いよいよ問題のボギー台車の考察をしようと思う。このボギー台車は単台車と違って写真が残っている。しかし、この写真は信貴電のデハ100形のものでなく池上電気鉄道(以下池上電鉄と略称)のデハ3,4のものである。池上電鉄は現在の東急池上線で大正11年10月6日に鎌田・池上間が開通した。信貴電の開業が同じく大正11年であるが5月16日より営業開始をしているので、池上電鉄の方が信貴電より5ヶ月ほど後で開業している。池上電鉄も開業にあたり日本電機車輌に4両発注していたが開業までに完成しなかったようだ。ところが信貴電では池上電鉄が開業に間に合わなかった村田式台車をはいた同じタイプの電車が走っていたことになる。この池上電鉄の電車はしばらくして完成して納車された。この4両のうち2両は問題の村田式台車で、残りの2両はブリル27GE1であった。村田式台車はこのブリル27GE1を改造したものと言われている。この村田式台車をはいた池上電鉄の電車と台車の写真は村田式台車を考察するのにたいへん重要な資料となった。
ボギーになった村田式台車は
はじめて見た村田式台車の写真の印象は“なんとキャシャな台車やな~!”というものであった。走っているうちにバラバラになるのではないかと思ったぐらいである。その村田式台車の姿を図1に示す。
図1.村田式台車
図1は奈良県公文書の図面から主要部を中心に作成したものである。当時(大正時代)としては珍しい全てコイルバネを使用している。外観からの印象では戦後の高性能台車のようであるが実際はどのような台車であったのか。そして特許車台動揺防止装置は?公文書の図面と池上電鉄の台車の写真から村田式台車を考察してみようと思う。
村田式台車がキャシャに見えるのは?
電車によく使われていたブリル台車は丈夫であった。ブリルカタログ(資料として乙訓の長老様よりコピーをいただいた。)には鋳鋼フレーム以前はリベット接続で組立てられていて、リベット接続は橋梁などの静荷重ではよく使われるが振動や衝撃を受けるような構造物ではリベットの緩みが生じてフレームの劣化を進行させるとあった。そしてブリル27GE1は鋳鋼または鍛造による一体フレームで耐久性があり、その優位性を強調している。村田式台車はリベット接続で組立てられているところから一体フレームよりは耐久性が劣っていると思うがそれだけだろうか。リベット接続で組立てられている他の台車の写真を見てみると、軸箱守をつないでいる鋼材は溝型鋼(チャンネル)である。THEレイルNo.49に 吉雄氏が書かれた「ファンの目で見た台車の話ⅩⅧ」のなかに村田式台車を製作した東洋車輌が製造した筑摩電気鉄道の台車(大正13年製)、庄内電気鉄道の台車(昭和4年製)の写真があった。その他、東洋車輌製台車は高畠鉄道、蒲原鉄道などに使用され、丈夫で評判がよかったと吉雄氏は述べられておられる。これらの台車は軸箱守の接続に溝型鋼を使用している。東洋車輌は中小車輌メーカーであるが丈夫な台車を製作する十分な技術力はあったと思う。なぜ村田式台車は平鋼だけで軸箱守を接続したのだろうか。コストの問題があったのだろうか。せめて村田式台車が軸箱守を接続している平鋼のかわりにアングル材を使っていれば耐久性があったのではないかと思う。
注:レイルNo.49 の写真で見ると軸箱守周辺は筑摩電気鉄道、庄内交通ともほぼ同じ形状であった。
写真1.東洋車輌製台車の一例 (庄内交通モハ3保存車両)
特許の車台動揺防止装置はどのように組み込まれているか?
