近鉄吉野線と伊賀線の写真

 乙訓の長老様が大井川鉄道で走っている近鉄吉野特急の写真を見て、写真を探してみたが意外と撮っていないもである。中学生の時に飛鳥ハイキングで橘寺駅(今の飛鳥駅)付近でオリンパスペンS(ハーフサイズカメラ)で撮ったものがあったが、見事に正面の真ん中に電柱がかぶっている写真がほとんどで見せられるものでない。昭和49年3月に吉野へ行った時の写真があった。吉野駅で撮ったものである。そして伊賀線であるが昭和48年の10月に伊賀線に行ってみようや、ということでその時の写真であるが不適切な露出なのか印画紙に焼き付けたが出来が悪く3枚しかプリントしていない。今までお蔵入りしていた写真がデジタル画像処理のおかげで見ることができるようになったのである。

 ところで、フィルムスキャンをするのであるが、スキャンした画像を見てみるとどうもピントが悪い。引伸ばし機で焼いた写真と比較してみてもピントがあまく感じる。フィルムの粒状感がでない為だろうか。フラットベッドスキャナーでエプソンのGT-X970を使っているが、フイルムキャリアーのフィルム支持がしっかりしていないのでカールした状態になるのと、場所によってピントにばらつきがあった。そこでフラットベッドのガラス面にできるだけ密着でき、フィルム平面性が保つことができるフィルムキャリアーを思考錯誤して作成した。そのフィルムキャリアーを使用し、スキャナードライバーの手動調整をして不適切な露出で撮影した伊賀線電車の写真が見られるようになったのである。42年ぶりである。

 最初に吉野線の写真からである。

S-MN02620-吉野駅

改札口に木製の仕切りが並んでいる。花見の頃は大勢の人がここに並ぶのであろう。実はまだ吉野の桜は見たことがないのである。先発のあべの行き特急に乗り込む人たちの服装を見ると吉野はまだ肌寒いのであろうか。

S-MN02614-吉野駅

立派な屋根の吉野駅の駅舎である。多客時に対応できるような駅前広場である。この時は閑散としていた。

S-MN02618-吉野ロープウェイ

 吉野山に登るロープウェイである。よく見るととんでもない物が写っている。今まで全く気が付かなかったのである。ロープウェイの車体が更新される前の車体が2台置かれているのである。よく見ると車体はケーブルカーのように側面は平行四辺形である。ちょっと珍しい形をしている。このロープウェイは現役で国内では最古のものである。2012年に日本機械学会の機械遺産に指定された。機械遺産の説明文では「国内現役最古のロープウェイであり、架設当初の形態を現在までよく保つものとしては世界最古級である。」とある。屋根には支持具の一部が残ってる。このロープウェイを運行している会社は吉野大峯ケーブル自動車株式会社といい、この会社のHPにある吉野ケーブル(ここではケーブルとしている。)の歴史を見ると創設者の内田政男氏とこの廃車体が現役で運行している写真があった。

S-MN02617-吉野ロープウェイ

28人乗りなので乗れなかった人がたくさん待っているのがよくわかる。左側の支柱は昭和4年の開設当初のものである。

 こんなものも撮っていた。それは貨車である。

S-MN02622-近鉄貨車

前後にデッキのあるワフ9861である。近畿日本鉄道南大阪線とあり、吉野口駅、柏原駅構内乗入承認車とある。たぶん、あまり見かけない形なのでとったのであろう。古い写真は意外なものが写っていて面白いものである。

次に伊賀線であるが、フィルムスキャンしたおかげで信貴山電鉄の電車が写っていたことがわかった。ほんとに何が写っているかわからない。

S1-MN02301-近鉄伊賀線

写っている順番から推定すると比土駅の北側を撮ったもののようだ。10月であるのですでに稲刈りが終わっている。電車はモニ5181形2連である。

S1-MN02305-近鉄伊賀線

比土駅の写真である。伊賀神戸から電車がやって来た。ホームの向うにタブレット確認と書かれた標識がある。タブレットを使用していたのだろうか。今となってはよくわからない。

S1-MN02306-近鉄伊賀線

上野市に移動して伊賀上野城に行く。ここから伊賀線を眺めることができる。伊賀上野駅の方から電車がやって来た。城や伊賀越道中双六という芝居にもなった仇討で有名な鍵屋の辻に寄ってから伊賀上野駅の一つ手前にある新居駅で降りて城が眺められるところで写真を撮る。

S1-MN02313-近鉄伊賀線

 鉄橋を走る電車をよく見ると1両だけ形が違う。調べてみると信貴山上にあった信貴山電鉄のデ5形で伊賀線ではモ5251形とわかった。拡大してみると台車はイコライザーのある通常台車である。鉄道史料98号を見てみると、この電車の資料があり、台車の図面もある。信貴山電鉄のころはまったく違ったものであり、はき替えられている。それが車体が少し高くなっている原因なのだろうか。全高の違いが目立つ編成である。

S1-MN02316-近鉄伊賀線

おっぱい型ベンチレータのあるモニ5180形が鉄橋を渡っている。子供が全開した窓から外を見ている。

S1-MN02319-近鉄伊賀線

伊賀上野からカーブをした築堤を鉄橋の方へ向かっていくモニ5180形2連である。ちらっと新居駅の待合室が見える。今もこの待合室は残っているのだろうか?

S1-MN02322-近鉄伊賀線

夕日にモ5251形の正面が輝く。信貴山電鉄デ5形の面影を感じる。このように見るとなかなか良いスタイルである。

 40年ほど前の伊賀線と吉野線の写真をよく見てみると今まで知らなかったことがわかって面白い。新車の自動車を運んでいた貨車といい、よく観察してみると新たな発見がある。映像で残すという重要性が再認識をした。紅葉が美しくなる季節となった。さて、現存する日本最古のロープウェイに乗って吉野山へ紅葉を見に行ってみようか。

近鉄吉野線と伊賀線の写真」への2件のフィードバック

  1. どですかでん様
    懐かしい吉野の画像の公開有難うございます。
    吉野には昭和52年頃から57年頃まで年に数回行きました。
    現在「吉野大峰ケーブル自動車」の社長されている内田政男さんの息子さんが専務をされており、親しくさせていただいておりました。
    当時の内田政男社長とお会いしてお話させていただいたこともあります。「奈良県に初めてバスを走らせたのはワシや」「戦時中軍から営業を止めて鉄材を供出せよとの要請があったが、死んでも受けなかった」と言ったお話をお聞きしました。

    4番目の画像にシートに包まれたバスのようなものがありますが、昭和31年製のトヨタのキャブオーバーバスです。車体は梁瀬製で天窓がありました。多客時にロープウェイの終点から奥千本口間を走っていましたが、専属の運転手さんが退職され、運転できる人がいなくなり廃車になりました。保存目的で保管されていましたが、解体されてしまいました。

  2. 藤本先輩 コメントありがとうございます。戦時中の鉄材供出の話は吉野大峰ケーブル自動車のHPにある歴史のところにも書かれていましたし、機械遺産の説明文にも書かれていました。しかし、信貴山電鉄は鉄材供出で廃止となって電車はケーブル線を利用して下界に下ろしたようです。それが伊賀線の電車で走っている写真を撮るとは何やら不思議な縁を感じます。4番目の写真にあったシートを被った自動車は使われなくなったバスではないかと思っていましたが、やはりバスでしたか。貴重なお話、ありがとうございました。

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