ヘルプ#3 画像の投稿

1.写真を投稿するには、投稿画面の「メディアを追加」の右にある額縁アイコンをクリックします。

「メディアを追加」の右のアイコン

2.「アップロードするファイルを選択」をクリックします。

3.投稿したい画像ファイルを選択し、OKをクリックします。
対応しているのはファイルサイズが2MB以内のJPEG、PNGファイルです。
自動的にリサイズされるため、解像度の指定はありません。

4.任意で画像のタイトル、キャプションを入力します。
「画像のタイトル」は管理画面のメディアライブラリー(アップロード済み画像一覧)で使用される名前、「キャプション」は投稿に挿入された画像の下に表示される説明文です。

画像のタイトルもしくは注釈を入力。

画像のタイトルもしくは注釈を入力。(画像の下に表示されます。)

5.「投稿に挿入」をクリックします。

ボタンが下の方に隠れていることが多いため、見当たらない場合は下へスクロールしてください。

5.カーソルの位置に写真が挿入されます。

画像の挿入位置はマウスで画像をドラックすると変更できます。画像を右クリックして「切り取り」で挿入したい所で「貼り付け」でも移動できます。

挿入した画像を削除するには、画像をクリックしてDELキーを押すか、画像とその周りのグレーの領域をマウスでドラックしてからDELキーを押してください。

‘08孫の運動会に行ってきました

昨年に続き、茨城県笠間市立友部小学校の運動会に行ってきました。以下は、その時の成果です。 

 1.真岡鉄道、2120レと6001レ、西田井駅、’08.09.20、撮影:小6T   

 2.同、6001レ、同所、同日、撮影:小6T        

 3.同、6001レ、笹原田-天矢場間、’08.09.23、撮影:小4K       

4.同、6002レ、市塙駅、’08.09.23、撮影:小4K       

今回はお爺さんの写真に良いのがありませんでした。その代り、行きがけに寄ってきた、大井川鉄道です。
 5.大井川鉄道、101レ、福用-大和田間、’08.09.19      

(未承諾広告)その他の写真は、以下のページでご覧下さい。
真岡鉄道
 http://kabutogoe.web.fc2.com/mooka/mooka.html

大井川鉄道
 http://kabutogoe.web.fc2.com/ooigawa/5251.html  

(お節介なお知らせ)
来る1014日は、言わずと知れた鉄道記念日です。NHKFM放送では、前日の1013日(祭日)、『今日は一日鉄道三昧』を放送予定。時間は、午後1時から午前1時までの12時間。リスナーのリクエストで、鉄道唱歌、オネゲルの『パシフィック231』を始め、鉄道効果音も聞けることでしょう。ソニーのテレコやアカイのオープンリールが今も活躍する前期・後期高齢リスナーにとって必聞です。

天然色写真で巡る40年前の九州 (3)

(3)煙の聖地、筑豊・若松

広島から夜行列車で九州入りし、まず筑豊で撮影を開始する。
筑豊炭田を背景に、筑豊は蒸機の一大集積地として知られていた。
出炭のピークは昭和30年代の後半であり、年を追って出炭量は低下していたが、それでもなお石炭は、基幹エネルギーとして日夜採掘され続けていた。
石炭を動力とする蒸機もまだ全盛の時代であった。筑豊本線を例に取ると、DL牽引は急行「天草」のみ。普通列車にはDCも相当数入ってはいたが、あとの客貨はすべて蒸機の牽引であった。しかも、C55、D50、60と言った形式がゴロゴロしている。

石炭の輸送手段は、鉄道と船になるが、その船への積出港として、賑わっていたのが筑豊本線の起点となる若松だった。
若松は、北九州市のなかでは、門司、小倉、戸畑、八幡の区からは洞海湾のひとつ隔てた地にあり、北九州市の繁栄から一人取り残されてきた感がある。
それだけに、石炭と鉄道で気を吐いている若松へは好んでよく訪れた。多くは折尾経由で向かったが、ある時は、若戸大橋を歩いて渡り、ある時は、洞海湾を渡船に乗って、戸畑から若松へ向かったものだ。
構内は網の目のように側線が走り、ハチロクが石炭車の入換えに忙しい。若松機関区は筑豊本線の中枢区として、多くの蒸機を擁してきた。一歩駅を出ると、凸型電機に牽かれた若松市営軌道の貨物列車が、繁華街の併用軌道を行く、と言った鉄道光景が繰り広げられていた。
構内で形式写真の撮影に熱中していると、突然、発車の汽笛が聞こえ、若松発の列車が迫ってきた。あわてて、モノクロ、カラーを取り出し、カラーは片手撮りで写した。門鉄デフのC5546が盛大な煙を吐いてきた。
高校2年生のときに初めて訪れて以降、筑豊へは何度行ったことか。それだけに筑豊の盛衰を見守ってきたという自負もあるだけに、石炭産業が途絶えて以降の筑豊の凋落振りは信じがたいほどだった。
いまは、広大な構内はすべて撤去され、跡地には集合住宅が林立している。駅は、ホーム一面二線だけの簡素な終端駅になった。洋風の駅舎もなくなり、プレハブのような簡易な駅舎になった。石炭の面影が微塵も感じられない駅周辺で、唯一駅前に保存された石炭車が辛うじてかつての繁栄をとどめている。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-4


マン島鉄道その4


翌日は天候芳しからず、しかも雨衣を着ても寒いが、ともかくダグラス駅へ。日曜日だがさして多くない客を乗せ列車は発車。一度乗ってみたかった側戸式(完全コンパートメント)客車を選んだ。そのうち半端でない吹降りに。