実はこのボギー台車のどこに車台動揺防止装置が組み込まれているか、しばらくわからなかった。文献やら図面やらを穴が開くほど眺めていてもわからなかったである。繰り返し文献を読み、図面を眺めていくうちに吉川文夫氏が書かれたひとつの文章からヒントを得て、図面を詳細に調べてみたのである。その文章は以下のものである。
「これは私の解釈であるが-、図-2の台車側面図の中で、中心からやや右手にアームが中央のばねの中間に挟みこまれているが、このあたりが特許となった構造かと思う。」
鉄道ピクトリアルNo.727 信貴生駒電鉄開業時の車輌101形を探る 吉川文夫 P226
この文章がなければ迷宮入りであったのである。吉川文夫氏には感謝する次第である。それではこのボギー台車に組み込まれた車台動揺防止装置の説明をしようと思う。図1の正面図で右半分にその一部分が書かれてある。
公文書の図面を詳しく調べてみると、私は図2の赤の部分が車台動揺防止装置であると考えている。これでは分かりにくいので図3のような立体の概略図を描いてみた。(図3でも赤の部分が車台動揺防止装置)
図2.車台動揺防止装置(ボギー台車用)
図3.車台動揺防止装置立体概略図(ボギー台車用)
この2つの図からわかると思うがボギー台車の車台動揺防止装置は進行方向に対して左右の上下動を同じ変位にすることを目的としている。「信貴電の不思議 村田式台車を考察する その1」では単台車について考察したのであるが、この場合は進行方向に対して前後の上下動を同じ変位にすることを目的としていると述べた。そうすると単台車用とボギー台車用は異なる方向の上下動に対応するようにしていることになる。しかし、設計者は単台車と同じ効果をねらったと思われるが、この上下動方向の違いの意図はどこにあるのか不明である。ところで、その仕組みを図3で説明する。なお、説明する為にこれから次々に図面が出てくるが各部分の名称は説明するために私がつけたものである。まず、シャフトがボルスターに平行して取り付けられていて、両端に軸受がある。その軸受は軸受支持具でフレーム(台車本体)に固定されている。レバーはシャフトに固定されていて、左右2ヶ所に取り付けられている。レバーのもう一方は上下にバネをはさんでロッドが通っている。そしてロッドはボルスターに固定されたロッド受けにつながっている。
図4.車台動揺防止装置動作説明
この装置の動作は図4の右側に示すようにボルスターが下がるとロッドにつながっているレバーを押し下げる。シャフトに固定されているもう一方のレバーも同じ変位で下がる。これによりボルスターは水平に同じ変位だけ上下動をすることになる。以上により、ボギー台車の車台動揺防止装置も単台車と同じ目的で取り付けられていることがわかる。
図5.曲線通過時における力のかかり方
ところでこの装置を図面化するにあたって詳しく調べていると単台車の時と同じように強度について不安を感じた。図5のように、たとえば右に曲がる場合を考えてみる。このとき、図5の黒い矢印のような方向にフランジに力がかかる。そして、この図の赤で描かれてある車台動揺防止装置にも赤の矢印の方向に力が加わる。この装置がボルスターと平行方向に固定されているから、曲線通過時の台車にかかる遠心力はほとんど緩衝されることなく、この装置の軸受部に加わると考えられる。図面を見る限り、軸受のフレームとの支持具はどう考えても強度不足と思う。強度不足により赤矢印の力が加わるとタワミが発生して動作不良を起こすのではなかろうか。実際はどのような状態であったのであろうか。これらのことがわかるような資料があればよいが、現時点では推察してみるしかない。私の考えでは、このボギー台車の車台動揺防止装置は十分に目的とする機能が発揮できなかったのではないかと思う。
不思議なマクラバネ受け台の吊り機構は?
