西村さんが模型の話題を投稿されていましたが、私も西村さんのように車両を本格的に製作することもあまりありません。そこで少し気になっていた「そんなん、口笛を吹きもってできるやん!」と言って枕木を1万4千本(一説には2万本?)を作っという人たちの超人的な活躍で出来上がった組立式レイアウトの写真がありました。その組立式レイアウトは現在、放浪の旅に出ているようで、どうも、どこでどうしているやら行方不明なのであります。その発見の手がかりになればと、どこで開催したかわからない運転会とEVEの時に撮った写真を公開手配写真として見ていただきます。EVEの写真は1971年11月27日に、そして運転会は1972年10月5日の木曽森林鉄道に行った時に少しフィルムが余っていたので撮ったものです。青信号29号の活動報告によると1972年10月14日、15日に枚方で模型運転会を行っています。どうも、この時のようです。それではEVEの時の写真からですが、室内なので暗く、手持ち撮影、フィルムはネオパンSSですので状態はかなり悪いものです。しかし、スキャンしてデジタル化すると最近の画像処理ソフトは優れているので、まあ何とか見れるようになりました。
青信号25号の「模型特集」にこの組立式レイアウトの概要についての記事があります。これによりますと、このレイアウトは2代目であると書かれていました。ここにあるレイアウト平面図によると一番右側は新線と呼ばれている外側のエンドレスで留置線が2本あります。その内側に外線と言っていた待避線が1か所、留置線が1本のエンドレスです。この留置線の先に将来はヤードを建設する予定でした。一番内側に内線と呼んでいた8の字のリバースのある線路です。中央にヤードがあり、待避線が2か所あります。内線から外線、新線へは渡り線があり、内線ヤードから出庫できるようになっていました。上の写真で右から4本目の線路は内線から外線への渡り線で、この渡り線の先にあるのはクロスではなく、ダブルスリップのポイントとなっています。青信号の記事によると昭和43年度にできた部分(全体の1/4)以外はポイントまで自作で、BOXで模型班の人が授業の空き時間にポイントの先端レールをヤスリでシコシコと削っていたのを思い出します。私も少しだけ先端レールの研磨をやらしていただきました。
上の写真は右から新線、外線、そして左へカーブしているのが内線です。カーブの先にトラスブリッジがあって、待避線になります。写真を見ていただくと枕木が不揃いのように見えます。これは2×8の檜材を半分にして2×4にして、それを枕木の長さに1本1本切ったのでどうしても不揃いになります。そして、道床は茶色で、枕木の色は黒にしたので1本1本枕木を筆で塗ったのであります。このレイアウトはかなり丈夫に出来ていました。 急勾配を登る9600です。この勾配は意外にきついのであります。
内線の高架待避線で停車中の旅客列車。下には153系と思われる列車が走っています。同時に4本の列車が走らせることができました。内線では2人が運転して、2本の列車が走行しながら交換をしたりして、なかなか面白い運転ができました。しかも、ブロックに分かれているので続行運転も可能です。続行する急行列車が先に走っていた普通列車を追い抜くこともできます。そのようなレイアウトでした。
内線ヤードの一番左側の電車は3年がかりで製作されたという伝説の京福デオ300でしょうか。
京阪1900の横に同じく京阪5000系が見えます。阪急電車らしきものや白い電車は東京の電車? どうもよくわかりません。
あれ!京阪1900がどこかへ行って、客レが待避線にいます。一日の展示時間が終了後に好きなように運転して楽しんでいたのを思い出します。特に内線はいろいろなパターンで運転できて面白かったものです。さて、次は運転会の写真です。場所はどこかわかりません。青信号の活動記録によると最初に書いたように枚方のようです。EVEの会場と違て明るかったので室内でもまあ何とか撮れていました。
