蒲原鉄道保存車両モハ1のこと

  以前にNHKの番組で録画した「思い出の鉄路 本州編1」を久しぶりに見ていた。順番に南部縦貫鉄道、小坂鉄道と見て、そして蒲原鉄道になってから現在の保存車両が写っているのを見ていると、どうも「信貴電の不思議 改訂版」で紹介した信貴電のデハ51とよく似ているのに気がついた。映像を戻し、一時停止してよく見てみるとやはり似ていた。デハ51の絵葉書と見比べてみたが、ドアと窓の配置と数が同じであった。見た感じの大きさも同じのように感じた。保存車両がモハ1となっていたのでインターネットで検索してみるとこの蒲原鉄道モハ1について投稿記事が多くあり、新潟県加茂市の文化財として県内最古の木造電車として加茂市の所有として保存されていることがわかった。蒲原鉄道のモハ1は全長11.455m 定員66名 自重20.03tである。信貴電のデハ51は信貴生駒電鉄社史の車両一覧で全長11.40m 定員65名 自重12.9tとなっていた。全長と定員についてはほぼ同じであることがわかった。

 大和川鉄橋を渡る生駒線の電車

 ∧ かつて信貴電のデハ51が走っていた大和川橋梁を望む。

信貴電デハ51は北大阪電鉄(現在の阪急千里線)のデハ1形(新京阪P1)として大正10年3月に梅鉢鉄工所製で8両製作されたものの中から信貴電に売却されたものであることが知られている。そして、蒲原鉄道のモハ1はインターネット上の投稿記事からまとめてみると当初はデ1、2の2両あり、保存されているのはデ2が倉庫として使用されているのを復元改修して現在の状態で保存されているということである。この電車は大正12年(1923年)に蒲田車輌製作所で製作されたとあった。さらに、この電車は目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄の前身)の大正11年(1922年)汽車製造合資会社で製造されたデハ1形と寸法がほぼ同じとあった。そして信貴電デハ51と全長がほぼ同じということは・・・?

 デハ53号電車

∧ 再び信貴電デハ51形53号電車の絵 (信貴山下駅に停まっている絵葉書より作成)

 さて、蒲原鉄道デ1,2(現在の表示形式モハ1)、目黒蒲田電鉄デハ1、北大阪電鉄デハ1形の三つ巴の関係はいかに?まったく関係なく、たまたまに同じようなものがほぼ同じ時期に偶然存在したのか?それとも、なんらかのつながりがあったのか?名探偵金田一さん教えて~

蒲原鉄道保存車両モハ1のこと」への9件のフィードバック

  1. 蒲原のデ1型は倉庫に転用された直後(1959年9月)に見たことがあるが、三角屋根がかぶさっており原型は分からずじまいであった。廃線10ケ月前に3度目の訪問をしているが、この時は屋根の多いが取られ車体原型がわかるようになっていた。いま言われているようにどこかの設計(デザイン)盗用のように見える。プロトタイプは阪急37型となる。これの同型車が40型であり、北大阪電鉄1型(8両)も同型だといわれている。このうちの3両が信貴電にいった。紹介された通りである。これとは別に水間鉄道にも同型車が2両あったことを、藤井信夫さんが紹介された。
    以上が関西での同型車の話で、これとは別に東急の黎明期、目蒲電鉄にもほぼ同型車1型10両があった。蒲原の1型2両はこちら、関東勢をルーツにしているのではないかと思われる。
    老人は関東のことはよく知らないが、池上電鉄にも同型車があったようだ。このあたり哲男君がよくご存じと思うのでバトンタッチしたい。
    池上電鉄以外の同型車の共通点はブリル76Eを装着していたことで、池上電鉄は村田式台車であったのではないかと思っている。この台車の納入先の一つに信貴電がある。信貴電最初の車両に村田式をつけていたことが高山禮臓がどこかで紹介されていた。ここで「どですかでん」氏よ信貴電最初の車両の詳細はまだ紹介されていないように思う。ぜひ取り組んで欲しい!

  2. 先のコメント3行目、「屋根の多い」とあるのは「屋根の覆い」のことである。スンマヘン!

  3. 老人の師匠の一人である高山さんを、呼び捨てにした非礼を恥じている。他意はなく、ただ指が滑ってしまっただけの事である。ごめんなさい。

  4. 乙訓の老人様 コメントありがとうございます。 コメントを読んで少しばかり調べてみると芋づる式にだんだんと深みにはまっています。コメントの中にあった阪急37型、40型と北大阪電鉄1型そして水間鉄道の同型車、はじめて聞いた村田式台車をキーワードに調べてみますとおぼろげながらにわかってきましたが、もう少し調べて、わかったことを整理しないと支離滅裂になりそうです。ただし、私が現時点で推理するとどうも蒲原鉄道モハ1の先祖は阪急37型、40型、北大阪電鉄1型ではないかと思っています。各電車の製造メーカーと製造年から推理するとそのように思いました。信貴電の開業当初の車両は社史によるとデハ100形で、これについては吉川文夫さんがピクトリアルに記事にされているようです。とにかく、もう少し時間をかけて調べてみたいと思っています。

  5. どですかでん様

    蒲原鉄道のモハ1は、鉄道廃止後「ぶんしゅう旅日記」に名前が出てくる丸谷さんと村松を訪れた時、バス部門の責任者の方から保存のお話をお聞きして驚いたものです。車内を見せていただきましたが、雨曝しではなかったため意外に良好な状態でした。その後、保存地の「冬鳥越スキー場」運ばれ、現地で整備され、元西武のモハ61、ED1と共に保存されています。私は未だ現地を訪れたことがなく、雪解けを待って訪れる予定にしています。