この村田式台車で図面と写真の両方とも不思議に思ったのはマクラバネ受け台の左右でコイルバネを用いて吊っている部分である。最初からどのような構造になっているかまったくわからなかった。図面と写真を見比べてもわからず、長い時間がすぎた。しかし、わからない。ブリル27GE1の改造といわれていたので、この台車の写真を見てみると同じようにマクラバネを吊っていたがどうもよくわからない。何度も何度も図面をよく眺めて考えていると何とかわかってきた。それは図6のようにコイルバネを介してマクラバネ受け台を吊っている構造であることがわかった。図6に吊り機構を示す。この図面は実際にはなく、写真と公文書の側面図から作図したものである。
ところで、図7を見ていただきたい。これはブリル27GE1台車の吊り機構である。
図7.ブリル27GE1の吊り機構
この図7と先ほどの図6を見比べると吊りバネの取り付け方が違うがどうも機能としては同じであるように感じる。村田式台車のマクラバネ受け台吊り機構はブリル27GE1の吊り機構を参考にして作られたのではなかろうか。この吊り機構の機能については乙訓の長老様よりいただいたブリルカタログのコピーに書かれてあった。それによるとカーブの入り口で横向きの揺れが起こり、それによって車輪のフランジがレールに激しい力がかかり速度が速ければ脱線の危険がある。しかし、この吊り機構であれば横揺れが緩衝され、脱線の危険やレールの磨耗が防ぐことができるとあった。これがブリル27GE1 のセールスポイントのひとつであったようだ。村田式台車の設計者村田利之助氏はこの点を考慮してこの吊り機構を組み込んだのだろうか。ところがこの台車に組み込まれた特許車台動揺防止装置はこの吊り機構の利点を妨げるように作用するのではないかと私は思うのだが。
村田式台車はブリル27GE1の改造なのか?
村田式台車はブリル27GE1の改造であると、どの文献を見てもそのように書かれてある。私もこの点からいろいろなブリル台車の写真と図面を見比べて検討してみた。軸箱周辺はよく似ていて、確かに軸箱部分を切断して所定のホイルベースに合わして接続したものと考えられる。実際に図面を見てみると軸箱部分の上部を鋼製帯板でリベット接続されている。さらに図面を詳細に調べて具体的にどのように接続されているか考えてみた。それは図8のようになるのではないかと考えた。
図8.軸箱守接続説明図
部品として軸箱守の形状は公文書の図面から図8に書かれてあるようなものではないかと推定した。またスペーサーについては次のように考えてみた。軸箱守上部のリブとなっている部分にフレーム平鋼をリベットで打ち込んだ時にリブが歪む可能性があるので、おそらくパイプ状のスペーサーが取り付けられているのではないかと考えた。公文書の図面でも寸法としてリベットの直径より太くなっているので、まずスペーサーが取り付けられていたのは間違いないだろうと思う。ところでこの村田式台車はブリル27GE1の改造といわれているが、その理由は軸箱守の形状が似ているという点である。現在、ブリル27GE1は阪堺電車のデト11が使用している。この台車を見るために「路面電車まつり」に行ったのであるが、見ることができなかった。しかし、乙訓の長老様から写真を提供していただいたので知りたいことが確認できた。どうもありがとうございました。その写真が次のものである。
写真2.阪堺電車デト11の台車 (乙訓の長老様 御提供)
ところで、よく見比べてみるとどうも理解できないことがあった。図9を見るとわかると思うが、フレーム平鋼をリベット止めしている部分をどのようにして改造したのか疑問に思った。このリブのある部分を別に製作し、その部品を接合して製作するとしてどのような接合方法だったのだろうか。接合方法として溶接があるが、そもそも溶接が日本で本格的に行われたのは戦後からである。図9から考えてみても赤丸で囲まれた部分は改造できるとは思えない。改造よりも図8にあるような軸箱守の部品を鋳鋼で新規製作して台車を組立てる方が納得できるし、改造よりも製作リスクが小さいのではないかと考える。
図9.ほんまに改造?
以上のことより私は村田式台車がブリル27GE1形台車を改造したものでなく、新規製作されたものであるという結論に至ったのである。しかし、軸箱守の接続部以外の形状はブリル27GE1に似ている。設計者の村田氏は軸箱守の形状を、ブリル27GE1を参考にしたと考えられる。前述のマクラバネ受け台吊り機構も同じようなことから、村田利之助氏の頭の中には常にブリル27GE1があったのかもしれない。
信貴電の村田式台車と池上電鉄の台車はまったく同じものか?
