古いネガをデジタル化してみると、意外なものが写っているのでびっくりすることがある。デジタル化すると画像処理ソフトで露出設定などがうまくいっていない写真でも何とか見られるようになる。印画紙に焼き付けると何が写っているかわからないものでもよくわかるようになるし、モニター画面で拡大してみることもできるので細かい部分もよくわかる。そのようなネガの中で最近、総本家青信号特派員さんが50年前に山科で撮影された列車群の写真に刺激されて、1969年に大阪市内で撮った写真をデジタル化してみた。優等列車や貨物列車、それに蒸気機関車が牽引する貨物列車も写っている。その中に問題の蒸気機関車の写真があった。煙が巻いていたので、当時の印画紙に焼き付けた写真でははっきりわからなかったのであるが、デジタル化して拡大して貨物列車の積荷を見てみると・・・・
当時としても大阪市内を蒸気機関車が走っているのはあまりない。列車がもう少し進んだ時の写真が次の写真である。
どうも新車の自動車を運んでいる貨物列車のようである。よく見ると貨車1台に自動車が6台載っている。さて、どこから来たのだろうか。蒸気機関車が引っ張っているところから、未電化の路線である。そうすると、この近くでは福知山線しかない。この沿線の池田にはダイハツの工場があることを思い出した。多分、ここから運んできたのであろう。
この貨車はチラのようであるが違うようだ。車を積めるようにしてある。調べてみるとシム2000形という専用のダイハツ社有貨車であることがわかった。この貨車についてはネコパブリッシングの渡辺一策編「車を運ぶ貨車(上)(下)」の上巻に詳しく書かれてある。昭和40年の車種変更でシムからクムとなった。(シは大物車、クは車運車)この渡辺さんの本によると6台の自動車が進行方向に対して直角に並んでいるのは軽自動車のハイゼットであることがわかった。どこに運んでいたかというと道路事情の悪かった北陸、東北方面などであったと書かれてある。この自動車運搬列車は宮原から吹田へ行き、そこから先はどこへ運んでいくのだろうか。
この写真を撮った頃は優等列車からゲタ電、デッキ型電気機関車牽引の貨物列車などバラエティーに富んだ列車が走ってくる。
客車列車が当たり前に走っていた頃である。オーバークロスするのは宮原から貨物線である。そこをEH10試作型機関車の引く貨物列車がやって来た。
この時代は運転手、機関士など腕に腕章をしていた。ゲタ電の写真でも腕章が見られる。そして行き先サボも
日時は異なるがおなじ頃にポジカラーでゲタ電を撮っている。
クハ111を先頭に快速電車も走ってきた。この時はまだクーラーがない。
優等列車はキハ82系の特急「やくも」と581系の昼間特急を撮っている。
山陽新幹線が開業前であるので山陽本線を岡山までキハ82が疾走していた。写真の列車は大阪方面に向かっている。寝台特急電車が昼間特急として走っていた。ポジカラーの写真は拡大すると「つばめ」と読める。
ポジカラーはフイルムをクリーニングしてスキャンしたが、カビのあとが残っている。できるだけデジタル処理でカビ取りをしたが、さらに丁寧にカビ取り処理をしないと行けないが時間がかかる。この程度でご勘弁を。巷では“丁寧に”という言葉が流行っているが、本当に丁寧にするとかなり時間がかかるものである。どうも丁寧の終了点は限りなく無限大のところにあるように思う。だから、現時点での目的にあったところで終了とした方がよいようだ。それが今回のポジカラー写真である。あと2点ご覧にいれますが、まだカビでお見苦しいので、ご勘弁を。
デッキ型電気機関車が走っているのが見ることができなくなった。蒸気機関車は動態保存されたりしているので見ることができるが、電気機関車は見ることができない。特に大型のデッキ型電気機関車はかっこいい。EF57の量産形(パンタグラフが前にグット突き出しているもの)が客車列車(最後尾に展望車であれば)を牽引する姿はいい。一度、上野から臨時の急行津軽に乗ったが、これはEF57であった。夜の上野駅で撮ったのでブレブレの写真があるはずであるが、また見つけてみよう。旧型電気機関車の動態保存がEF58だけというのもなんというか寂しい限りである。
EF15である。まだ、このような機関車が現役で働いていた。この機関車は貨物用で戦後の標準機として202両製造された。蒸気機関車であればD51、電気機関車であればEF15といったところである。
真っ白な冷蔵車レサ10000形編成貨物列車がEF66に引かれて走っていく。これはひょっとしたら特急貨物列車「とびうお」か「ぎんりん」かもしれない。
