真から」という題名にしたからには一枚だけの写真をご覧いただいたのでありますが、ここまで倉吉線が続いたので例の一枚の写真の前に撮ったものを七枚をご覧いただくとします。倉吉線に火を入れた手前、イージーな写真ですがご覧ください。
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一枚の写真から 急がんと! 国鉄関金駅
津山から三次へ、そして関金駅で撮った写真です。この倉吉線はすでに廃線になっています。当時は倉吉-関金間でC11牽引の客レが走っていました。終点は山守ですが、機関車の付け替えができないので、客レは関金駅の折り返しです。昼下がりの関金駅で改札口の向うにあるC11を撮っていると・・・・
シャッターを押すと同時にオジサンが走り抜けて行きました。当時はデジカメでないので現像しないとどのような写真になっているかわかりません。現像をして画像を見ると、ご覧のとおりです。 ホットしたのですが、それよりもドンピシャのタイミングでシャッターを押していたのでびっくりポン。なんという偶然なのか。1974年(昭和49年)3月15日のことでした。
一枚の写真から どっこいしょ、ちょっとひと休み 国鉄津山駅
西村さんの『「行商列車」を読んで』の投稿を見て、思い出したのがこの一枚の写真です。 1974年3月13日に国鉄津山駅で撮った写真です。ちょっとだけ入換用のDE10が写っています。3番線には気動車が出発待ちです。真ん中に大きな荷物を背負ったおばさんが立っています。あれあれ、よく見るとゴミ箱に背負っている大きな荷物をちょっとのせています。列車が来るまで、少しでも楽をしたいのでしょうか。3番線の列車は拡大して見ると行き先サボは鳥取という文字が見えます。因美線を通って鳥取に行くようです。そうすると岡山方面の列車を待っていたのでしょうか。ところで、この写真の次に写っているのは三江南線0番線ホームです。我々は津山から姫新線、芸備線で三次へ行ったのかどうかよくわかりません。(この時はK君と一緒に中国山地ブラブラをしていたのです。)ひょっとしたら三次で泊まったかもしれません。そうしないと三江南線には乗れなかったのです。まさか、岡山経由で福塩線か芸備線なのか、そんなアホなことはしていないと思いますが。姫新線、芸備線に乗った可能性が高いのです。そうするとこの行商をしていると思われるおばさんは姫新線の列車を待っていたのでしょうか。とにかく、津山から三次へ行ったのは間違いないのです。
ところで、ホームの向うに制服姿の人だかりがあります。これも拡大してよく見ると国鉄職員の人だかりのようです。ひょっとしたら転勤のお見送り。頃は3月13日です。そして、雪が降っていました。まもなく、この写真から42年になります。
津山から三次へ、そして三江南線の写真の次は倉吉線の関金駅が写っています。どんな旅程なのかさっぱりわかりません。どうも中国山地を鉄道でブラブラしていたようです。そんなことができた時代でした。
青色の117系もあるよ~
関三平先生の117系にから電車の色についても盛り上がっていましたが、なぜか青色の117系が忘れられたようです。紀勢線のは青単色ではなくオーシャンカラーに塗られた電車の様ですが、近くの王寺駅で青単色の117系を撮ってみました。意外と日常的な電車は意識的に撮っていないのです。阪急2800や2300も、そのような電車です。2800は山崎での走行写真と通学の帰りについでに撮った車内の2枚だけでした。和歌山線の117系もいずれは消えていくでしょう。王寺駅発着の117系は朝に和歌山から来て8時49分着(休日は50分着)、この電車が出発するのは16時07分発の五条行きで、それまでは王寺駅留め置きです。王寺駅で留め置きと五条行き出発の117系を撮ってみました。かつての蒸機牽引の客レのようです。しかし、この117系は2扉4両編成でワンマン電車あるため混雑時の乗客の皆さんにとってはかなり不評の様です。しかもICOCAに対応しているのは和歌山線は高田までで、高田-和歌山間では使用できません。いぜん五新線のバスを撮りに五条に行った時にICOCAで乗車したのですが五条下車の時に駅員さんに支払い処理をしていただきました。ところが駅前のTimesの駐車場は料金がICOCAでの支払い可でした。しかも1日500円です。これでは車で五条に来た方が早くて安かったのです。近鉄吉野口ではICOCAで下車できますが、JRで乗車の場合は下車できません。高田で近鉄に乗り換えれば下車できるようです。JRは一生懸命に乗客を減らすようにしている様に感じてしまいます。それではその王寺駅での117系の写真をご覧ください。
