記憶の中の京阪電車 (2)

京阪電車で、まず頭に浮かぶのは「特急」であろう。我々の世代が現役の頃は1900形の全盛期であった。1900形の特徴は、他社の特急車両に固定編成が多かったのに対し、各車単独車両で、自由に編成が組めた点であろう。それ故、○時の特急は「1新車5ピンク」だったとか「4新車2ピンク」だったとか編成そのものが話題になった。「特急」は京阪の看板電車であり、特急を利用できない乗客にとっては「よそ行き」の電車に見えた。私の場合は通学の6年間、通勤の2年間、自宅、通学通勤先の最寄駅共に特急停車駅でないため、急行以下のいわば「普段着」の電車を利用した。その頃の思い出を断片的ではあるが紹介して、同世代の皆様に「ああ、そんなこともあったなぁ」等と思い出していただければ幸いである。

1000系の珍編成

昭和43年10月10日、昼休みにBOXに行くと、京阪で通学していたA君から「宇治行で1100+1000+1200の3両編成を見た。1100と1000は同じ向きに連結されていた」という話を聞いた。午後から授業があったかどうかは忘れたが、直ぐに自宅に戻り、カメラを持って中書島に行き、暫く待つと、1202+1005+1107の3両編成が来た。こんな編成を見たのは初めてで、この電車で六地蔵まで行き、折返しの三条行きを撮影した。

中書島に進入する 1202+1005+1107の3両編成

1005と1107の連結面

木幡~六地蔵間を走る 1202+1005+1107

1107 

市電800形連結車

この日は次のようなオマケが付いた。自宅に戻るため中書島から市電(839)で伏見線を北上し、勧進橋まで来たところで、動かなくなり、乗客は全員降ろされた。暫くすると稲荷から来た(852)を頭に連結、先ほど降ろされた乗客を全員乗せて発車して行った。

当時の伏見線は昼間オール800形、ラッシュ時に500形が応援に入り、たまに600形が入った。最新の700形はまず入ることは無く、900形は正月、節分、初午の超繁忙期のみであった。

 

故障で立往生している⑱(839)の頭に⑲(852)を連結

⑱(839)を牽引して発車

旧満鉄のジテ

[880] 早川昭文氏投稿の3コマ目写真を要望書込をしたところ、田野城氏からお尋ねが出た。これは拙老に花を持たせようとの温かいお気遣いに違いないが、当方は待ってましたとすぐさま反応し、お誘いにのることにして以下の講釈を。

清朝の廃帝溥儀を傀儡皇帝として強引に満州国の建国宣言をしたのが1932年3月1日。南満州鉄道(以下「満鉄」とする)は1930年以来ガソリンカーを導入していたが、1935年に到り、一挙6編成1~6のディーゼル電気列車を登場させた。一端に500馬力ディーゼル機関と発電機、暖房ボイラーを搭載、手荷物室も備えた流線型ジテ、次いでロハフ、ハフ、他端にやはり流線型の端面を持つハフセの4両が固定編成で、ジテ、ハフセの端面側台車に計4個の150馬力電動機。ジテを除く客車部分は3車体4台車の連接式である。ハフセの「セ」とは制御室の意味である。

右からジテ+ロハフ+ハフ+ハフセ

6両中4両のジテにスルザー(スイス)製6LDT25、2両が新潟鐵工所製KD6を搭載し、同じ馬力(標準460、最大550)でも前者が4.2t、後者5.88tの中速(現在なら低速)機関である。定員は2等28、3等260、計286人、製造は6編成とも日車で、電気関係は1~4が芝浦、5、6は日立。

勿論これは我国及び満州国の国威発揚を目的とした猛烈な「背伸び」での大デモンストレーションで、鳴り物入りの華々しい登場ではあったが、運転整備132t、電動機が150馬力×4とあっては、そんなに速度が出るはずがない。定員乗車時の重量1t当り機関出力(馬力)で比較すると、登場時点の特急「はつかり」5.78、キハ43000系が3.88、キハ42000が4.69、キハ41000が3.86という数字になり、これに比しこのジテは3.42だった。江若キニ9~13ですら3.45、出足が悪くラッシュに使えなかった東京横浜電鉄キハ1~8が5.00だったのである。キハ42000はご存知東海道線の試験走行で空車だが108kmの記録(1935年7月16日)があり、キハ41000でも100kmに達した記録がある。

多大の期待を背負いながら、現実にジテが投入されたのは特急ではなく、大連-大石橋間の各停仕業=表定速度47.1kmの運行である。その後日本で出現したキハ43000系も機関の未熟と出力不足(上記数値は3.88)が主因でものの役に立たず、国鉄工作局エリート技術者はすべてを燃料事情に帰してウヤムヤに誤魔化してしまった。

なお満鉄と国鉄工作局技術者とは犬猿の仲で、国鉄側はキハ43000に期待をかけたはずだが、結局派手な試験をすると馬脚が表れると知った工作局は、ロクな走行テストもせずに、2両のキハ43000は戦災後浜松工場通勤客車代用に落ちぶれていた。中間のキサハ43500だけは電車の仲間入りし、飯田線で予備、最終キサハ43800→キサハ04301として関西線で生涯を終えている。

なお満鉄では1943年になって、2編成のジテ列車からハフセを外して背中合わせにし、かつ両端のジテの両台車を動台車として試験走行した。すなわち機関出力1000馬力、電動機1200馬力で、ジテは当然スルザー機関搭載車を選んだ筈である。この際は時速100kmを保てたのだが、あくまで試験に止まったのは、到底経済的に成り立つものではなかったからである。

そのジテ列車だが、中華人民共和国になって、ジテを捨て、両端を旧ハフセに、各車3扉と多客化改造し、撫順炭坑の通勤電車に化けていたのであった。ベンチレーターもグローブ式に替えられている。誕生以来実に73年が経過しているから、その長命ぶりというか、保ちの良さ、いや保たせの良さにはホトホト関心嘆息するほかはない。写真で見る限りそう荒れ果ててもおらず、面影は充分に残している。

