26尽くしに寄せての青信号26号

さっそく青信号26号の表紙と表紙の解説をどうぞご覧ください。全て手作業で、よくまあこんなことをしていたと思います。DRFCは超人集団でした。いまでもそんな感じですが。

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26尽くしに寄せての青信号26号」への3件のフィードバック

  1. 26号は20型6両の一員であった。渾名は「マッチ箱」「鉄の箱」「社会科電車」などが献上された。3ツ目の社会科・・・・・は、元山科住民であった須磨の大人に教えられた。20型は京津電軌の生き残りとして21~27号の7両があったが、21号は1939年に木造車体ながら密閉車体に改造され「化け猫」の渾名が献上されていた。残る6両について台枠を始め使える機器その他の部品等も全て流用して、鋼製車体を新製する申請を所轄官庁にしたところ、車両統制会から即座に「従来通り木造車体でするように」との指導を受けた。止む無く在庫鋼板を利用して一部車両の外部側板を張替え補修をして終戦を迎えた。
    この時、既に昭和18年9月27日付で申請していた客車改造の件は木造車として承認を得ていたようで、申請図面も車両部に保存されていた。マッチ箱と名付けられたが、屋根両端のみがR付で扉は2枚引き、窓割りは20型のガラスを流用できるように2×4で、座席布団も流用となっていた。これが実現していたら熊本50型の京阪バージョンとなり、食パンスタイルが1850形以前に出現していたかもしれない。いずれにせよ規格型電車が世に出る前に汽車会社東京支店の手になり半鋼製車として1947年春に出場、最初は石山坂本線に配置されたが、1949年8月の四宮車庫火災で全車京津線に配置替えとなり、80形新製に伴い2両ずつ廃車になった。

  2. どですかでん様
    早速の26号ありがとうございます。何度も読み返されて変色しているのは、私の手元にある青信号と同じですネ。私の26号はNO.087の通し番号がペン書きされています。貴君の26号は何番ですか? 題字が特派員殿、解説文は今は亡きS氏がガリ切りまでされたようですネ。青信号は年2回でしたが、毎月「補機」も作っていましたから、仰るようによくあれだけのことを手作業でやっていたと褒めてあげたい気分です。ところで一畑行きは確かにゼミ旅行でご一緒でした。往きは京都か大阪から夜行だったように思います。多分玉造から出雲大社に参ったあとゼミのみんなと別れて、一畑に行ったようです。1泊余分に泊まったはずですが、記憶にありません。帰路は松江から岡山までの12月11日の「やくも4号」の指定券(300円)が残っているので、どこかで別れて貴君は木次線に行かれたのでしょう。あれから40年も経ったのだと感慨にふけっております。

  3. 乙訓の長老様
    いつも電車にまつわる面白い話をご披露くださりありがとうございます。ピクトリアルの京阪特集にもない話なので興味深いものです。これからも面白い話を楽しみにしています。
    西村雅幸様
    私の通し番号はNO.129です。ということは多分130部は間違いなく発行していると思います。本文164ページでOBも含めての会員名簿が14ページの本を裁断以外は全て会員の手作業でやっていたのですから。ところで一畑行きは思っていたようにゼミ旅行の後で行った事がわかりよかったです。このときの写真は数枚をキャビネサイズに焼いてからほとんど見ることがなかったのですが、米手作市さんの記事とその前にEVEでの「鬼の舌震」の話が強烈な印象となって、当時のネガをデジタル化も兼ねて紀行文にしてみました。とにかく、40年前のことで断片的に写真を見ながら思い出したことと地形図などを見ながらなのでどうしても空白部分があります。しっかりと記録をしておけばと思いますが、今となっては後の祭りです。しかし、保管している当時の切符などから推理をするのも楽しみの一つです。ところで一泊しているような感じをしているのですが、私もどうしたかわかりません。謎の空白です。アリバイがないのです。

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