同じ青でも北陸本線にあった色とは違うようで少し明るい色のようです。
五条行きの電車が王寺駅を出発しました。この電車は五条から再び高田へ、そして高田から和歌山へと帰っていくようです。ねぐらは新在家にあるようです。そして、再び翌日に王寺へと、まだまだ働ける電車なのです。
鞆鉄道の「へっつい」をつくる。 その1 まず試作機から
パラパラと「自転車に追い抜かれたコッペルたち」を見ていると、今まで見たこともない背の低い小さい蒸気機関車の写真があった。「へっつい」という機関車らしい。「へっつい」とは懐かしい言葉である。よく祖母が「へっついさん」と言っていたのを思い出す。ご飯を炊くカマドのことである。とにかく珍奇な機関車である。湯口先輩の「『へっつい』の系譜 -低重心超小型機関車の一族-」を見つけて購入して読んでみると「へっつい」と言われるようになったのは志賀直哉の「真鶴にて」にある一節からであると書かれてあった。
ところで、カマドをなぜ「へっつい」というのであろうか。手持ちの辞典などで調べてみると広辞苑で「へ」を調べると「『へ』竈 かまど。」とあった。また、大阪ことば辞典では「へっつい」は「へつい」が変化していったものとある。そしてこれについて大言海という辞典には「へつい」はカマドの神のことで、それがカマドを意味することとなったと書かれてある。カマドは「くど」ともいう。この言葉は主に京都で使われていて、ていねいに言うと「おくどさん」である。「くど」というのはいろいろな説があり「火床」や「火処」からといわれたり、カマドのうしろにある煙道を「曲突(クドと読む)」ということからカマド全体を「くど」ということなどがある。以前に投稿した「年の初めは信貴電の不思議」にカマドの神様を祭ってある久度神社について書いたのであるが、カマドの神様といわれている「久度神」からカマドを「くど」というのでなく、カマドを「くど」ということから後に、久度神がカマドの神様ということのようだ。
信貴電と柿
41年前の三江南線0番線と車窓風景
三江線の廃止が検討されているということで、いま、デジ青で話題となっています。私の見る限り、朝日新聞や毎日新聞のネット版とNHKオンラインなどで報道されていました。NHKでは廃止されると本州で初めて100㎞を越える路線の廃線となると伝えています。
さて、その三江線ですが「2年後に三江線廃止?」にコメントしたように私は41年前の1974年3月13日にまだ三江南線と言っていた頃、三次駅から口羽駅まで往復しました。この時もはっきり覚えていないのですが、三次で泊まったような気がします。そうしないと乗れなかったようです。いま、三江線乗車を考えてみるとどうしても沿線のどこかで泊まらないといけないようです。無理して宿泊なしにしても、どこかで夜行バスに乗る必要があります。以前であれば夜行列車があったのですが、今はないので夜行バスのお世話になる必要があるのです。
近鉄吉野線と伊賀線の写真
乙訓の長老様が大井川鉄道で走っている近鉄吉野特急の写真を見て、写真を探してみたが意外と撮っていないもである。中学生の時に飛鳥ハイキングで橘寺駅(今の飛鳥駅)付近でオリンパスペンS(ハーフサイズカメラ)で撮ったものがあったが、見事に正面の真ん中に電柱がかぶっている写真がほとんどで見せられるものでない。昭和49年3月に吉野へ行った時の写真があった。吉野駅で撮ったものである。そして伊賀線であるが昭和48年の10月に伊賀線に行ってみようや、ということでその時の写真であるが不適切な露出なのか印画紙に焼き付けたが出来が悪く3枚しかプリントしていない。今までお蔵入りしていた写真がデジタル画像処理のおかげで見ることができるようになったのである。
第2弾 ブラソロリ乙訓 おとぎ電車ツアー