最新! 中国東北部・韓国駆け足紀行

毎回、DRFC-OBの力作、歴史的遺跡調査研究、掘り出し物、最近のニュース、クイズ等々を拝見させていただいています早川昭文です。パソコン音痴で、米手作市氏、元祖青信号特派員氏並びに小西Jr氏にご教示を賜わりながら、苦手はどうしようもなく、ここに再度元祖青信号特派員氏に助けていただきました。内容は9月20~24日の中国東北部(旧満州)と韓国ソウルに駆け足撮影旅行した時の一部です。
写真1 2008.09.22 調兵山蒸機
中国特派員氏に刺激を受けて瀋陽郊外調兵山の上遊型蒸機を見に行った。ガイドしてくれたのはこの間まで立命に語学留学していた謝さんという若い女性。これは朝の風景だが久しぶりに煙のある活気に満ちた駅に懐かしさを感じた。
写真2 2008.09.22 王千蒸機
これは王千駅に停車中の上遊型蒸機1772号で、この後、2~3分運転をさせてもらった。動いていたのは3両で一部ディーゼル機関車牽引の列車もあった。
写真3 2008.09.23 ジテ
撫順炭鉱砿務局駅に到着した旧満鉄ジテ。最近は殆ど稼動していないと言う事で車庫にでも見に行こうとしていたら幸運にもやって来た。
京阪の複々線を行く流線型1000型を思い出す。この1本前に来た電車は綺麗に塗装され、車内にはテーブルが置かれ、花やご馳走が並んでいたが、大勢の幹部がこの駅で乗り込んだ。公安か職員か忘れたが撮影するなと言われた。

写真4 ハルビン路電
今回、大連では有名な日本製の路面電車を撮影。 他に長春にもあると聞くが今回は素通りして、10年前の厳冬期に訪問したハルビンの松花江を見に行った。この時ガイドにハルビンの昔の路面電車の話をしたら、路上に保存してあると言う。行ってみると結構往来の激しい路上に鎮座しており、この様な保存もあるのかと感心した。
ハルビンでは流線型の単車などが有名であったが、これは本当にハルビンを走っていたのか、何処で製造されたのか、定かではない。

12/6は中之島へ

先日、乙訓老人に引っ張られて、京阪中之島線の終点に聳え立つリーガロイヤルホテルを訪れた。ここで来たる12月6日(日)に「昭和と京阪電車とドイツの路面電車」と題する京阪中之島線開業記念の講座が開かれる。講師の名前を見てほしい。なんと我が乙訓老人である。
この日は、会場の下見をするために訪れ、帰路に「掲示板に載せといてくれ」とチラシを渡されたのである。講座の内容は、老人が三歳のときから京阪に親しみ、「将来は京阪の社長になる」と小学校の卒業文集にまで綴った、京阪への愛惜の思いを吐露し、合わせて電車の母国たるドイツの路面電車も加えた、絢爛豪華なスピーチとなっている。リーガロイヤルホテルと言えば、大阪を代表する格式あるホテルである。乙訓老人の品格と、ホテルの格式が見事に一致した、稀代の講座と言えよう。
大は数百人から小は2、3人まで、老人は多くの講演を経験してきた。ところが、それらはすべてタダであった。今回は、金3300円を徴収する有料のセミナーである。さしもの老人も構えが違う。まだ一ヵ月以上も時間があるのに、老人の顔には心なしか緊張感があふれていた。
3300円が惜しくない会員、あるいはヒマを持て余している会員、12月6日は中之島線に乗ってリーガロイヤルホテルまで足を運んでほしい。

昭和の京阪がよみがえる

おじん2人ヨーロッパ軽便その23-7

マン島鉄道その7 ダグラス馬車軌道とマンクス電気鉄道~リバプール

場所が前後して申し訳ないが、ダグラスの町の蒸気列車が発する高台から急坂を下ると海岸に出、そこから町の北端、ダービー・キャッスルまで、超高級・高級・一般ホテルや貸別荘が切れ目なく連なる海岸線沿いに1.6マイル(約2.6km)、軌間3フィート・複線のダグラス馬車軌道 Douglas Horse Tramway が伸びている。創業は1876(明治19)年というから古い。客車には屋根もない完全オープン車、2階のみオープン車など何種類かが車庫に収まっているようだ。


これは晴天用オープン客車

目隠しをされたたくましい馬が、それも結構な速さ―ギャロップで客車を引く。それも天候や気温で客車を使い分けているようで、オープンカーだったのが、天候急変で何時の間にか密閉式の客車に交換されている。その雨天用車だが、御者の部分は手綱を持つから妻面の風防はなく、向かって右方のみ、3枚窓が1/4円弧を描くようにして客室に雨が入らないようにしてある。



これが雨用車両で御者は雨衣を着ている。バックは高そうな、やたら古そうなホテル

その終点では、同じ3フィート軌間のマンクス電気鉄道と路上で接続する。開業は1893年9月7日で、1、2号電車はその創業以来の車両というから驚きである。勿論木製車体は部分的に木材を交換するから、現実に100年以上経過しているのは台枠、台車、主要電気器具などであろう。直接制御だがエアブレーキは備えている。

これは創業以来100年経過の1号電車。留置してあったオープン付随車を連結し、これから車掌がポールを回す

バックは貸別荘らしい

車体はスネイフェル登山鉄道も同様だが、赤・白に塗られた部分以外ニス仕上げ、乗降は妻面向かって左側から行う。随分長い車体だが、ポールは1本で、終点では車掌が回す。


スネイフェル登山鉄道との接続停留所

古風な石積陸橋

終点ラムゼイ駅

先回のスネイフェル登山鉄道のサードレール方式手用ブレーキの構造・動作が説明不足でさっぱり分からんとお叱りが。写真を撮っていないので、また 「The Railways and Tramways of the Isle of Man 」から借用してお目にかける。運転席で小さな丸いハンドルを回すと、ネジが菱型状の枠の頂点角度を狭め、下方のブレーキシューがサードレールを締め付けるという、到って単純(野蛮)な仕掛けである。

我々は2泊3日のマン島滞在最終日、猛烈な霧で撮影をあきらめ島を1周。こんな狭い島の、しかも通常道路でマン島自動車レースは行われているのである。空港でレンタカーを返却し、4発プロペラ機でリバプールへ。この飛行機では食事は出なかった。

リバプールは小規模でボロッちい田舎空港で、通常の路線バスが30分毎に空港にまで足を伸ばし、住宅地をぐねぐね曲がって45分かかって市内中心部へ着くのは、伊丹市バスと同じである。相棒=先達のツアコンが予約していたのは国鉄リバプール駅隣接のホテルで、窓から列車がバッチリ見える。これが気に入って、数日後再泊の際も同じ部屋番号を指定し予約。

夕食の外出時、河底トンネルを抜け東岸に渡る、狭く複雑でややこしく迷いそうな自動車専用道路を外周から視察し、一生懸命この標識で右に曲がって次を左に、と記憶し明日に備えた後とてつもなくでっかいビヤホールへ。ビールの銘柄が10種以上、夫々値段が違い、各銘柄専用の(当然だが)サーバーを備えたカウンターが何箇所もあり、皆の衆男女共大方は丸テーブルで立って飲んでいるが、こっちはやはり椅子がいい。エビフライナゲットがややこげ気味だったが意外に旨く、ビールを3パイントお代り。

