元祖4扉通勤電車の写真発見 投稿日時: 2014年4月21日 投稿者: どですかでん DRFC現役時代に高槻電車区見学会で救援車となった元祖4扉通勤電車を撮っていました。多分、当時見学会に行かれた方も撮影していると思います。「青信号24号」の活動報告の中に6月27日(1970年)高槻電車区見学会14名参加とあります。 ところでこの写真でいいんですよね?運転台より3枚目の扉が改造されているようです。電車の詳しいことはわかりませんので先輩諸氏よろしくお願いします。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 上武鉄道D1001 いい加減な電車の原型 大阪地下鉄60系
高槻電車区にあったのは1970年でしたか。内輪の話を披露するのはどうかと思いますが、その時の当事者が忘れてしまったと言ってますので困ったことですが、思い出話を少々。 対岸の京阪電鉄では当時、朝ラッシュ時の寝屋川市駅の混雑に頭を抱えていました。その頃運転手見習いをしていた新進気鋭の社員がお師匠さんと勤務明けで一杯やって居りました。話題は寝屋川市駅ホーム延長寸法が上下共に7連急行ぎりぎりで「止めるのに緊張する、閉じる扉操作が難しい」との話しに話題が集中しました。その時、部外者が「止めるは運転手の技量問題として、車両はオール扉にしたらどうだ、国鉄にはシャッター式の扉を装備した荷物車があるぞ」。「それは怖いがな、乗降済む前に降ろしたらギロチン車になる」。「それならこんなのどうだ、戦争中、鶴臨に17M車で4ツ扉、扉間2窓の電車があった。これを5扉にしたらどうや!」 バカ話まとたお師匠さん、車内提案したら採用するところになったと、新進気鋭の社員さんから聞いたことがあります。この5扉車実現に向け頭を振り絞った方は後年、重役さんになり、「ぷるぷるさん」の上司でいらっしゃいました。今は昔の話です。 返信 ↓
乙訓の長老様 この元祖4扉通勤電車から京阪の5扉電車が生まれたというお話にはびっくりしました。とんでもないものが生まれるときは何かとんでもない刺激があるのですね。ところでこのクエ9400について昭和38年第1刷発行の電車ガイドブックで調べてみましたが載っていませんでした。ただ、巻末の1963年4月1日現在の国電形式別一覧表にクエ9400は両数2となっていて使用線区は高槻区、明石区となっていました。この時は2両あったのですかね。どうなのでしょうか。さて、この時の見学会は救援車が目的でなく青信号の活動報告によると「昨日、吹田工から出場したばかりの冷房付113系を見学」とありましたが、私のネガには113系の写真はなく旧型国電とTR48、DT11台車の写真しかありませんでした。当時、新人会員だったので変なものばかり撮っていたようです。 返信 ↓
昭和17年新潟鐵工所製で、両運のモハ221、222、片運のクハ261、262となる予定で完成したものの、時節柄電装品が入手できず4両共サハで登場した。 戦時型と言えばモハ63形を筆頭に、簡素で粗雑な造作を彷彿させるが、車体はノーシル、ノーヘッダー、吊り手はバネ入りのコリ式で、扉数以外は戦時色を感じさせない作りであったと言われている。 戦後運転台が設置されてクハになったが電装されることはなかった。 鶴見線に国鉄標準型の17mが入線すると、主に福塩線、宇部線で使用された。 ローカル線に国鉄標準型が入線すると、社形はローカル私鉄に払下げられたが、さすがに4扉車は買い手がつかず、モハになる予定であった、サハ221→クハ221→クハ5510とサハ222→クハ222→クハ5511は昭和31年3月1日付けで廃車された。 サハ261→クハ261→クハ5520は、昭和32年大井工場で両運の救援車に改造されクエ9130になり三鷹区に配置、昭和34年クエ9420に改番され54年2月5日付で廃車になった。 サハ262→クハ262→クハ5521は、昭和32年吹田工場で片運の救援車に改造されクエ9131になり高槻区に配置、昭和34年クエ9400に改番され59年5月25日付で廃車になった。 どですかでん氏が書かれているもう1両のクハ9400形9401は、元鶴見臨港鉄道のモハ116(昭和5年新潟鐵工所製)で、昭和28年の改番でモハ1502に、昭和32年吹田工場で片運の救援車に改造されクエ9140になり明石区に配置、昭和34年クエ9401に改番され58年3月4日付で廃車になった。 返信 ↓
