「いい加減な電車」の写真があったやちゃ。よかったら越ノ潟へ行ってこられ。

 「なんだこりゃ?窓の配置」電車が走っていた加越能鉄道高岡軌道線は万葉線株式会社となり、路線も通称万葉線となった。ところで、万葉線の万葉とは万葉集からきたもので、その万葉集には越中国守として現在の伏木にあった国府に赴任していた万葉歌人である大伴家持の歌が17巻から19巻に載っている。そして「越中万葉」と呼ばれているものが家持以外の歌も含めて337首ある。まんざら、越中は万葉集とは無縁ではないのである。

 さて、本題の「いい加減な電車」の写真であるが家持と同じように奈良から越中に単身赴任をしているときに万葉線を訪れて撮ったものである。撮影した車両は7053号で、2003年3月9日に越ノ潟駅で撮っている。

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 ご覧のようにヘンテコリンな窓配置がわかる。この写真を撮った時はまったく窓配置など気にしていなかったが、後で知ると“ああ~そうなんだ”と感心してしまう。このときは車で行ったのであるが、目的は万葉線でなくて「越ノ潟フェリー」(富山県営渡船)に乗ることであった。富山県の道路地図では「越ノ潟フェリー」と表記してあったので車も乗ることが出来るものと思っていた。それに加越能鉄道越ノ潟駅があるので好都合と思っていたのであるが、残念ながら車は乗ることが出来ない船でバイク、自転車、人のみが乗船可能である。結局、富山新港をぐるっと廻って越ノ潟へ行き撮ったものである。再び越ノ潟を訪れたのは2005年8月7日である。このときに撮った車両も2年前と同じ7053号で車体に塗装も同じである。なんという奇遇なのであろうか。

県営渡船-1

 このときは富山駅前から新港東口までバスに乗り、越ノ潟へは以前に車が乗れると思った富山県営渡船で行った。今回も本当の目的は船に乗ることで一つは越ノ潟の渡船と、もう一つは「如意(にょい)の渡し」である。「如意の渡し」は現在では橋ができて廃止になった。

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↑ 高岡の方からやって来た電車は2年前と同じであった。

 越ノ潟より7053号で「如意の渡し」ののりばがある中伏木へ行く。庄川を渡ると六渡寺、中伏木となる。

電車に乗って中伏木へ

 この「如意の渡し」に乗ると伏木に行くことが出来るのである。この渡しには有名な勧進帳のベースになった義経と弁慶の話がある。奥州へ行こうとしていた義経主従が渡しに乗ろうとしたときに義経であることがばれて、弁慶が義経を叩くことによって渡しに乗ることが出来たという話である。この話から能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」が出来たということである。そういえば伏木側の乗り場近くに弁慶と義経の像があった。

如意の渡し

 この伏木には越中国の国府があり、その位置は現在の勝興寺あたりである。浄土真宗本願寺派の寺で本堂は重要文化財に指定されている。また、勝興寺への途中には旧伏木測候所がある。富山ではテレビで天気予報を見ていると観測地は高岡市街ではなく伏木となっている。日本最初の私立測候所で、建物は明治42年築で国登録有形文化財となっている。現在は高岡市伏木気象資料館として公開されている。観測は今もアメダスによる無人観測が行われている。帰りは伏木駅より氷見線で富山へ戻った。

勝興寺と伏木測候所

 そして、6年後の2011年9月23日に再び、再び越ノ潟へ。すでに、「いい加減な電車」はなく、真紅のLRVに代わっていた。しかし、県営渡船は運行されていた。2011年に訪れたとき、渡船係員の方に新湊大橋が完成したら渡船が廃止になるのかとお聞きしたところ、はっきりと決まっていないが廃止になるのでは言っておられた。ところが今も越ノ潟発49便、堀岡発48便が運航している。残っている理由は運賃が無料で、電車の駅やバスの停留所がすぐ近くにあり利便性が高いためであろうか。

LRVが停車している越ノ潟と渡船

 さて、西村さんの「いいかげんな電車の現役時代」に庄川にあった専用線についてのお尋ねがあったが、これについては「草卓人著 富山廃線紀行」に詳しく書かれているので少しばかり紹介したいと思う。この本は富山の桂書房から出版されていたが、すでに品切れとなっている。「呉羽山のインクライン」「大山の人車軌道」など地元の方ならではの内容で興味深い。