天然色写真で巡る40年前の九州 (5)

日豊本線の撮影を終え、また夜行に乗り大分に着いた。早朝の到着のため列車に乗って時間を潰したあと大分区で写し、午後には中津にやって来た。中津からは守実温泉まで大分交通耶馬渓線36.1kmの路線が伸びている。山国川に沿って、青の洞門などの名所もある耶馬溪へ向かう鉄道である。
大分交通にはほかにも、日豊本線杵築から国東まで国東線が、同じく宇佐からは豊後高田・宇佐八幡へ宇佐参宮線が伸びている。3線とも非電化で、緑とクリームに塗り分けられた気動車には、それぞれ愛称が付けられている。現在、紀州鉄道に残るキハ603は、耶馬溪線用として昭和35年に製造され、同線の廃止後、紀州鉄道へ転じたものである。
さらに大分と別府を結ぶ軌道の別大線も大分交通である。もちろん出自は様々だが、戦後の陸運統制で大分交通に一元化された。その後、大手バス会社に成長した大分交通は、鉄軌道部門の経営意欲を失い、昭和40年には宇佐参宮線、同41年には国東線が廃止となった。この2線の廃止で、在籍していた車両のほとんどがここ中津の車庫に集められ、写真で見られるような光景が出現した。DCあり、客車ありと、すごい数の車両が車庫を埋め尽くしている。建屋の中にはクラウス社製の蒸機1444号機も保存されていた。

手前はガソリンカーを客車化したハフ16 2・3両目は木造Wルーフのホハフ101・102

客車は宇佐参宮の団体列車など波動用として多くを保有していた。ボキーあり、二軸あり、片ボギーありで、そのほとんどが木造車である。この時代でも、木造車は地方のローカル私鉄に辛うじて残っている程度で、これほどのズラリ並んだ木造車は、たいへん珍しい光景だった。しかも、訪問するつい4年ぐらい前までは、これら二軸車が現役で走っていたというから驚きで、今も整備状態も良く留置されている。ほとんどの車籍はなかったが、男子更衣室、女子更衣室といった札が各車両に掲げられ、有効に活用されている様子だった。
その後、この耶馬溪線も昭和46年に山間部の野路~守実温泉が部分廃止され、残る中津~野路も昭和50年に廃止、軌道の別大線も昭和47年に廃止され、大分交通から鉄軌道はすべて消えてしまうのである。

オープンデッキ、木造、Wルーフ、二軸のハフ27 新宮鉄道の開業時に造られ、鉄道省に買収された後、耶馬溪線に転じた

 

記憶の中の京阪電車(1)

10月19日、中之島線が華々しく開業し、関西在住のクローバー会の皆様の中には初日に乗りに行かれた方も多いのではなかろうか。私自身、京阪電車とは昭和35年4月から6年間通学で、昭和54年5月から2年間通勤でお世話になった。毎日乗っている電車は、いつでも撮影できると思い込み、結果的に撮影しないというのが通例と言われているが、私も例外ではではない。とは言うものの、肝心なことは忘れても、些細なことは意外と覚えていることがある。そんなことを時折思い出しながら書いてみた。

 天満橋行

中之島線開業の影で、天満橋発着の定期列車がひっそりと姿を消した。天満橋行の行先板が黄色であったことはよく知られているが、それ以前は通常の行先板の他に向かって右側に「天満橋」の円板を付けていた 写真は昭和39年9月19日土曜日、学校帰りに寝屋川車庫を訪問した時に撮影したものである。

当時、本線の昼間のダイヤは20分サイクルで、淀屋橋~三条間の特急、急行、普通各1本、淀屋橋~枚方市間の区間急行が1本、天満橋~萱島間の普通が1本であったと思う。朝のラッシュ時も基本的に20分サイクルで深草(一部八幡町または三条)~淀屋橋間の準急が1本、枚方市から先は、枚方市始発の急行が1~2本加わった。この急行は白地に赤文字の円板で、時刻表には「大急」と表示され、枚方公園と寝屋川市にも停車した。また、淀屋橋開業以前、枚方市始発の区間急行で、枚方公園、光善寺を通過するものが1本あり、枚方市を発車する時は「臨」の円板を表示し、香里園で正規の区間急行の行先板に差し替えた。 

 

 

 

1300形と1600形の整った4両編成、

 1301は昭和36年3月8日、樟葉駅大阪寄りの渡り線付近で発生した脱線事故復旧時に、雨樋の位置が若干高くなりスタイルが変化した。この事故は23時40分頃現場を通過した三条発天満橋行急行(1306+1657+1658+1301)が脱線、最後尾の1301が築堤から転落したもので、隣の1658との連結器が切れなかったため、宙ぶらりん状態となった。翌日の3月9日、いつも通り中書島7時9分発の急行(1203+1505+1204+512+511)に乗車すると、八幡町で事故による枚方市まで単線運転のため暫く停車、同駅の大阪寄りの渡り線をバックして上り線へ、そのまま枚方市に向けて出発した。樟葉の渡り線は事故のため使用できず、枚方市までの単線運転となったのであるが、列車本数が少なかったのでこのようなことができたのであろう。(車号は当時のメモによるが文字が消えかかっているため誤りがあるかも知れない)帰りは未だ復旧しておらず、枚方市~八幡町間はバス代行であった。ちなみにその3カ月程前にも橋本駅の八幡町寄りで脱線事故があり、この時は八幡町~樟葉間が単線運転であった。

その後、大きな事故に遭遇したのは、昭和55年2月20日の枚方市~御殿山間で発生した置石による脱線事故で、勤務先からの帰宅時であった。萱島から普通に乗り香里園で乗換えた急行がこの列車で、枚方市で座れて一息ついたところで急ブレーキがかかり、大きく2回揺れ、車内灯が消えて停車した。前を見ると電柱が曲がっているではないか。最後部に乗っていたので事なきを得たが、先頭車両に乗っていたらと思うと今でもゾッとする。電車から飛び降りて線路から道路に出て駅に戻ったが、バスターミナルは乗客で溢れており、高槻、茨木方面のバス、運転を始めた代行バスともに超満員でとても乗れそうになく、諦めて樟葉まで歩こうと思い、牧野まで来たところで代行バスが停まり、降りた人がいたので乗ることができた。樟葉からの三条方面の電車はオール各駅停車で、行先札は付けずに「臨」の円板を付けていた。

寝屋川車庫 

事故の話題になってしまったが、当日寝屋川車庫で撮影した画像を紹介する。

1807

 

 

1852

 

1307

601 

651

632 

1659 

309

310 

601の台車

651の台車

【参考】昭和36年頃、朝の中書島発下り電車の編成

 6時48分急行 1000(1100)+1500+500+1500+1000(1100)

7時 9分急行 1200+1500+1200+500+500  (後2両は700+700のこともあり)

7時28分急行 1650+1300+1300+1300+1650

普通は2分、22分、42分発、八幡町で急行退避

3両編成で1000(1100)+1500+1000(1100) が多かった。

準急は16分、36分、56分発、枚方市で急行退避

4両編成で 600+500+1500(160016)+600が多かった。 

何分にも半世紀前の話で思い違いがあるかも知れない。

CRHの旅Ⅱ Part7 京津城際鉄路 335km/h!