藤本先輩 詳細な解説ありがとうございます。明石区のクエ9401については形式称号としてクエ9400としか書いていなかったのですが、どうも関三平さんの記事を読んでみると元祖4扉通勤電車と違うような気がしていました。やはり全く違う車両でしたのですね。同じ新潟鐵工所製で鶴見臨港鉄道に所属していて、最後は明石区と高槻区であることも面白いと思いました。製造された時代が違うのに救援車への改造も同じ時期に吹田工場であることも、そして弟分のクエ9400が1年長生きしたことに電車も生き物のように感じます。特に旧型電車はそのように感じてなりません。 返信 ↓
もう1ケ所訂正です。車内ではなく、社内提案です。9400がモデルになったのではなく、扉数を増やすことが現場の声として取り上げられたと聞いています。当時、軽量化の方向にありましたから、係長であった方が設計されたとそうで、川崎重工に相談されアルミ車となったようです。完成後、枚方市以南の区間急行で運用された話もご存知でしょう。淀屋橋駅で閉鎖扉部分の座席格納が「びっくり評判」となり、テレビで放映されました。いつのまにか寝屋川車庫で格納となりました、最近の5000系の運用がどうなのか知りませんが、複々線区間が萱嶋まで伸びた後は淀仕立ての準急運用専用になったと言って、その頃の運用表をぷるぷるさんに貰ったことがあります。JRでは今、ホームドア問題で多扉車は亡くなるのでしょうが、営団日比谷線はどうなるのでしょうか、他国ではインドの通勤電車、すごいですね。あれこそ多扉にして閉めて走ってほしいですね。鉄道は3Sでないといけません。 これから近所の交差点の横断歩道で、小学生集団登校で旗を振りに行きます。時々出発進行といってやると喜んでくれます。老人の楽しみに一つです。 返信 ↓
高槻電車区にあったのは1970年でしたか。内輪の話を披露するのはどうかと思いますが、その時の当事者が忘れてしまったと言ってますので困ったことですが、思い出話を少々。
対岸の京阪電鉄では当時、朝ラッシュ時の寝屋川市駅の混雑に頭を抱えていました。その頃運転手見習いをしていた新進気鋭の社員がお師匠さんと勤務明けで一杯やって居りました。話題は寝屋川市駅ホーム延長寸法が上下共に7連急行ぎりぎりで「止めるのに緊張する、閉じる扉操作が難しい」との話しに話題が集中しました。その時、部外者が「止めるは運転手の技量問題として、車両はオール扉にしたらどうだ、国鉄にはシャッター式の扉を装備した荷物車があるぞ」。「それは怖いがな、乗降済む前に降ろしたらギロチン車になる」。「それならこんなのどうだ、戦争中、鶴臨に17M車で4ツ扉、扉間2窓の電車があった。これを5扉にしたらどうや!」
バカ話まとたお師匠さん、車内提案したら採用するところになったと、新進気鋭の社員さんから聞いたことがあります。この5扉車実現に向け頭を振り絞った方は後年、重役さんになり、「ぷるぷるさん」の上司でいらっしゃいました。今は昔の話です。