村田式台車の現存する写真は今のところ池上電鉄のものしかない。信貴電のデハ100形に使用していた村田式台車は公文書の図面でしか知ることができない。ただ、池上電鉄の台車の写真があることで図面と比較検討するといろいろなことがわかった。どちらか一方しか無かったらわからなかったと思う。
図10.池上電鉄 デハ3、4
図10は数枚の写真から描いてみた池上電鉄のデハ3もしくはデハ4である。最初はポールであったが後に片側がパンタグラフになった。写真ではパンタグラフに交換されたものであったが初期の形として描いてみた。さて、この池上電鉄の電車であるが信貴電デハ100形と車体寸法の全長などの部分と軌間が異なるがほとんど同形である。私が注目している異なる点は電動機と台車のある部分である。電動機については、信貴電デハ100形は30馬力の電動機が4台で、池上電鉄の電車は50馬力の電動機が2台である。そして、池上電鉄の台車は図10でわかるように左右非対称であるが、信貴電の台車は左右対称である。(図1.参照)実は電動機の台数が違うのは吉川氏の文献あった一覧表でわかったのであるが、台車の違いについてはなかなかわからなかった。写真を眺めていて偶然にちょっと変だなと思ったのである。その違う部分を図11に示す。それは図にあるように部材AとBが取り付けられていることである。
電動機(青の部分)は信貴電の電動機図面より作成し、部材(赤の部分)は写真より推定して記入
図11.信貴電と池上電鉄の台車の異なる部分(赤の部分)
この部材は図面で判断する限り、信貴電デハ100形にはなかった。なぜ、池上電鉄の台車にこの様なものがあるのか。まず、この部材の役割はどのようなものか考えてみることにしようと思う。
図12.電動機取り付け部説明概略図
図12は電動機の取り付け部分について信貴電と池上電鉄とを比較した図である。この図からわかるように池上電鉄の台車に取り付けられた部材は従来の部分と共にトラス構造を構成している。トラス構造は変形しにくく、また部材にかかる力は曲げる方向にかからずに部材に沿った力(軸力)がかかる。よって、変形しにくい安定した構造である。橋梁でもトラス橋があることからもわかると思う。このようなことから池上電鉄の村田式台車は信貴電の台車を強度(耐久性)に関してバージョンアップしたものではないかと思う。このバージョンアップした理由であるが、電動機の出力が大きくなったことが理由のひとつといえるが、私はむしろ信貴電の村田式台車に強度(耐久性)について不具合があったために改良したのではないかと考える。ところでこの改良はどのようにしたのだろうか?
写真をよく調べてみると、図13のように各部品を取り付けて、組立てたのではないかと思う。写真で見ると、フレーム平鋼と部材Aを軸箱守に組み付けられているが、その締結はリベットではなくボルトナットによるものである。ところが部材Bと部材Aの締結はリベットで行われている。そして、問題は部材Bが軸箱守から出ているヨークとよばれる部分にどのように固定されているかという点である。これについてはじっくりとこの部分の写真を観察するしかない。
図13.改良部組立図
部材Bの固定している部分を観察してみた。その部分を描いたものが図14である。
図14.軸箱守と部材を固定しているところの写真を観察すると
図にあるように3ヶ所にリベットの頭部のようなふくらみでなく、わずかな不均一なふくらみが見られた。これが部材の固定方法を考えるヒントになるのであるが、なかなか納得できる固定方法を考えることが出来ないでいる。なぜ、リベットで固定しなかったのだろうか。とにかく固定方法を考えてみた。そこで溶接、鍛接、ろう接の3種類を考えてみた。溶接については本格的に行われるようになったのは戦後からであると述べた。よって溶接ではないと思う。鍛接は接合する部分を高温度に加熱してハンマーやプレスなどで圧着接合する方法である。図14の赤丸で囲まれたところにわずかなふくらみがある。鍛接ではこのようなふくらみは出来ないであろう。次にろう接である。これはなじみのあるハンダ付けもこの部類に属しており、歴史も古い。