翌日は、中々乗車できないシーメンス社製の、CRH3の乗車を目指しました。

オリンピックのおかかげで、天津中心部から天津駅までの交通アクセスは、道路の拡張、橋の新設等があって飛躍的に早くなりました。以前、ラッシュ時は、タクシーに乗車して、30分ではとても行けなかったのですが、約10分で到着です。 続きを読む

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-6

マン島鉄道その5 SNAEFELL MOUNTAIN RAILWAY


マン電気鉄道がダグラスの東端(馬車鉄道と接続)を発し、ラムゼイに到るほぼ中間にラグゼイという町が川口から1.5kmほど引っ込んだところに展開しており、道路も電車も川の両岸を深い馬蹄形というか、U字型に迂回している。そのラグゼイからスネイフェル登山鉄道が分岐しているが、マン電気鉄道が軌間3フィートなのに、なぜか3フィート6インチである。どうせなら同じにすればと思うが、別段貨車がある訳でもなく、電車が直通もしないから、強いて同じにする必要もないのは確かではある。尤も建設時はマンクス・ノーザン鉄道の蒸気機関車の軌間を6インチ拡げて借り入れたそうだが。

例えばスイスのインターラーケン・オストからユングラウ・ヨッホへは、まず1000mm1500Vリンゲンバッハ方式ラックのベルナー・オーバーラント鉄道(BOB)、次いで800mm1500Vリンゲンバッハのヴェンゲルン・アルプ鉄道(WAB)、もう一度1000mm1125Vシュトルプ方式のユングラウ鉄道(JB)を乗り継がねばならないのに比べれば、何ということはない。

右はマンクス電気鉄道(軌間914mm)、左がスネイフェル登山鉄道(1067mm)

最初は蒸気動力で計画された由だが、1895年1月建設開始し、4マイル53チェーン(7.5km)の完工が8月というから驚きである。1/9(111.11‰)の急勾配だが、電車は粘着力だけで上れることが判明し、軌間中央に敷設されたサードレールは本来ロッヒェル式(水平両側ピニオン)の粘着版だったのを、下りのブレーキ用のみに使うように変更されたそうな。軌間に3フィート6インチを選んだのは、元来このサードレールの為なのであろう。同年12月鉄道全線は建設費を超える額で Isle of Mann Tramways & Electric Power Co. に、のち更に Manks Electric Railway Co.に売却された。

電車の窓上端は一見イスラミックで、しかも窓は左右引き違いと、木曾森林鉄道等、地元大工が作った客車並。集電器の形態が独特である。これでもビューゲルというんだろうか。外国電車屋さんの解説が欲しい。乗降口は妻面向かって左角で、ステップが2段ある。

外側は綺麗に塗装され、有名なマヨルカ島の電車のようにニス仕上げだが、車内は外ほどでなく、ダブルルーフの下屋根、間柱部分に相当の補強がされている。座席は木製=古い教会の椅子のようで、背摺りは古い米国の客車のような「一応の」転換式である。

上りだすとすぐ濃い霧の中に突っ込んで、速度は遅いがともかく上り続け。地図で分かるように、等高線を斜めに横切り、かなり思い切った路線選定だが、一度主要道路を横切る踏切以外景色は何も見えず。最終地点では621mの頂上をぐるりとほぼ一周して終点である。登山道は等高線と直角で、一気に上る。

頂上は天気さえよければ眺望絶佳の由だが、ご覧のように濃霧の中。折り返す間建物に入ると、嬉や、ビールのポスターが貼ってあるではないか。ところが飲み物はジュースの類だけとは、馬鹿にするにも程がある。責任者出て来い!といいたかったが、語学力の乏しさでそれも叶わず。ただただ辛抱して発車を待つのみ。

このクラシックな電車はエアブレーキが無く、ハンドブレーキのみ。それも急勾配区間は車輪の踏面ではなく、サードレールの左右を運転手の人力で締める。その構造は写真を撮り洩らしたが、到って素朴単純。濃い霧で車輪がスリップし、砂が無くなって運転手が顔色を変え、運転席を離れて客室内の予備砂を取りにいったのにはいささか驚いた。以前ご覧頂いたオーストリーはリンツのペストリングベルクバーン(105‰)電車のように、普通ならカーボンランダムブレーキやマグネットブレーキを備えるところだろうが、ユニークなブレーキ専用サードレール方式が、この電車のウリなのである。

ともかく無事下界に到着。ラグゼイの接続地点はマンクス電気鉄道と隣接だが、レール配置を控えるのを怠り、どうなっているのかよく分からん。サブロクと3フィートがあたかも接続されているように見えるが、当然そんなことはない。おじん2人+1人の1人氏は、万難を排し寸暇を惜しんで線路配置を克明にメモする特技と熱意の持ち主だが、このときはいなかった。


右スネイフェル登山鉄道、左マンクス電気鉄道

EF551 営業運転終了か

10月17日、JR東日本から冬の増発列車の発表があり、その中で、12月13日と14日に高崎~水上間に「さよならEF55みなかみ」、1月17日に上野~横川間に「さよならEF55碓氷」が運転されることが判明し、EF551はこの列車で営業運転を終了する見通しとなった。思えば昭和61年、長期休車から奇跡の復活を遂げ、以降イベント列車を中心に運転されていたが、ここ数年は運転回数が減少していた。また、平成16年3月25日から4月3日までの間、交通博物館の閉館記念イベントの一環として神田川沿いに展示され注目を浴びたことは記憶に新しい。

復活当初の画像から当時を振返ってみたい。

(1)   復活営業の一番列車

復活営業の一番列車は昭和61年7月25日に高崎~水上間で運転された「EF55復活記念列車・GOGOTRAIN」であったと記憶している。この列車を水上駅で撮影したが、EF55もさることながら、もっと感激したのは最後尾の戦災復旧3軸ボギー車「スエ7815」で、この車を見た瞬間思わず絶句した。当日の編成は次の通りであった。

