湯田中駅前の「楓の湯」でひと休みしてから活動開始です。まず旧湯田中駅の見ることにしました。これは有形登録文化財になっています。訪れたときは雛祭りの季節なので段飾りの雛人形が飾っていました。
建物の中ではこのように雛人形が飾っています。
天井にある扇風機、アーチ型の窓が趣きがあります。
下の写真は1971年2月21日に撮影した湯田中駅です。駅としては現在使用していませんが、まだ使われているような感じがします。上下の写真を比較するとうまく旧駅舎を保存されています。
現在の湯田中駅ですが、最近の新しい駅舎というよりは昭和の時代を感じさせる駅です。
信州中野行電車の車内から見た旧湯田中駅駅舎です。まだ、駅として使っているような印象を受けました。須坂で屋代線の接続に時間があるので湯田中に来るときみた長電電車の広場を見るために小布施駅で降りることにしました。
小布施駅の側線の部分に腕木式信号機とともに車両がぎっしりと並べてありました。写真が撮りにくい状態ですが、何とか工夫して撮るしかありません。扉を開けて中にも入れましたので、内部の撮影もしました。特に電気機関車には興味があり、機械室部分も撮影しました。
機関車の運転席から見ると今でも動きそうです。
機関車の運転席の後と機械室です。これらを見ると技術の歴史を感じます。
機関車の後においてあったデハニ201の室内です。運転席が真ん中にあります。内部は物置状態です。
デハニ201の客席側です。シートが破れて悲惨な状態です。そして、次にモハ1003電車の運転席です。
各電車の顔の部分です。それぞれ個性があって面白いものです。
須坂駅に戻り、松代に向かいました。松代は江戸時代から明治時代まで真田家の城下町であったために、六文銭の里といわれるゆえんでしょう。関西の方も「真田の抜け穴」また九度山の「真田庵」などなじみがあるので六文銭と聞くと身近に感じます。
松代駅の裏側にある松代城址へ行く道から駅全体を見たところです。側線があり、大きな駅です。
ごらんのように現在は使われていませんが、ポイント切り替えレバーが残っています。木造駅舎といい、昔の駅の博物館とのようです。ここに古い電車や機関車を配置して鉄道博物館のようにしたら面白い観光施設となると思います。城跡がすぐそばにあり、また池田満寿夫記念館もあり、人を呼ぶにはいいと思うのですが。さて、屋代線廃止後はどうするのでしょうか?
童謡も「汽車ポッポ」の作曲者の草川信氏は松代の出身ですので松代駅前にその記念碑がありました。
屋代から来た須坂行きです。大勢の人が電車を待っています。3月31日で電車が走らなくなるので乗客が多いのでしょうか。例によって地元のおばさんに電車が来るまでかつてあった松代群発地震のことなどを聞きました。松代群発地震より中越地震が発生した時の方が怖かったそうです。
電車にはいつになく多くの人が乗っています。若い女性運転手が乗務しています。次は信濃川田駅で下車することにしました。
信濃川田駅を発車する屋代行です。電車の右にある木は桜でしょうか。桜であれば、花が咲く時には電車は走っていません。
次に綿内駅に行くために須坂行電車を待ちます。ホームいる人たちは屋代線の名残りを惜しむために来ている家族連れです。子供たちが電車の写真を撮っていました。
この綿内駅でも子供が電車を見に来てました。そして、ホームへ駆け抜けていきました。
夕方の5時45分ごろになると帰宅する人が少ないですが電車に乗っています。電車の写真を撮る人は少なくなりました。
屋代行の電車が出て行きました。17時55分に須坂行の電車が来ます。この電車で須坂から長野に行くことにします。
松代の方から須坂行の電車が来ました。待合室には乗客が一人待っています。いつもの屋代線綿内駅の情景でしょうか。
長野電鉄屋代線はすべてがゆっくりと時間が過ぎる鉄道という印象をうけました。今回、この鉄道を訪れてよかったと思いました。この鉄道は寿命を全うしたのだと思います。