「ブラタモリ」に対抗するのか、それとも“まねしん” したのか第2弾「ブラソロリ乙訓」。それはどんな事をしていたのだろうか。ところで“まねしん”とは大阪ことば辞典を参考にして解説するとこんなことだろうか。
漢字で書くと“真似衆”とかく“まねし”という言葉(よく真似をする人の意味)に格助詞の“の”が変化して“ん”になったものを付けた言葉ではと思う。そうすると冒頭の文章は“ブラタモリに対抗するのか、それとも真似をしたのか第2弾「ブラソロリ乙訓」”というところか。子どものころ、よく“まねしんや~、まねしんや~”と囃し立てていたのを思い出す。今はこの言葉が使われているかどうか知らないが。しかも、我々のやっていることであるので仕事でなく勝手気ままにやっているし、なんせ足回りが次第に老朽化している為に狂言師のすり足のようにソロリソロリと参るしかない。それにブラタモリのように高級な内容ではない。その辺がちょっと違うのである。第1弾は酷暑のなか「京津電車道を歩く」であったが、今回は「おとぎ電車ツアー」である。
あの頃は蒸気機関車が新車の自動車を運んでいたんだ。
古いネガをデジタル化してみると、意外なものが写っているのでびっくりすることがある。デジタル化すると画像処理ソフトで露出設定などがうまくいっていない写真でも何とか見られるようになる。印画紙に焼き付けると何が写っているかわからないものでもよくわかるようになるし、モニター画面で拡大してみることもできるので細かい部分もよくわかる。そのようなネガの中で最近、総本家青信号特派員さんが50年前に山科で撮影された列車群の写真に刺激されて、1969年に大阪市内で撮った写真をデジタル化してみた。優等列車や貨物列車、それに蒸気機関車が牽引する貨物列車も写っている。その中に問題の蒸気機関車の写真があった。煙が巻いていたので、当時の印画紙に焼き付けた写真でははっきりわからなかったのであるが、デジタル化して拡大して貨物列車の積荷を見てみると・・・・
おとぎ電車のこと
総本家青信号特派員さんが宇治でおとぎ電車のミニ写真展が開催されていることを投稿されているのを見て、DRFC現役時代に「青信号」に「おとぎ電車の話」として記事を書いた時に叔父から受け取った資料を久しぶりに見てみた。青信号に記事を書いた時と違って、学生時代と違うことを感じてしまう。資料をよく見てみると昭和25年とか昭和26年1月などの日付があることから最初の 改造資料のようである。
新レイアウト記念 規格型電車の全面広告
WANTED 皆さん、僕たちの組立式レイアウト、どうしたでしょうね。
西村さんが模型の話題を投稿されていましたが、私も西村さんのように車両を本格的に製作することもあまりありません。そこで少し気になっていた「そんなん、口笛を吹きもってできるやん!」と言って枕木を1万4千本(一説には2万本?)を作っという人たちの超人的な活躍で出来上がった組立式レイアウトの写真がありました。その組立式レイアウトは現在、放浪の旅に出ているようで、どうも、どこでどうしているやら行方不明なのであります。その発見の手がかりになればと、どこで開催したかわからない運転会とEVEの時に撮った写真を公開手配写真として見ていただきます。EVEの写真は1971年11月27日に、そして運転会は1972年10月5日の木曽森林鉄道に行った時に少しフィルムが余っていたので撮ったものです。青信号29号の活動報告によると1972年10月14日、15日に枚方で模型運転会を行っています。どうも、この時のようです。それではEVEの時の写真からですが、室内なので暗く、手持ち撮影、フィルムはネオパンSSですので状態はかなり悪いものです。しかし、スキャンしてデジタル化すると最近の画像処理ソフトは優れているので、まあ何とか見れるようになりました。
クローバー会 春の特別凸凹列車 「春の奈良ハイク大仏鉄道の遺構めぐり」号 発車
5月9日 天気が少しあやしいのでしたが、クローバー会春の特別運行「春の奈良ハイク大仏鉄道の遺構めぐり」号が出発しました。ほんとうは天気があやしい方がよいのです。参加する車両たちのほとんどは製造から半世紀以上も経っているので、動力機関がオーバーヒートを起こしたり、足回りに異常が発生して走行不能となる可能性が高いのです。