EF551+スハフ422173+オハ472261+オハ472266+オハ472246+オハ472239+スハフ422071+スエ7815

 

 水上駅に進入する復活営業一番列車 昭和61年7月25日

折返しの上り列車 渋川~敷島間の利根川鉄橋

スハフ422173

オハ472261

思わず絶句した スエ7815

絶句したのは私だけ? 他の人はEF55に夢中

(2)   8月2日の列車

この日は最後尾の客車に「GOGOTRAIN」のテールマークが付けられていた。また、高崎機関区の一般公開が行われており、高崎到着後機関区で展示された。EF58172、EF15165、EF621、EF631、ED7539、EF8063等が展示されていた。

上牧~水上間を走る下り列車

上の列車の後部より(上牧は「かんまき」ではなく「かみもく」)

 

折返しの上り列車  上牧~後閑

高崎機関区にて

ターンテーブルで方向転換

(3)   8月6日沼津機関区

「東海道本線全通100年」の記念行事として行われた、沼津機関区の一般公開で展示された。他には、EF15184、EF538、EF6095、EF653、EF3017、DD161等と10月のダイヤ改正から運転される「するがシャトル」用の119系が展示されていた

沼津に出張  沼津はEF55の所縁の地である。

乙訓老人の誘いに乗って



乙訓老人の[668]「仙台市電あれこれ」で拙老にチョッカイが出た。すぐ反応するのは沽券にかかわるから、しばらく待とうかとは思ったが、そこがこらえ性なのなさ、軽佻浮薄、おっちょこちょい、ヒマなどで、すぐ古いアルバムを探すため押入を引っ掻き回し、後始末もしないまま、いそいそとスキャンに取り掛かったのであった。

秋保電気鉄道(1959年7月1日以降仙南交通自動車と合併し仙南交通は1914年12月23日軌間762mm、秋保石材軌道として、動力馬力で開業。名の通り石材搬出が目的だが、終点湯元(後秋保温泉)は素朴な秋保温泉と川を隔てただけで、湯治入湯客も運んだ。1922年秋保石材電気軌道と改称、1067mm改軌及び600V電化し、1925年8月21日秋保電気軌道と改称して電車に。貨物は可愛い凸型電機EB101が牽引。

1944年7月20日運輸通信省鉄道総局業務局長、内務省国土局長連名の依命通牒「軌道ヲ地方鉄道ニ変更スルコトニ関スル件」=要は当局の事務簡素化のため、多くの軌道が地方鉄道に変更指導(強制)されたが、ここもそれにより1945年1月1日軌道から地方鉄道に変更した。


但し実態は何等変わらず、のんびりした1本ポールの田舎電車で最後まで終始した。言葉を変えれば、主力の電動車が車体をそのまま、2軸からボギーに改良された以外エアブレーキもなく、「近代化投資」は一切なされじ、2軸電動車は410、411以外予備役。すべて専用(新設)軌道で、道路併用区間はない。






拙老幼少のみぎり、親父が転勤族のため2年半仙台で暮らし、東二番町国民学校初等科に入学。この電車にも乗った覚えがあるが、長ずるに及び1955年再見。こんな超ちっちゃな電車だったことを確認した。幼少の記憶ではもっと大きい電車だったから、正直かなりのショックで、裁判での幼少者の記憶証言が本当に信頼できるものかどうか、本気で考えたこともある。


軌間は確かにサブロクだが、車両定規は狭く、軽便と大差ないのは、例えば静岡鉄道秋葉線等と同じで、カーブもきつく、そのためボギー化したのである。終点でのポール回しは、我々が見た時点では他に和歌山電気軌道市内線ぐらいであろう。ただ路面乗降はなく、すべてプラットホームがあった。1956年4月1日改正ダイヤでは15往復、16.0kmに53分程度を要し、昼間でも大体中間で離合する。長町-月ヶ丘間には30~60分毎でローカル列車が運行され、もっぱら半鋼製の410、411が当たっていた。

乙訓老人が黙ったいる筈もなかろうから、余計な写真説明講釈は省く。はるか後年、「おじん2人」の先達=相棒が仙台に単身赴任していた折、彼の車で何十年ぶりかで早朝秋保を訪ね、地元民用の質実剛健な共同浴場で朝風呂に。その折いいものを見せてやると、酒屋の車庫に案内された。これ何と、かつての超素朴な秋保温泉駅の上屋=1407の車掌がポールを回している背後の小屋そのもの=で、よく数十年も残っていたものだ。
写真で分かるように、左側に狭いプラットホーム、電車の線路は1本突っ込み。小屋の間口は4メートル程しかないから、自動車車庫と化しても2台並んでは入れられない。奥の壁にシルエット様の電車の断面を描いてあったから、酒屋の親父も洒落ている。

廃止は1961年4月13日許可、5月8日実施であった。

須磨・乙訓の両古老の著書がベスト鉄道書にノミネートされる!

「本の雑誌」11月号で鉄道本の特集があり、巻頭の出版界鉄人座談会で、須磨の大老『内燃動車発達史』、乙訓の老人『京都市電が走った街今昔』が奇しくも「鉄人の選んだベスト鉄道書」にノミネートされた。
「本の雑誌」は、本にまつわる話題を扱った月刊誌で、最近では「本屋大賞」を制定し、とくに書店員に人気がある雑誌である。斜に構えた編集姿勢が持ち味の雑誌で、今回のコーナーも大した期待もなく読み進めたところ、これがなかなかの的を射た座談会。30年以上前に発行された書籍を例に出すなど、出席者も相当の老練な鉄道ファンと想像される。それだけに両老人の努力の結晶が正当に評価された結果ともいえ、まことに喜ばしい限りである。
両老人とは先般ご一緒する機会があった。老いたりとはいえ、酒量も衰えず、鉄道の話になると口角泡を飛ばしての意気軒昂たる元気さである。この分だとあと10年は生き続けるであろうと、当会の老人パワーを改めて思い知った次第である。

赤線に注目(クリックするとポップします)

仙台市電あれこれ話

作並から山を下り仙台市電となった。tsurukame君の2年前に1日半うろついている。その話に入る前、作並機関区の区宝となった筈の物をご披露申し上げる。

 

仙台2日目、11時前に北2番丁車庫を訪問した。2階事務室に案内され、佐藤技師さんから仙台市電30年史を下に講義を受けることが出来た。昼食も御馳走になった。この時のメモ中心にあれこれ話を展開しよう。