乙訓の長老様 この元祖4扉通勤電車から京阪の5扉電車が生まれたというお話にはびっくりしました。とんでもないものが生まれるときは何かとんでもない刺激があるのですね。ところでこのクエ9400について昭和38年第1刷発行の電車ガイドブックで調べてみましたが載っていませんでした。ただ、巻末の1963年4月1日現在の国電形式別一覧表にクエ9400は両数2となっていて使用線区は高槻区、明石区となっていました。この時は2両あったのですかね。どうなのでしょうか。さて、この時の見学会は救援車が目的でなく青信号の活動報告によると「昨日、吹田工から出場したばかりの冷房付113系を見学」とありましたが、私のネガには113系の写真はなく旧型国電とTR48、DT11台車の写真しかありませんでした。当時、新人会員だったので変なものばかり撮っていたようです。
後部より4行目、バカ話まとた、は、まとめた、に訂正です。ごめんなさい。
昭和17年新潟鐵工所製で、両運のモハ221、222、片運のクハ261、262となる予定で完成したものの、時節柄電装品が入手できず4両共サハで登場した。
戦時型と言えばモハ63形を筆頭に、簡素で粗雑な造作を彷彿させるが、車体はノーシル、ノーヘッダー、吊り手はバネ入りのコリ式で、扉数以外は戦時色を感じさせない作りであったと言われている。
戦後運転台が設置されてクハになったが電装されることはなかった。
鶴見線に国鉄標準型の17mが入線すると、主に福塩線、宇部線で使用された。
ローカル線に国鉄標準型が入線すると、社形はローカル私鉄に払下げられたが、さすがに4扉車は買い手がつかず、モハになる予定であった、サハ221→クハ221→クハ5510とサハ222→クハ222→クハ5511は昭和31年3月1日付けで廃車された。
サハ261→クハ261→クハ5520は、昭和32年大井工場で両運の救援車に改造されクエ9130になり三鷹区に配置、昭和34年クエ9420に改番され54年2月5日付で廃車になった。
サハ262→クハ262→クハ5521は、昭和32年吹田工場で片運の救援車に改造されクエ9131になり高槻区に配置、昭和34年クエ9400に改番され59年5月25日付で廃車になった。
どですかでん氏が書かれているもう1両のクハ9400形9401は、元鶴見臨港鉄道のモハ116(昭和5年新潟鐵工所製)で、昭和28年の改番でモハ1502に、昭和32年吹田工場で片運の救援車に改造されクエ9140になり明石区に配置、昭和34年クエ9401に改番され58年3月4日付で廃車になった。
藤本先輩 詳細な解説ありがとうございます。明石区のクエ9401については形式称号としてクエ9400としか書いていなかったのですが、どうも関三平さんの記事を読んでみると元祖4扉通勤電車と違うような気がしていました。やはり全く違う車両でしたのですね。同じ新潟鐵工所製で鶴見臨港鉄道に所属していて、最後は明石区と高槻区であることも面白いと思いました。製造された時代が違うのに救援車への改造も同じ時期に吹田工場であることも、そして弟分のクエ9400が1年長生きしたことに電車も生き物のように感じます。特に旧型電車はそのように感じてなりません。
もう1ケ所訂正です。車内ではなく、社内提案です。9400がモデルになったのではなく、扉数を増やすことが現場の声として取り上げられたと聞いています。当時、軽量化の方向にありましたから、係長であった方が設計されたとそうで、川崎重工に相談されアルミ車となったようです。完成後、枚方市以南の区間急行で運用された話もご存知でしょう。淀屋橋駅で閉鎖扉部分の座席格納が「びっくり評判」となり、テレビで放映されました。いつのまにか寝屋川車庫で格納となりました、最近の5000系の運用がどうなのか知りませんが、複々線区間が萱嶋まで伸びた後は淀仕立ての準急運用専用になったと言って、その頃の運用表をぷるぷるさんに貰ったことがあります。JRでは今、ホームドア問題で多扉車は亡くなるのでしょうが、営団日比谷線はどうなるのでしょうか、他国ではインドの通勤電車、すごいですね。あれこそ多扉にして閉めて走ってほしいですね。鉄道は3Sでないといけません。
これから近所の交差点の横断歩道で、小学生集団登校で旗を振りに行きます。時々出発進行といってやると喜んでくれます。老人の楽しみに一つです。