1969年に撮影したものであるから、この時はすでに全機がこの塗装であったようだ。大きな1灯のヘッドライトが懐かしい。
もう1つよくわからない写真がある。
蒸気機関車の補機付きの客車列車である。福知山線に入る列車であるはずであるから、補機なんか必要ない。回送する機関車を最後尾に連結したものか。列車線を走っているので大阪駅を発車したものである。この時代はまだ大阪駅に蒸気機関車の引く客車列車が入っていたのだろうか。どうもよくわからない。
家にいると、時々蒸気機関車の汽笛を聞いた。家の近くの中国街道を西に行き神崎川を越えると神崎へ、ここは「梅が枝の手水鉢」で知られているところである。そんな大阪市の片田舎で撮った46年前の写真である。
どですかでん様
デカンショまつり号です。
貴重な写真ありがとうございます。
特に、ダイハツの私有車運車、積載運用中の写真を見たことがなかったので、興味深く拝見しました。
ところで、キハ82の「やくも」ですが、新幹線岡山開業前まで、伯備線経由でなく、福知山線経由で運転されていました。
手元の1971年3月時刻表では、
1003D 新大阪1200・大阪1208・宝塚1234・福知山1407・豊岡1508・城崎1518・浜坂1557・鳥取1628・上井1713・米子1757・松江1826・出雲市1857・大田市1928・江津2022・浜田2022着
1004D浜田0820・江津0838・大田市0914・出雲市0945・松江1015・米子1043・上井1134・鳥取1210・浜坂1243・城崎1322・豊岡1333・福知山1427・宝塚1600・大阪1625・新大阪1633です。
蛇足ながら、今日のブラタモリで大社駅が登場し、過去勤務されていた駅員さんが切符を販売するパフォーマンスをしていましたが、桑子アナが東京まで、と言ったところ、福知山線経由を勧めてました。
昔の山陰連絡は、福知山線が担っていたんですね。
デカンショまつり号様 特急「やくも」の運転経路について教えていただいてありがとうございます。福知山線の特急となると「まつかぜ」しかないと思っていました。しかも、浜田まで行っていたのですね。最近、陰陽連絡をジグザグにしながら大阪を出て、普通列車でどこまで行けるか考えたのですが、最初に引っかかったのが因美線でした。また山陰線では増田から西へは優等列車もないのでちょっと諦め気味です。しかし、車窓の風景がいいようなのであきらめきれません。そのうちというところです。私もブラタモリを見ました。地方をブラタモリするようになって俄然と面白くなりました。今から第2弾「ブラソロリ乙訓 おとぎ電車ツアー」に行ってきます。
どですかでん様
懐かしい写真のアップ、ありがとうございます。さて、どこで撮ったのかと思い、“どですか”さんは大阪は加島の生まれであることを思い出しました。現・東西線加島駅の大阪寄りの陸橋からだったのですね。宮原へ行く回送線が東海道線を越えて行くところです。現在と比べて、車両の違いだけでなく、周囲の様相もだいぶ変化しています。最後の蒸機の写真ですが、昭和44年の撮影とすると貴重ですね。福知山線は公式には昭和43年3月に無煙化が完了しています。ただ、その後も蒸機の出入りはあったようで、山陰線の京都口でも、無煙化後も福知山区の蒸機が出入りしていたことがありました。
総本家青信号特派員様 コメントありがとうございます。無事に第2弾「ブラソロリ乙訓 おとぎ電車ツアー」は終了いたしました。ところで蒸機の写真をいつ撮ったかですが、この写真が写っている他の写真を手がかりとして調べてみました。そして、1969年(昭和44年)の撮影としました。それはフィルムの最初に本の一部を撮影した写真が2コマあります。その本は中公新書 森浩一著 古墳の発掘です。この本の奥付には昭和43年6月5日4刷とあります。よって、昭和43年3月以前に撮影したものでなく、昭和43年6月以降となります。そして、3コマ目は家の前の神社を撮った写真でうっすらと雪が積もっています。その次から阪神高速空港線の東海道線をオーバークロスするところから撮った列車の写真となっています。だから、積もる雪は1月から3月にかけて降ることが多かったので、蒸機の撮影は昭和44年1月以降ではないかと思っています。なぜ、本の一部を撮影したかというと文化クラブの発表会に古墳の保存に関することで、古墳破壊の一例の写真として使うためでした。実を言うと早くプリントするために列車の写真を撮ったり、家にある木塀の木目を撮ったり、物干しと屋根を撮ったりして早く1本を使い切りたかったのです。