1.都電の中古車:モハ70形(707910

19484月、東京都より4輪車10両を譲り受け、改造(整備?)を東京鉄道工業に発注、10月に完成、同年111日付で竣工届が出されている。帳簿価格は300,000円。194946日付で車両設計変更の認可を得て、台枠(ベスチビュール部分か)改造と共に折畳扉設置、窓構造、車内照明を始め外部灯具などの改造も施工している。窓はこの時、70号を除き2段窓になった。1957518日付で7375が廃車、配置は北2番丁に70.71.77、長町に72.76.78.79.となっている。76は衝突事故で休車、これと70724両は次期廃車予定。可動車は予備車的存在で、市内の本線上で見ることは出来なかった。

2.都電、その他の中古車:6169、形式称号なし。

6162)モハ70形の原型である都電400形の車体を購入、61は鶴見臨港の4輪車11号の、62は当局の撒水車の台車と電装品を転用して19417月竣工した。簿価は14,500

6364)江ノ電112122を購入、22の車体に11の台車を組み合わせ63とした。その台車はドイツ・マイネッケ社のものであった。64は都電から譲渡された予備台車を組み合わせた。こららは194212月竣工した。以上4両は東京三真工業所が改造した。簿価は16,100

6566194210月、竹鼻鉄道(19433月名古屋鉄道と合併)から木造4輪車2両(78)を購入した。車体幅が狭いため座席を食い違いにしたタイル張の床を持つ車両であった。これを改造、改修の上、1945年竣工した。このタイル張とはどんなものであったのか、気になる。この頃はアスタイルやPタイルは未だ世になく、あるとすれば高級品のリノリュウムタイルぐらいである。元貴賓車ならわかるとして、庶民の電車にタイル?となったのは当たり前のことである。まさか瀬戸や常滑のタイルを使ったのではなかろうと思うが……。後にこの2両は美濃電岐阜市内線のものであることが、廃車後の解体の時に判明したとか。

676919426月、都電4003両の譲渡をうけた。日本鉄道自動車で整備され19475月竣工となった。6569の簿価は記載なし。

以上9両は19488月:61636566を秋保電鉄に譲渡、19492月:6264が廃車、19551月:6769も廃車となった。NEKO RM90には6268の写真が掲載されている。

3.流線形:モハ43形(43453

これがお目当てであった。1955年、初めて松山に行った時、古町車庫に留置されていた鋼製4輪車、なにか曰く因縁があるに違いないと思っていた。それがTMS7886号で解決したのだが、仙台に行けばその原型に出会えると期待に胸を膨らませていた。初日に仙台駅前で出会い宿願を果たした。

因縁については、佐藤さんから聞くことが出来た。メモでは1938年、18両(4360号)増備の認可を得た。この年の8月に3両、梅鉢車両で完成した。簿価は16,800円であった。43号は北2番丁、4445号は長町所属であった。

次の年は製作割り当てがなく、1940年3両、1941年1両の割当てを得た。当初、製作は木南車両担当であったのが、1941年には日本鉄道自動車に変更となり、19429月竣工の筈が実現しなかった。結果として60形が代替車となった。1946年に購入を断念した結果、日鉄自で完成していた鋼体を秋保電鉄が引き取り、2両を電動車として完成させたが、1両は伊予鉄道に譲った。過去に仙台市が財政難に陥り購入を断念したと紹介された記述もあるが、佐藤氏は原の町線建設が急務であり、市は路線延長に資金を投入したのだ、とおっしゃった。東京から中古車400形購入の目途が立っていたからだろうか。戦中、終戦直後、物資不足に振り回された姿が垣間見える。

 

秋保電鉄の本社は市電長町車庫の南隣で、線路は繋がっていた。北2番丁車庫で撮れなかった70型をキャッチするや表通りに出て302号を待つことにした。300形は前日、仙台駅前で一度キャッチしたのだが他車と重なり、そのことを車庫で言ったら「間もなく帰って来るよ」と教えてもらったからだ。301号は北2番丁所属、302号は長町所属のため動静が掴めたのだ。長町駅前で土佐でも話題となった4輪車の連接車化の姿を、無事にキャッチ出来たが乗ることは出来なかった。それは秋保温泉までの一往復を頭に入れていたからだ。

 

1520分過ぎに秋保電鉄長町駅ホームにモハ411号が到着、伊予の兄弟と対面出来た。当車は194612月竣工時マハ10と名乗っていた。同型410号は当初マハ8号であったが後にモハ408を経て現番号になった。こうしたことはピク誌369号:和久田氏の記事の受売りである。本社へ行って形式図拝見と、居座れば最低1時間粘ることになるから明るい内に沿線観察とはならない。

411号は高校生を10人ばかり乗せ、折り返し月ヶ丘行きとなり直ぐに出て行った。1610分発の温泉行きに乗車するため待つうちに、単車をボギー車に改造したモハ1407号が到着。乗り場の奥に引き上げ、代わって乗り場向かいの車庫からモハ1408+サハ406号が出て来て乗り場に横付けになった。乗ったのは4輪車のサハの方である。市電からの乗り換え客のほとんどは高校生で、サハはゆったりした車内で出発した。16㎞を60分ぐらいの行程、田舎電車そのものである。25馬力×2でトレーラー牽いてだから最大速度は25/hがやっとか。田圃の中をがったんごっとんと走る。そのうち山裾に取りつくや車内灯は一段と暗くなってきた。東北の秋の夕暮れは京より早いなぁーと思っている内に終点到着。

温泉駅は川べりで、温泉街は川の対岸のようだ。電車は入換作業をして直ぐ長町へ戻ると言う。今度はモハの方に乗って温泉電車とはお別れにした。

以上で車号が出てきたのが電動車4両、付随車1両だが、和久田氏の記事では4輪車をボギー車にした開業以来の140114034輪車のままの4023両に1938年に名古屋市電譲受けの405の電動車があり、付随車はいずれも4輪車のサハ4014041959年には在籍していることになっている。車庫で見かけたのはモハ1403とサハ402のみで後は分からない。本稿が誘い水となり、須磨の大人のお出ましを期待している。

 

かって1994年夏、35年ぶりに栗原電鉄へ行ったことを紹介したが、秋保温泉へは1995年秋に行くことが出来た。泊まったのは「勘助」で、翌朝ベランダから川を見下ろす内、対岸はかっての温泉駅であることに気付いた。フロントの年寄りに尋ねてみるとやはりそうであった。朝食前に行ってみたが36年前は夕闇の中でのこと故、何も記憶に残っているものはなかった。平泉へ移動するバスは左側の座席を確保、温泉街を出て名取川を渡ってから山裾を注視した。電車用地とはっきり認められる個所があり、バスはそれに沿うルートを辿っていた。茂庭バス停を過ぎると東北高速道路に入り、一路北上であった。