鉄同士の接合は銀ロウ付けが行われ、接合部分はわずかなふくらみが生じる。この点からも私はこの部分の接合はロウ付けで行われたと考えている。そして、この部分は不具合があった為に付け加えたものだと思う。なぜなら、設計当初からトラスの部分を取り付けるのであれば、このトラスの部分を一体で鋳鋼製とするからである。部材が取り付けた軸箱守の上部がボルトナットで固定されているのも部材取り付け方法に関係しているのではないかと思う。ではどのような手順でこの部材を取り付けたのか推定してみた。いろいろ考えた結果、図14のようにするとうまく取り付けられると思う。特に軸箱守上部をリベットでなくボルトナットで固定している点がポイントで、これは図15の②にあるように適切な位置にロウ付けする為の仮止めではないかと考えた。この方法であれば部材AとBが適切な位置に固定できると思う。
図15.部材取付手順
池上電鉄の台車について考察の結果から池上電鉄の村田式台車は信貴電の台車の改良版だと思う。池上電鉄の電車が信貴電の電車より寿命が長かった理由のひとつがこの点にあるのではなかろうか。
つまるところ村田式台車とは
2回に分けて村田式台車について考察したのであるが、この台車は単台車、ボギー台車ともに村田利之助氏が発明して特許を取った車台動揺防止装置に尽きるのではないかと思う。ところで今年の2月20日に乙訓の長老様より「信貴電最初の車両の詳細はまだ紹介されていないように思う。ぜひ取り組んで欲しい!」というご託宣を仰せ付かり、調査に入ったのであるが、どこにどういう資料がわからないのでネット上でキーワード検索を行い、ピクトリアル、鉄道史料の文献のコピーが手に入った。これらの文献を読んでいると、この電車の特徴は村田式台車をはいていたことで、大正時代に製造されたこの台車は外観が戦後のコイルバネを使用した台車に似ているので注目されていた。しかし、この台車に組み込まれている車台動揺防止装置については、まだ詳しいことを調べられたようには見受けられなかった。この点に絞って考察を始めたのであるが、次から次へと疑問点が浮かび上がりなかなか全容がつかめなかった。しかし、艱難辛苦の末になんとか全容をつかめた。これより以下の7項目が考察の結果をまとめたものである。
- 電車の乗り心地改善の為に村田利之助氏が発明した車台動揺防止装置を世に送り出す為に改造でなく新規に設計製作された台車である。
- 最初は単台車で設計し、その後にボギー台車に展開をした。
- 単台車の図面に軌間、車輪径が異なる場合の寸法表があることから特定の鉄道会社の為に設計された台車ではない。(これはボギー台車にもいえると考える。)
- 現時点で確認できる最初の村田式台車は信貴電デハ100に使用された台車である。(ただし、単台車でこれより以前に製作されたものがあるかもしれない。)
- 台車の設計に当たって村田氏はブリル27GE1を参考にしているように思う。
-
池上電鉄の台車は信貴電の台車の使用状況をみて、改良されたものである。
-
池上電鉄の台車の使用履歴をみると車台動揺防止装置は目的が達成されなかったと思われる。
このような私の珍奇、勝手な結論で異論のある方もおられると思うが、これをきっかけにして新しい発見や解明ができればと思う。私も吉雄氏、吉川氏、今井氏の各文献をよりどころとして考察をおこなった。解釈の内容が異なったが、いろいろな視点で考察することで真実に近づいていくのだと思う。
村田式台車を考察していく過程で考えてみると、信貴電のデハ100形が短命であったことや、池上電鉄の開業時に発注した電車の納期が遅れたことなどの経緯について新たなストーリーが推理できるのではないかと思った。そして、単台車についても気になることがあるし、発端の大和川橋梁についても・・・・・。
さらに、「信貴電の不思議」は果てしなく続くのである。
この考察を行うにあたり、乙訓の長老様を始め、「路面電車まつり」でお会いしたH氏には吉雄氏の台車に関する記事が書かれてある雑誌を紹介していただいた。記事を書かれた先輩諸氏も含めて感謝する次第である。