内線ヤードです。ヤードを二連のトラス橋を跨いでいます。このレイアウトはレールの接続部はジョイナーがなく、コネクタで接続されています。写真にケーブルがたくさん見えますが、継ぎ目の接続ケーブルとポイントマシンへのケーブルです。当時の模型班の技術を総結集して製作されたものであることがわかります。
内線高架上の待避線から三軸ボギーをはいた客車を連結したデッキ付電気機関車が出発するところでしょうか。客車はダブルルーフの荷物車のようです。
先ほどの電気機関車は上の写真と同じではないかと思います。拡大してよく見るとEF53ではないかと思います。
車体側面の窓やよろい窓の配置と数からEF53で間違いないでしょう。
これはDB10です。製作されたのはH氏で青信号26号に製作記が書かれています。この機関車は1932年に誕生した国産初のディーゼル機関車です。8両しか製造されていません。小さい機関車ですので動力装置は小型棒型モーターに平歯車1段減速ウォームギヤ駆動で2段減速となっています。さすがに機械工学科の学生であったので歯車の軸間距離を設計計算をされています。
内線ヤードの短い留置線になにやら怪しい電車があります。作業電車のような荷物電車のような不思議な電車です。さて、これはいったい何者、くせ者?ところで、この短い留置線は元はもう少し長い留置線だったのですが橋脚を設置しなければならないために分断されたみたいです
3両編成の電車は阪急電車のようです。手前に写っている操作盤は内線の操作盤です。操作盤は各線ごとに分かれていました。とにかく立派な組立式レイアウトでした。大きさは約8.5m×4.5mです。
皆さん、僕たちの組立式レイアウト、どうしたでしょうね。棟居(むねすえ)刑事に捜査してもらいましょうか。
懐かしい写真をありがとうございます。名古屋の高校に通っていた私はTMSに掲載された初代のレイアウトを見て同志社に願書出したのを思い出しました。最初のEVEで見たそれは大きな立派なレイアウトでしたが構造的には弱い部分があり、翌年のEVEに向けて線路配置はそのままで作り変えることとなり 2年がかりで完成したのがこのレイアウトでした。模型班以外の方にも協力いただき 路盤を作り道床を切り出し枕木を張り線路を敷設し(ポイントを作り)電気配線を行い 出来上がりました。私の主たる担当は電気設計で全体配線設計図を基に授業中に次に配線をするブロックの実施設計図を作り BOXにいるものが配線をするという作業が続きました。(澤村君担当箇所が一番多かったと思います)。
当時寺町の松本模型の店主にレールの寄付をお願いしたところ快い答えをいただきすべてのレールを寄付して頂いたことが思い出されます。
懐かしいです。犬伏
INUBUSE様 初代のレイアウトを見たのが、同志社に願書を出されたきっかけだったのですね。鉄道模型を作る限りは思いっきり走らせたいのはよくわかります。長さ50cmの木製道床付レールを行ったり来たりするのでは面白くありません。私は本格的には模型をやっていませんでしたが、興味があってTMSなどを買って読んでいました。最初の鉄道関係の雑誌はTMS161号でした。今も手元にあります。C5345が復元運転された時の写真が表紙になっているものです。1961年の発行ですので私が小学生の頃です。値段は130円でしたが親に頼んで買ってもらいました。DRFCに入会してからやはりあのレイアウトを見ていると自分の車両を走らせたいと思ってしまいます。その時に作ったのは模型班の提案ではないかと思いますが、自由な規格型電車を作ってみんなで走らせたことがありました。このときはこれこそ怪しいクモハシ〇△という電車です。今でも図面は持っています。また、京阪1700、18003扉化7連も作りました。図面はありますが車両はなく、残骸が少し残っています。
ところでレールは松本模型さんから寄付をしていただいたのは初めて知りました。時々、何か面白いものはないかと覗いたものです。いまでも松本模型の前を通るときに当時のことを思い出します。最近は自作をする人が少なくなったようで、模型屋さんも少なくなっているのは寂しい限りです。