掲示板用投稿ソフトのご紹介

suiren

新しい掲示板は、Microsoft社が無料で配信している投稿ソフト「WindowsLiveWriter」に対応しています。このソフトを利用することで、より素早く、より高度な投稿が行えます。

特徴1:インターネットに接続しなくても記事の作成ができます。出先・移動中にノートパソコンで記事を作成、帰宅後に投稿といったことが可能です。

特徴2:画像投稿が簡単になります。面倒なリサイズ作業は不要です。右図のように枠をつけたり、回転、明るさの調節、ソフト・シャープなどのフィルターの適応が手軽に行えます。

特徴3:撮影箇所の地図・航空写真を挿入したり、表の挿入が行えます。

地図画像

※詳細な使用方法や、インストール方法は後日投稿する予定です。

天然色写真で巡る40年前の九州 (4)

筑豊から夜行に乗り大畑へ、また夜行に乗って久大本線へ戻り、再び夜行で上伊集院へと、九州を南へ北への旅は続く。九州では、門司港を起点として、長崎、西鹿児島、宮崎へと夜行の急行・普通が相互発着していた。夜行に乗って朝起きると、乗り継ぐローカル列車もうまく一番列車に接続し、朝のラッシュ時の蒸機列車から総ナメで、たっぷり一日撮影ができるという、今から考えると本当に撮影には恵まれた効率のいい時代だった。
行程の半分あたりの日に、宮崎でI氏と合流した。氏は宮崎にはたいへん執心され、その後も数日を掛けて訪れている。鉄道以外にも種々の理由もあると聞いたが詳らかではない。
今日はそのI氏に案内されて初めての田野を訪れた。日豊本線は、前年まで健在だったC55はもう見られないものの、C57の天下となり、旅客列車はもちろん貨物列車までもC57牽引という徹底ぶり。日豊本線はのちにC57の牽く最後の蒸機急行とし名を馳せるが、この時代は逆に優等列車はDF50牽引だった。
さすが南国、宮崎。ポカポカ陽気で、同じ九州でも明らかに北九州とは気候が違う。たいへん気持ちがいいのだが、ついつい夜行の疲れで、線路端でウツラウツラしてしまう。
ここ田野の築堤で上り特急「富士」をとらえた。別の日にも佐土原で「彗星」をとらえている。富士」は、東京から日豊本線経由で西鹿児島まで、日本一長距離を走る特急だった。「彗星」は、昭和43年10月改正で新大阪~宮崎間を走り始めた。どちらも20系客車で、あざやかな車体色はまさにカラー向きの列車であった。20系の後継となる14系は昭和46年の誕生だから、寝台客車特急はすべて20系だった時代で約400両あった。貧乏旅行の私は、20系には乗ることなく終わってしまったが、この時代の憧れの象徴だった。

田野~日向沓掛間を行くDF50530牽引の上り特急「富士」

20系の先頭に立つ牽引機もその時代を象徴していた。蒸機ならやはりC62、電機なら同色でまとめたEF60、65Pがいちばん相応しい。DLとなると、DD51時代が長かったが、やはり凸形が長編成を牽くのは似合わない。DF50こそ相応しい牽引機に映る。DF50の派手な新塗装も案外ブルーの車体にマッチしていた。山陰本線の普通列車を牽く地味なDF50しか知らなかった身には、ずいぶん華やかな存在と映った。

佐土原駅を発車した新大阪行き特急「彗星」。左はC57117牽引544レ

 

西武トレインフェステバル2008in横瀬

10月5日(日曜日)西武秩父線横瀬車両基地で「西武トレインフェステバル2008in横瀬」が開催された。このイベントは例年10月14日の「鉄道記念日」に近い土曜日か日曜日に行われており、昨年まではスケジュールが合わず、今年初めて見学した。内容は横瀬基地に保存されている車両の一般公開と鉄道部品の販売がメインである。当日はイベント参加者のために池袋~横瀬間に最新の30000系8連による臨時快速急行が運転された。

 この電車に乗車する予定で8時頃西武池袋駅に到着した。ホームに上がると1本前の8時4分発の秩父鉄道直通の長瀞、三峰口行の快速急行がクロスシートの4000系8連で停まっており、空席があったので乗車した。車内は登山、ハイキング客でほぼ満席であった。飯能で方向が変わり、東飯能を過ぎると山岳地帯となり、駅毎に登山客が降りて行った。長い正丸トンネルを抜けると秩父盆地で程なく横瀬に到着した。車両基地の公開は10時からで30分近くあるのに長蛇の列ができていた。正直なところ、都心から遠く離れた秩父までわざわざ古い電気機関車を見に来る人は、そう多くはいないだろうと思っていたが大間違いであった。続いて到着した特急からも多くの人が下車、その後に到着した30000系臨時電車は立ち客がいるほどであった。

 場内は大賑わいで、特に家族連れが多く、子供を電気機関車のデッキに乗せて撮影する親が多く、中々写真が撮れなかったが、正午前後に各車両毎に撮影タイムが設定された。ファンよりもピクニック気分で来ている人が多く、年中行事として沿線の人に定着しているのであろう。パンタグラフは最初は下りていたが10時半頃上げられた。隣で撮影していた人によると、年によっては下がったままのことや、車体横に説明板が吊り下げられていることもあり、今年はラッキーだったそうである。この辺りは当日の責任者の判断に任せているのかもしれない。大正時代東海道線の電化時に輸入された電気機関車が現役時代のままの美しい姿で大切保存されていることは誠に意義深く、近江鉄道のED31、ED14も各1両はこちらで保存してもらえないものかと思った。

 (1)E52(元国鉄ED122)

現役時代の画像と経歴については【1415】で紹介してあるので、そちらを参照いただきたい。

 

(2)E61(元国鉄ED111)

大正12年ゼネラル・エレクトリック社製で、昭和35年5月国鉄で廃車、昭和37年6月西武に譲渡されている。廃車は昭和59年で、現役時代近江鉄道に貸し出されたことがある。(昭和40年1月9日彦根駅で撮影)同形のED112は国鉄に残り「佐久間レールパーク」に保存されている。(【1082】を参照)

 

(3)E71(元国鉄ED102)

大正12年ウェスチングハウス社製 昭和35年5月国鉄で廃車、昭和37年6月譲渡、昭和61年廃車、近年国鉄時代の塗装になり、元のナンバーのプレートが付けられた。

 

(4)E43(元国鉄ED361←青梅鉄道デキ3)

