ある時期はあれだけ日本全国に多くあった軽便鉄道であるが現在、営業運転をしているのは三岐鉄道北勢線と四日市あすなろう鉄道、そして黒部峡谷鉄道の3つの鉄道になってしまった。そのうちでトロッコ列車であり、森林鉄道の雰囲気が味わえる黒部峡谷鉄道といえばちょっときっかけがないと行くことができないような感じがする。そこがまた魅力的な軽便鉄道である。
黒部峡谷鉄道は黒部川流域の電源開発のために敷設された鉄道である。黒部峡谷鉄道の前身は日本電力専用軌道である。そして、現在は富山地方鉄道本線となっている電鉄黒部駅から宇奈月温泉駅までは黒部鉄道として大正12年(1923年)に開業した。さらに黒部川上流に向かう専用軌道は翌年の大正13年(1924年)に、今は遊歩道となっている旧山彦橋が完成し、この鉄橋から徐々にではあるが黒部川の山深くに専用軌道が敷設されていくのである。
さて、乙訓の長老様から移籍してきた「草卓人編 鉄道の記憶」に掲載されている黒部鉄道と専用軌道に関連する当時の新聞記事を参考にしながら欅平へ向かっていこうと思う。
黒部川電源開発は大正8年(1919年)に高峰譲吉博士らの発起によって設立されたアルミニウム製造の東洋軽銀株式会社から始まったとしてもいいのではと思う。ところで高峰譲吉博士はアドレナリン、ジアスターゼの発見で有名であるが、事業家、起業家としても多くの実績がありアルミニウム製造だけでなく、ベークライト製造も手掛けている。東洋軽銀㈱(東洋アルミナム㈱ともいう。)は大正10年(1921年)6月28日に下新川郡石田村から内山村への鉄道の免許を受けた。このルートは愛本鉄道㈱と競願であった。起点は三日市駅(現在のあいの風とやま鉄道黒部駅)で終点は桃源駅(なんと優雅な駅名だろうか。今の宇奈月温泉駅である。)である。第一期は下立駅まで大正11年11月に、そして第二期は桃源駅へ大正12年11月の開通であった。
専用軌道は大正15年(1926年)に猫又まで開通した。開通した時の旧線は遊歩道となっている。この道で宇奈月ダムまで行くことができる。
黒部川の最初に発電を開始した発電所は柳川原発電所である。大正13年に着工して完成したのは昭和2年であった。この発電所は宇奈月ダムの完成で水没し、新たに新柳河原発電所ができた。この発電所はヨーロッパの城のような形をしている。
黒薙駅は黒薙温泉への最寄り駅である。最寄り駅と言っても山道を20分ほど歩かないとたどり着けない。この温泉は歴史が古く、大正時代は登山が盛んになって宇奈月より徒歩で行っていたようである。黒薙駅からすぐに渡るアーチ橋の後曳橋は大正15年(1926年)に開通した。
黒薙駅から出平駅へ。ここでは列車交換ができる。ここにある出し平ダムは日本で最初に排砂ゲートが設置された。富山では出し平ダムの排砂がニュースになっている。最初の頃の排砂では下流の海でヘドロなどにより環境への影響があったが、最近は排砂のノウハウが蓄積されて環境への影響が改善されているようである。
猫又駅の近くに黒部川第二発電所がある。この発電所は建築家山口文象の設計である。余談ではあるが、山口文象設計の建築では同志社と関係あるものとして京都岩倉にある平安教会である。1973年に建てられて新会堂がそれにあたる。また、発電所への赤い橋も山口文象設計といわれているフィーレンデール形式で国内でも珍しい形式である。
終点の欅平駅は急な谷の斜面を切り開いてつくられた駅である。欅平のところで黒部川と祖母谷川に分岐していて、祖母谷川沿いに名剣温泉と祖母谷温泉があり、どちらも露天風呂がある。欅平から先は関電専用鉄道が仙人ダムから黒四地下発電所まで通じている。
ところで、電源開発の目的であったアルミニウムの工場はできたのであろうか。当時の新聞では石田村がその工場設置の場所であったのであるが、地図を見てもその気配がない。どうもできなかったようである。しかし、ここから関西方面の電力の大消費地に送電された。そして、今でも温泉と観光にと多くの人が訪れている。そのトロッコ電車による観光であるが、昭和5年の高岡新報の記事にこのようなものがあった。それは工事用軌道電車の運転中止である。工事が行われている時は黒部峡谷探勝者に猫又か鐘釣まで軌道に非公式であるが便乗をゆるしてきた。関東や関西から多くの観光客が宇奈月に訪れていたようで、温泉関係者も積極的に宣伝していたのである。ところが第二発電所の工事認可が得られないために工事がとまっていた。そのため工事用軌道も運転中止となったのである。当然、訪れる人も少なく、対応策を考えても問題は工事着手であるからどうすることもできなかったようであったらしい。
黒部のトロッコは宇奈月にとって重要な乗り物である。だから黒部のトロッコ電車は昔も今も、これから先も元気に走り続けるのである。