    時系列に見ますと下記のようになると思います。
    阪急(当時は阪神急行電鉄)37形大正10年3月梅鉢鐵工場。40形大正12年10月藤永田造船所。
    北大阪電気鉄道1形大正10年3月梅鉢鐵工場。
    水間鉄道デハ3形大正13年12月汽車会社。
    目黒蒲田電鉄デハ1形大正11年12月汽車会社。
    蒲原鉄道デハ1形大正12年7月蒲田車輌製作所。

    阪急37形と北大阪電鉄1形は実質的に同形。目黒蒲田電鉄デハ1形は、開業時に小林一三氏から「大きな輸送量が見込めないので大型車を導入すべきでない」と言われたことにより、阪急と同形車を導入。(小林一三氏は目黒蒲田電鉄の役員を兼務していた)
    蒲原鉄道デハ1形は、同社が目黒蒲田電鉄デハ1形と同形車を発注したと言われています。
    蒲田車輌製作所は車両メーカーではありましたが、資金力のない中小鉄道会社からの発注を受けて製作し、割賦で高金利を上乗せして販売していたと言われています。

  6. DRFCの真打登場で、蒲原鉄道デ1型のこともわかってきたようだ。1999年1月に村松に行きました。これが3度目で、写真を探してみたら出てきた。屋根を背負ったままであるので、覆いを取った姿を見たと言うのは「嘘のタコはっちゃん」ということになる。図面にも心当たりがあり探してみたらアテネ書房の復刻版で蒲原の車体組み立て図の一部、並びにレイルロード(高間恒雄氏)発行の東急電車形式集では目蒲電鉄で組み立て図の一部が掲載されている。2つを比べてみるとよく似ている。蒲田車両は哲男君紹介の弱小メーカーで、これらの図面をどこから入手したのか、大手メーカーの下請けをしたときに入手したのか、どうなんだろうか。ところで阪急37型の組み立て図については心当たりなしである。新京阪1型については奥野師匠の形式図のコピーがある筈。一昨年夏から「玉手箱」の整理に着手したが、ここ半年ストップしたままで、ひっくり返っているから探さないと出てこない。京阪大津線1型は廃車直前の1958年12月に錦織で撮ったのがある筈だが、例の八つ橋NEOPAN SSだからどうなっているのだろうか。富士カメラ店に聞いてみよう。

  7. 藤本先輩 時系列に整理いただきましてありがとうございます。梅鉢鉄工所は後に帝國車輌から東急車輛へと変遷していることや阪急の創業者小林一三氏が目黒蒲田電鉄の経営にかかわっていたことからたぶんつながっていると思っています。そして、蒲原鉄道と同じような中小鉄道の信貴電も開業当初の車両発注は社史によると日本電機車輌株式会社(これがちょっとわからない。)に発注したが大正9年の恐慌で閉鎖され、自社製作したとあります。資本力の弱い地方鉄道は同じような立場であったのかと想像します。新潟県と奈良県の鉄道が同形車でつながっているのも何か不思議な縁を感じます。ところで、信貴電の開業当初の電車は鉄道史料098号に記事があるようで、これも図書館で調べてみたいと思っています。昨日、近くの図書館で信貴電の社史を調べていると開業当初のデハ100形と思われる電車がチラッと写っている写真がありました。これが本当にデハ100形なのか調べてみたいと思っています。そして、私も新潟に行ってみたいと思っています。ところで、このコメントを入れようとしたら乙訓の老人様よりコメントが入っていました。乙訓の老人様も書かれていますが蒲田車輌製作所がやはり気になりますのでネットで検索していますと、玉川電気鉄道の車両に蒲田車輌製作所製があることがわかりました。そうすると、つながっていくことになります。実際にはいろいろなことがあったのでしょうが、このへんのところは文書には残らないのではと思います。関西汽船別府航路のくれない丸とむらさき丸が同時就航のために新三菱重工神戸造船所と浦賀船渠の2ヶ所で建造された時、関西汽船が図面を貸し出したということを次男坊から聞きました。蒲原鉄道デハ1にもなんらかのやり取りがあったのでは勝手な想像をしています。ところで、最近はコメントが入りにくくなって文章が消えたことがありました。それでワードで作成してコピーし貼り付けています。また、同じ文章を打ち込むのがめんどくさいので。

  8. 鉄道資料の1~100号は老人の玉手箱から総本家氏に移管したから、連絡して該当ページをコピーしてもらえばよいと思いますよ。老人も探し当てたものをコピーして送ります。私の撮った写真、または引いた図面なら胸を張ってデジ青に投稿するが、他人様のものは了解得られたら良いけれども、出版物は注意が必要です。お互いに気をつけましょうね。現在蒲原のデ1型が安住しているところですが、明日友人に聞いてみます。また蒲原鉄道については京阪電車の寺田祐一氏が「ネコプロダクション」から昨年、上梓しているからご覧になるとよいと思います。廃止になるまでの4半世紀の記録が紹介されています。

  9. 乙訓の老人様 本日、送っていただいた資料が届きました。ありがとうございます。私も吉川文夫さんがピクトリアルに書かれた「信貴生駒電鉄開業時の車両101形を探る」の記事をコピーしてきました。資料をあれやこれや調べているとどうもわからないところがあって、どうしても「日本電機車輌株式会社」のところで引っかかります。何とかしてこの会社を調べたいと思っています。ところで、社史の写真にチラッと写っていた電車は開業当初のデハ100形であることがわかりました。また、この記事に載っていた絵葉書の写真から現在の大和川橋梁の橋脚は建設当初のものとわかりました。もう少し調べてみようと思っています。

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