なつかしい写真をありがとうございます。INUBUSE氏が同志社を志願されたきっかけがTMS No.214 1966年4月号の記事だったとは知りませんでした。この記事には 90thEVEにおける初代レイアウトが紹介されており、神戸の先輩M氏がキハ82系を運転する姿などが写っています。中学、高校時代には秋になるとDRFCの鉄道展を見に行くのを楽しみにしていましたし、大学入学と同時に迷わずDRFCのボックスを訪ねたものです。このレイアウトを作り替えるにあたっては「たたき大工」や「電気屋」さんなど多くの職人が活躍しました。まさに100%手作りのDRFCの総力結集で立派な新レイアウトができました。学園紛争による封鎖が長びき、時間がたっぷりあったのも幸いしました。TMS No.352 1977年10月号には 7月28日から8月2日まで京都近鉄百貨店で開催された「夏休み鉄道模型大会」に出展された新レイアウトが詳細な解説や平面図とともに紹介されています。この時点ではターンテーブルや扇形庫のある機関区が増設されています。どですかでん殿の同級生 今は亡きO君や枚方の陶芸家K君の姿も見えます。このTMSが発刊された時点で私は社会人でしたので、書店でこの記事を見つけて感激したものです。さて今回ご披露して頂いた写真のなかで 鉄橋下の怪しい電車は澤村氏製作の新潟交通モワ51で京阪特急色に塗り分けられたものです。実はこのモワ51の車体だけが我が家にあります。DB10は間違いなくH氏の力作です。最後の写真に写っている3連の電車は阪急嵐山線の210型で澤村氏、H氏と私の合作です。思い出の一杯詰まったこのレイアウトが雲散霧消したのは残念です。
西村雅幸様 卒業してからレイアウトは増設されたのですね。INUBUSEさんが見たTMS214号と京都近鉄百貨店での出展と新レイアウトの解説が乗っているTMS352号は図書館に蔵書があることがわかったのでさっそく閲覧しようと思ったのですが、今日は月曜日で休館日でした。残念です。あの怪しいくせ者の電車は澤村さんつくられた新潟交通モワ51だったんですか。実はBOXにいる時に澤村さんから「先端レールを削ってみるか」と言われてさせてもらいました。くわえタバコでシコシコと削っている姿を思い出します。それと「ハート15副官マイティー」とか言ってナポレオンをよくやっていたのも思い出します。澤村さんは写真も撮っておられたと思いますが。青信号24号に写真班アンケートの中で名前はなく「名前?なぬっ!ム、ム、ムッ、ム カメラは蛇腹が最も正しい!!」というのは澤村さんではないかと思っています。そのアンケートでカメラの項目で最初にパールⅢがあり、かなり珍しいカメラだそうです。富山に単身赴任をしている時にこのカメラを商店街の写真屋に飾ってあるのを見つけました。この写真屋を通るごとに見ていました。
ところで、一連の写真の中で若かりし頃のINUBUSEさんや西村さんたちも写っていました。今と比べると変わったような変わらないような感じです。ところでINUBUSEさんの返事にあった規格型電車についての「全面広告?」が青信号24号にありました。それによると新レイアウト完成記念での企画だったようです。追加してそのページを掲載したいと思っています。
老人は雑なHOペーパーモデルを、1970年誕生の息子が4歳の正月に「おとうちゃん電車買うて」、とねだられたとき「あれはつくるもんや!」と言って21年ぶりに図を引いてカッターと定規を持ち出し車体作りが余暇のストレス解消手段となった。小学生になった息子には窓のくりぬき作業はやらせなかったが、その頃ふと思いつきEVEの運転会に連れて行った。とても立派なレイアウトが校門入って北側のレンガ造りの校舎、2階西突き当たりの教室にすえられておりビックリしたものだ。この時息子は小学校1年だったと思うが、DRFC模型班の方に大変可愛がって頂きパワーパックでの運転方法を習った。翌年はEVEの日を覚えておりレイアウト内にもぐりこんで親父の知らぬ間に運転席に座って運転手気分でご満悦であった。3回目、この日も同じ教室、入口には5,6人の現役生の直立不動でお出迎えを受けた。