左側の客車は側戸式ではない

吹降りの中での側戸式客車となると、忘れがたいシーンがある。日本では1952年公開されたフランス映画「肉体の悪魔」(Le Diable au Corps)で、原作は14歳で人妻と不倫し、17歳でその体験を長編小説に、20歳で死んだ早熟の天才作家レイモンド・ラディゲの文芸作品だからお間違いなく。

25歳のジェラール・フィリップが17歳の高校生を演じ、人妻と列車で逢引。吹降りの中、カッパで身を固めた車掌が検札に来るのだが、側戸式だから車体裾のステップを、窓下の手すりを伝って、なのである。車掌の業務とは命がけだな、と心底感心した記憶が鮮明である。
美しいキャッスルタウン駅

天気はやや回復してキャッスルタウンで離合。機関車、客車駅舎を含めた鉄道全体が溜息が出るほど綺麗で、すべてグレードが統一されている。ここでもジョン・フォードが4回目のアカデミー監督賞を得た「静かなる男」(The Quiet Man)での列車シーン(舞台はアイルランドだが)を思い出す。
我国での「あそBOY」の86が何ともけったいな煙突キャップに似非ダブルルーフ軽量客車を牽引していたりするのと、根本的な差異はどこから来るのだろうか。消防法=万一事故があった際のマスコミの非難なのか。

駅舎の右壁、二つ並んだ海老茶色の扉は便所。隣接した建物内では、ボランティアが黙々と客車の鎧戸を修復していた。建具か指物の大工らしい。線路両側は先回も書いたように必要以上厳重な生垣で、駅構内以外横がちに写真を撮ろうとすると、この程度で我慢しなければならない。

無人自動の踏切もご覧頂いておく。列車が近づくと線路を遮断していた柵が90度回転して道路を閉鎖、列車が行ってしまうと元に戻る。

木製の古いコンテナがフラットカーに積んで保管されていた。これが本土やアイルランドなどと行き来していたのであろうが、懐かしかったのが車側ブレーキ。突放入換時、側面にぶら下がった連結手がこのレバーを踏みながら制動距離を調節し、最後にピンを差し込んでロックする。日本での末年はラチェット式に改良されていたが、2軸貨車そのものを見なくなって何年になるのだろう。


最後に初回入れたマン島イラスト地図が見にくいとのことで、ENCYCROPADIA OF NARROW GUAGE RAILWAY of Great Britain and Ireland から借用した鉄道地図を入れ直しておく。ダグラスから北西へピールへ、その手前セント・ジョンズで分岐しフォックスデイル、東海岸のラムゼイに至る線は同じく軌間3フィートだったが現存しない。
また先回木骨芸術品のところで、グレートウエスタン鉄道R.E.C.ディーゼルカーと書いたのは、A.E.C.の間違いでした。謹んで訂正します。

天然色写真で巡る40年前の九州 (2)

電化前の呉線

昭和44年3月7日、九州へ向けて出発した。大学1年から2年にかけての春休みで、例によって均一周遊券を目いっぱい使って九州を駆け巡り、次第に姿を消そうとする蒸機を撮りまくろうという目論見である。
九州は高校生時代に2回行って、ほとんどの機関区を巡り、形式写真を撮影をしているので、今回は、駅間の撮影地を採り入れた旅となった。
と言ってもいきなり目的地へ向かうことはしない。当時は“行きがけの駄賃”がいくらでもあった。今回は、電化間近の呉線へ行くことにし、夜行列車で西下、糸崎で下車、区で夜間撮影ののち、早朝の呉線安芸幸崎に着いた。
呉線は地図では海岸沿いを走っているが、実際行くとなかなか海沿いは見つからない。そんななかで、安芸幸崎~須波間は海岸にへばりつくように走っている。なかでもちょうど中間地点付近は、ミカン山になっていて、高低も自由に変えられ、背後には波穏やかな瀬戸内海を入れることができる。地図で見ると、江若の模型作りで名高い西村雅幸さんの自宅は、ここから山ひとつ越えたところのようだ。
山陽本線が完全電化後も、呉線にはC59、C62が残り、大型蒸機の競演が見られた。山陽本線のセノハチの勾配を回避するため、沿線人口の多い呉線経由の優等列車も多かった。東京~広島間の「安芸」はその代表的列車で、この年からは、急行としては異例のヘッドマーク付きの蒸機牽引となった。しかし、昭和45年10月完成を目指して電化工事が始まり、この区間でもポールの建植が始まった。やってきたのは、3両だけ残ったC59の牽く京都発鳥栖行の1043荷物列車であった。
このカラーを撮影後、三脚の撤収中にカメラの取付けネジをうっかり落としてしまった。周りをいくら探しても見つからない。このネジがないと三脚は、単なる伸縮する3本の棒になってしまう。結局、初日からして、無用の長物をずっと持ち歩くことになり、いささか気の重いスタートとなった。

C59164の牽く荷物列車
 
C59164の牽く荷物列車

CRHの旅Ⅱ Part5 T16北京西駅へ

大地を北へと向かう静かな走行音だけが聞こえる朝を、車中で迎えました。午前6時過ぎ、朝雲からのわずかな陽ざしが見える車窓は、1面のとうもろこし畑が広がっていました。

 

途中からの乗客もなく、私だけの個室だったようです。洗面を済まし、餐車が営業を開始する7時まで、淡々たる風景が続く車窓をうっとりと、過ごしました。

 さあ、今日の菜単は、何かなあと期待して餐車(食堂車)に向かいました。まだ誰も来ていません。餐車乗務員が、テーブルに座って、菜単票に手書きで、朝の菜単(メニュー)を書いています。

 3種類の菜単です。迷わずお粥と目玉焼きがのった焼きそばを注文しました。20(32)です。菜単は、毎日変わります。バイキングの時もあります。各列車のコックによって、任されているそうです。 続きを読む