京都・河原町に書店の丸善が約10年ぶりに戻ってきました。「京都本店」と称するように丸善の旗艦店として、京都で最大級の書店デビューとなりました。先ごろ、乙訓老人にいただいた故・羽村宏さんの写真のなかから、かつての丸善が写り込んだ貴重な写真が出てきましたので、本日はそのご披露としましょう。
▲「河原町蛸薬師」の前を行く京都市電。昭和30年夏の撮影と思われる。右手に見えるのが当時の丸善だ。京都における丸善の歴史は、明治5年に三条通で開店、梶井基次郎の小説「檸檬」で有名になったが、店は昭和15年に河原町蛸薬師に移転した。私もこの写真を見て、小さい頃の思い出が蘇ってきた。丸善の扱っていたのは、洋装品が中心で、書籍は洋書が多く、子どもは近づき難かった店だった。その後、昭和42年に6階建て、平成5年に8階建てを新築するが、平成17年に閉店してしまった。今回は、そこからやや北へ行った京都BALビルへ移転してオープンとなった。この写真は、京都市電の記録としても貴重で、900形907号はまだポール集電、昭和30年3月に901~915がデビューしているが、京都市電のビューゲル完了が同年末で、900形のポール時代はほんの数ヵ月の短い期間だった。後期の916~935は最初からビューゲルだった。そして河原町蛸薬師の電停、これは昭和38年に廃止されている。電停看板をも写し込んだ貴重な記録だ。
▲丸善のあった河原町通には、たくさんの書店があった。昭和52年の京都市電河原町線の廃止時の写真を見ても、左手にオーム社書店、京都書院の看板が見え、右手には、よく見ると「M」の丸善マークも見える。河原町通の四条から三条の間、約800mに、西側には、オーム社書店、京都書院、駸々堂京都店、駸々堂京宝店(のちブックファースト)の大型書店、個人経営の書店、古書店、それに東側にあった丸善も加えると、10数軒の書店が並んで、さすが文化都市・京都河原町の面目躍如だった。ところが、出版不況の波をかぶり、つぎつぎ倒産、閉店の道をたどって行った。丸善の後継となるジュンク堂BAL店も、建て替えで一昨年に閉店してからは、河原町通の四条から三条の間で、ついに書店はゼロになってしまった。河原町通りはパチンコ屋、カラオケ屋、居酒屋チェーン店ばかりが目立つ、文化の香りも感じられない品格のない通りに成り下ってしまった。この河原町通を、60数年、わが庭?のように歩いてきた私(私の中学校の校区は、四条河原町から府立病院前までの河原町通沿いの約2キロあった)にとっては、丸善復活は、歩く楽しみが見えてきた感じがする。
▲新たにオープンした丸善京都本店の鉄道書コーナーを確認に行ったところ、通路の角に7面あり、ゆったりと配置されていた。わが「京都の市電」も、目線位置の左角に面出ししてあって、絶好の位置だった。ありがとうございま~す。
学生時代には丸善利用の思い出がない。装飾屋の番頭となってから製図道具を探しに行ったのが始まりだった。それも寺町の文適堂が本筋だと知るや丸善に顔出しすることはなくなった。1979年だったかな国際児童年の歳に地域活動に本腰を入れた時、謄写道具を探しに行き目出度く購入したことがある。「関西の鉄道」を発行しておられる藤井信夫さんが古希を迎えられた祝いをした時は、パイロット万年筆とそのインク瓶(大びん)を求め包装してもらい、懇親会では酒井福三さんから手渡しの場を設けたが、その時の包装代はサービスであった。これが丸善での最後の買い物であった。
乙訓の老人さま
コメント、ありがとうございます。文適堂の名も出てきましたので、僭越ながら、両社の歴史を紐解きますと、丸善は、明治40年に三条麩屋町に移転・再開、この場所が例の「檸檬」の舞台となりますが、昭和15年に河原町蛸薬師に移転します。いっぽうの文適堂は、祖父の自伝によりますと、明治40年に大阪から移り、三条堺町で開店し、大正8年に寺町三条へ移転します。つまり、両社とも奇しくも明治40年に三条通で開店したことになります。まだ河原町通は拡幅前の狭い通り、三条通、寺町通は、京都でいちばん賑やかな通りだったと聞いています。