親父は堪忍してくれと言って息子を放り出して校内見物をした。2時間後、息子をひきとり?に行ったら、親父は同志社の電車クラブの部員だったと、前年言ったのだそうだ。息子が1970年生まれで9歳の時のことだから何年期以前のDRFCメンバーにお世話になったことになるのかな?。我が家の3.5M角の洋間に現場廃材の15ミリ厚のベニヤ板を利用した2週エンドレスを二人で完成させたのが1978年。大津の暇人さんがC56 と息子さん連れて開通祝いにやってきたが、C56の連結棒が外れてテープカットが出来なかった。お兄ちゃんたちの力作に感化され出来たレイアウトだが、1980年夏、義父の葬儀控え室となり、泣く泣くばらし、その後は組み立て型に改造、町内の地蔵盆、障碍児の夏祭りでは学校体育館で組み立てたが、息子高校進学と共に野球を本格的に取り組むことにより「親父よ、俺の電車は終わり!」と宣言された。
乙訓の長老様 息子さんとのお話、ありがとうございます。私も子供が小さい頃に電車遊びをしていましたが、電気で動く高級なおもちゃでなく最初はサイズとしたらNゲージを少し大きくしたブリキ製の青電車でした。これを空になった牛乳パックを箱にして、それにマジックでレールを書いて組み合わせて遊んでいました。これは私のオヤジのアイデアです。だんだんエスカレートして待避線を作ったりして部屋全体が大レイアウトとなりました。車両はNゲージサイズのダイキャスト製が次第に増備行きましたが、動力は息子です。手で押しながらガタンガタンと言って遊んでいたのです。いまでもその車両は最初のブリキ製の青電車も含めて健在です。
西村さんのコメントにあったTMSの214号と352号を図書館で閲覧してきました。初代レイアウトも立派なもので京阪1900や南海こうや号(20000系)、キハ82系、特急ひびき号などが走っている写真が載っていました。これを見るとINUBUSEさんが同志社に願書を出したのもうなづけます。これを見ると正面にプラットホームと弧線跨線橋があったのがわかります。また、352号では初代レイアウトでホームと跨線橋だけであった所は今出川駅となり、レンガ造りの立派な駅舎になっています。内線ヤードのところは室町駅の木造駅舎があって、室町機関区としてターンテーブルや扇形車庫などがあります。外線には8本のヤードが出来ていていました。私が卒業してからかなり進化しているのでうれしくなってしまいます。記事を読んでみると、その後の増設されたヤードも枕木を張り付けてレールをスパイクしたものであることがわかりました。このTMS352号の記事の状態からさらに進化したのかどうかわかりませんが、このレイアウトは大活躍したことは間違いのないことだと思います。それだけでもよかったと思います。
どですかでん様
わざわざ図書館までご足労頂きお疲れさまでした。それにしても図書館にTMSのバックナンバーがあるとは驚きです。私の町の図書館には鉄道図書は無いに等しく、時期が来れば我が家の鉄道図書を寄贈しようかと思うほどです。さてあのすばらしいレイアウトが消えてしまったのは残念です。とは言え今はNゲージ全盛の時代ですからあのレイアウトが健在だったとしても廃線は免れなかったことでしょう。
図書館といっても今回行った図書館は大阪府立中央図書館です。TMSは国立国会図書館で蔵書検索しても214号はありませんでしたし、しかも東京にしか所蔵されていません。大阪府立中央図書館には所蔵されていました。中之島も含めて大阪府立の図書館は結構資料が所蔵されています。鉄道ピクトリアルの通巻35号(1954年6月)は国立国会図書館関西館でデジタル化されたものが閲覧できました。古い資料はデジタル化されて原資料は利用できなくなっています。利用する方も取扱いに注意しないといけないので、デジタル化はいいのではないかと思えます。青信号もデジタル化したいのですが本をつぶさずにデジタル化するよい方法があればと思っています。近くの図書館でも蔵書を調べれば目的とする資料が見つかることがあります。とにかく、利用出来る図書館を数か所リストアップして蔵書検索をしている状況です。