 この専用線は庄川水系の電源開発のために庄川水力電気㈱が大正15年に建設資材運搬輸送のために開通させている。加越能鉄道の青島町駅から小牧ダムのところまでで途中に青島作業場としてヤードが設置されていた。この場所は現在の庄川中学校の少し南東側で、そこから専用線は庄川沿いに小牧へと向かっていた。さて、この専用線は当初は蒸気機関車3両であったが、輸送力増強のために電化して電気機関車4両を投入された。そして蒸気機関車はというと庄川左岸に敷設された砂利用軌道で使用されていた。本の写真を見てみると電気機関車はポール集電で、ダムと発電所の完成後は木材運搬とダムの完成によって名所となった庄川峡や大牧温泉への観光客輸送を昭和6年に開始した。なお、専用線による木材運搬は小牧ダムができたことによって起こった「庄川流木争議」という大事件が関係している。昭和14年に廃止されたが戦後の昭和26年に同じ区間を加越能鉄道が敷設免許を取得して林産・電源開発や観光振興に役立てようと計画されたが実現されなかった。そして、接続していた加越能鉄道加越線も昭和47年に廃止となった。

 専用線のことなど知らないで現地を訪れた時に線路跡ではないかと思っていたところがあった。それはJAとなみ野庄川あたりであるが、この本を読んでみるとどうも専用線の起点である青島町駅があった所のようだ。その時、車で走っているとカーブが鉄道線路のように感じがしていた。そして、専用線につながる加越能鉄道加越線の旧井波駅は物産展示館となっている。場所はわかりにくく、しかも平日しか開館していないようだ。ただし、入り口を入ったところはバスの待合室になっていた。

旧井波駅舎

 その加越能鉄道加越線であるが、この名称から考えると越中と加賀を結ぶ鉄道としたかったようだが実現しなかった。戦後になって北陸線が単線未電化であったころに富山金沢間に高速電気鉄道として敷設しようと計画された。昭和29年5月に富山―金沢間に加越能鉄道金沢線として免許認可された。用地買収も進んでいたが、北陸線の複線電化や用地高騰による買収困難化により幻に終わった。買収された一部分はサイクリングロードとなっている。金沢線を計画されているときに加越線も電化する計画であったようである。サンダーバードで富山へ向かっていると右側の窓から石動駅の手前で旧加越線の築堤が南へ向かっているのが見えていた。遊歩道か自転車道になっているようであったが、新幹線工事で消えてしまった。それから先は線路跡が残っているようである。そういえば射水線が北陸線をオーバークロスしているところも同じく新幹線工事で今はない。

 まもなく富山は桜と残雪残る立山連峰が一緒に見られる季節となる。

  越ノ潟へ行ったらついでにあっちこっち見に行ったらええがや!

「いい加減な電車」の写真があったやちゃ。よかったら越ノ潟へ行ってこられ。」への9件のフィードバック

  1. どですかでん様
    名解説ありがとうございます。貴殿が越中国をすみずみまで巡られていたことがよく伝わってきます。頂いたコメントをもとに ネットで調べてみると庄川水力専用線のことがよくわかりました。加越線終点の庄川町(青島町)からそのまま庄川上流方向に専用線が延びていたと想像していたのですが、Tの字型に下流方向にも砂利線があったのですね。かつて庄川峡は黒部と並ぶ一大観光地だったこと、インクラインと流木争議など興味深い地域ですね。地方出版社から刊行されている本にはすぐれた鉄道図書が多いですね。桂書房はまだ調べていませんが、高樹屋と言う本屋からも鉄道図書がでていることもわかりました。砺波平野をゆっくり巡ってみたい気分です。ありがとうございました。

    • 西村様
      コメントありがとうござます。西村さんの投稿を見て専用線のところをじっくり読んだ次第です。実は専用線についてはあまり気にしていなかったのですが、今回あらためて調べたりしてみると砺波平野をめぐる鉄道の当時の位置づけがよくわかりました。幻の加越能鉄道金沢線が砺波方面から金沢へどのようなルートであったのかも興味があります。砺波平野には井波、福光、城端、福野などのいい町があります。福光は版画で有名な棟方志功さんが疎開していたところで、疎開生活をしていた家があります。私も再び訪れてみたいと思っています。

  2. 懐かしい越中弁が出てまいりました。呉羽山を境として東が正統で、西は田舎弁(呉西言葉)で汚いと言われました。「そやちゃ」「こらーれ」は正統派だと言っていました。老人は「おらっちゃ」という言葉が気に入り頻発、旦那や須磨の大人から「おらっちゃ」の綽名を頂戴しました。
    加越線終点から川に向かって少しレイルが伸びており、右折したところに料理旅館がありました。師走の中頃、暮れのボーナス支給となり、福岡町から石動経由で先の料理旅館に泊まりがけで忘年会となり出向きました。着くなり皆さん飲み助、麻雀族に分かれて大騒ぎ、老人は隣の部屋で一人さみしくペンを走らせていました。何かといえば、鉄道ピクトリアル「京阪電鉄50年史」の原稿でした。昨年春に刊行されたアーカイブース25号に再掲載されたもので、ちょうど700型ロマンスカーのところを書いていたことを思い出します。5時半になって「沖さんやめろや!」となり、呑み助の連中に加えて貰いました。翌日、下宿に帰るや続きを書いて校正なしで郵便局から速達で投函しました。1961年12月の話です。
    いい加減な電車のプロトタイプとなった富地鉄軌道線7000型と庄川開発時の成れの果て電気機関車のフィルムは、1961年5月撮影のものが残っている筈ですから探してみます。
    「草卓人著・富山廃線紀行」なる書籍は、明治20年頃からの新聞記事を集めたものでなかなか面白い。3年ばかり前、丸善、じゅんく書房が大阪梅田茶屋町で新規開店した時に立ち寄った折に1冊見つけ購入した。約30ミリ厚でB5版3/4ぐらいの大きさである。4,000円ぐらいしました。その後見かけないので絶版かもしれない。読んでみたいと仰るなら郵送しますから連絡下さい。

    • 乙訓の長老様
      コメントありがとうございます。富山市を中心に生活をしていたので呉東言葉の富山弁に囲まれていました。長老様は福岡町におられたようですが、私も福岡町にはよく行きました。ここに安藤忠雄さんが設計した「福岡ミュゼカメラ館」があって写真展をよく見に行きました。ここで一度入江泰吉さんの写真展がありました。当然ですが奈良の風景写真や仏像、お寺、文楽の写真でした。それと福岡町は雅楽が150年ほど前から伝承されています。社寺とは関係なく民間の愛好家で伝承されているのは素晴らしいことだと思います。ところで「富山廃線紀行」の本が4000円ぐらいしたと知りびっくりしています。私は富山の本屋で税抜きで1800円でした。2008年7月16日初版発行となっています。国立国会図書館に本館、関西館に蔵書されているようです。

  3. どですかでん さん。草 卓人編「鉄道の記憶」と言う書籍です。桂書房、2006年2月20日発行
    定価:本体3,800円+税となっています。707ページ、厚3.25ミリ、181×20.9ミリ大です。老人は463ページまで読んで一服状態となり書棚の飾り物となっています。お読みになりたいなら送ります。読んだら返却が条件。草葉の陰に入るまでに残る464ページ以降を読みたい。

    • 乙訓の長老様
      さっそく、本のことについてコメントいただきありがとうございます。著者が「富山廃線紀行」と同じですが違う本のようです。この「鉄道の記憶」はまだ桂書房のHPで調べると在庫があるようです。また大阪府立図書館にも蔵書していることがわかりました。分厚い本のようですね。私はいつも知りたいところだけ読むという読み方です。いま、興味があるのは福野から金沢へのルートを計画していた「金福鉄道」や戦後になってからの未成線である「加越能鉄道金沢線」の砺波から金沢までのルートです。この辺のところは記載されているのでしょうか。よかったら着払いでもよいので送っていただければと思っています。

  4. どですかでんサマ
    加越能鉄道金沢線(加越新線)については、何を隠そう、当方が編集を担当しましたJTBキャンブックス「鉄道未成線を歩く 私鉄編」に詳しく載ってますよ。途中の未成線は道路として残っているようです。

  5. どですかでんサマ、承知いたしました。本日、京都室内装飾協同組合から貴兄宅宛に贈ります。
    加越能とは別に。富地鉄では水橋を基点に東へ新線建設計画を目論でいました。上市折り返しを防ぐためで、富山から水橋へは北陸線沿いとあっただけで、当時の新聞には詳細掲載は無かったと思います。

  6. 総本家青信号特派員様
    加越能鉄道金沢線のことが載っている本を教えていただきありがとうございます。近くの図書館に蔵書されているので近々調べに行こうと思っています。
    乙訓の長老様
    さっそくの送付ありがとうございます。しばらくお借りいたします。ところで「贈ります」と書かれていたのでまさか贈与でないと思いますので読み終えたら返却いたします。ご安心ください。
    ところで本投稿で以前の投稿と同じ写真がありました。できるだけ未公開のものを選ぶのですが今回はダブってしまいました。これからもあるかもしれませんのでご勘弁を。

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