昭和2年イングリッシュ・エレクトリック社製で、元青梅鉄道が輸入し、昭和19年国鉄に買収で1013、昭和27年の改番でED361となった。昭和35年国鉄で廃車後西武に譲渡、昭和62年廃車となった。

 

(5)E33(E31形)

保存車両ではなく現役の機関車である。E31形は昭和61年から62年にかけて輸入機の代替として西武所沢工場で4両作られた。台車は元国鉄モハ80300番台、主電動機は同社の元351系のものを使用した。工事列車や新造車両、譲渡車両の牽引等に使用されているが廃車が噂されている。

 

その他、E854が展示されていたが、停車位置が悪く来年に期待したい。

 

(6)D16

昭和44年日車製でブリジストン小川工場の入換に使用されていたが同工場廃止後、西武に移籍、東横瀬(貨物駅)の入換に使用されていた。平成8年3月貨物廃止により廃車となったが、機器扱いで現在も横瀬基地の入換に使用されている。

 

(7)4号機

1886年(明治19年)イギリス、ナスミス・ウィルソン社製の蒸機である。官設鉄道75号を振出しに日本鉄道、房総鉄道、川越鉄道等を経て昭和32年まで西武鉄道で活躍した。廃車後はユネスコ村に展示されていたが、閉鎖後横瀬基地で保存されている。ブルーシートを被せた状態で保存されているらしく状態は芳しくないのが残念である。

 

(8)クハ5503

昭和44年西武秩父線開業時に特急車として作られた車両で、平成5年から後継の10000系に置換えられ廃車となった。クハ5503が保存、庫内にクハ5507の前頭部のカットモデルが保存されている。

 

その他、電車ではクモハ355が登場時の塗装に戻されて保存されているが、停車位置が悪く来年に期待したい。(【1313】で上毛電鉄に譲渡された同形車を紹介しているので参照いただきたい)

 (9)スム201

少し前までは当たり前に見られた貨車であるが、今となっては貴重な存在となってしまった。保存しているのかどうかはわからないが野晒しのため状態はよくないようである。

 

(10)ワフ105

浅い屋根とユニット窓が特徴のいかにも私鉄のワフといういでたちであった。こちらも保存の対象となっているのかは不明であるが、スム201と同様状態はよくない。

 

(11)クハ38103

臨時快速急行に使用された、今年デビューしたばかりの新車である。

CRHの旅Ⅱ Part6 出た!334km/h CRH2-300

着いた北京南駅は、空港と間違うような立派な駅でした。。

Fタクシー降り場に着いて、自動ドアから入ると、高い天井から自然な光が降り注いでいました。屋根には、ソーラーパネルが取り付けられています。

これほど広くて、ゆったりとしたコンコースは、日本にはありません。コンコース中央部には、グランドピアノも置かれ、5ツ星ホテルのロビーのようでもあります。まあ、びっくりしました。 続きを読む

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-5

 

マン島鉄道 その5 グラウドルグレン鉄道

蒸気鉄道のダグラス駅がある高台からかなりの急坂を下るとダグラスの町が展開する。高級ホテルが並ぶ海岸通の南端 Clock Tower から軌間3フィートの Dougglas Horse Tramway が約2.6km北東の Derby Castle まで、観光客を乗せ営業している。その終点路面では、同じ3フィート軌間の Manx Electric Railway の電車が待っているが、馬車鉄道共々次回以降にご覧頂く。

そのマンクス・電気鉄道の木製電車(乗降は妻面から行う)に乗車して3km程、道路とその傍らを行く電車が川を少し遡り、馬蹄形に曲がって川を渡るのだが、その手前に Groudle 駅(無人)があり、そこで下車。ここがグラウドルグレン鉄道入口だが、看板には Operating Sundays & Bank Holidays(in season )と書いてあった。なぜ銀行休業日に運行するのかは?だが、銀行員がボランティアをしているのだろうか。
狭い川を渡り、何やらハイキングコースの如き小徑を結構歩いて起点 Lhen Coan である。狭いところにオモチャのような駅舎(叡山電鉄鞍馬駅のミニチュアみたいな)があり、軌間2フィートの線路、ちっちゃい汽車一式が待っている。海岸の Sea Lion Rocks  まで2kmに満たないちっちゃなちっちゃな鉄道で、終点以外別段景勝地もない。


何やら叡山電鉄鞍馬駅のミニチュアのような
右側の店はスーベニールショップ

1896年に開通し、戦時中を除き営業したが1962年廃止に。それをボランティアが1962年から復旧に取り組み、1986年運転を再開。訪ねた1999年では4月4日のイースターとその翌日、5月2日~9月26日までの日曜日11時~16時30分。それに8月3、10、17日(各火曜日)と7~18日の水曜日に限り、なぜか夜間19時~21時のみ運行する。

我々の訪問も、企画・実施・運営すべてを取り仕切る先達=相棒(通称ウメムラツーリスト)が段取りして運行日に合わせていたのである。

天気は最悪で、これ以上暗くはなり得まいというぐらい暗かった(写真の上がりもピントもそれ以上に悪く、理由はすべて天候に帰しておく。相棒のは忌々しいがちゃんと写っていた)が、折角来たのだから1.8ポンド払って往復乗車券を買う。遊園地のお伽列車並みの客車が2両、それでも牽引は暦とした蒸機 SEA LION 号で、英国小形蒸機メーカーで有名な W.G.バグナル1896年製、僅か4トン。


もう1両は庫内におり、やはりバグナル1905年製 POLAR BEAR 号5トン、ウエスト・サセックス州で保存されていた機関車とか。他に Hunslet 1952年製5トンのディーゼル機関車が2両。Dolpin 、Walrus というプレートを付けている。

列車は30分毎に発車。森を抜けると真中に離合設備があり、シーズンには2個列車が走るのだろう。起点以外すべて無人で、途中停留場には Passengers wishing to bord train must give a clear signal to driver との表示があった。DRIVER とは正に英語で、米語なら ENGINEER と書くのだろう。

終点の Sea Lion Rocks も、この日の天候を割り引いても、わざわざ見に来るほどの景勝地とも思えないが、列車は機回りして付替え、しばしの停車後引き返す。


途中のリクエスト・ストップ停留場標識
この右先が終点 SEA LION ROCKS

ところでこのミニ鉄道、先に記したように、乗客は徒歩以外アプローチの方法がなく、以前は石炭すら人力で運んだのであろう。しかし現在では秘密の?管理用道路があるらしい。夢を壊すようだが、船でないと行けないのがウリの大牧温泉も、その実秘密の管理・物資補給用道路があり、熊が出るゾの標識で立寄りを防いでいる。船(関西電力経営=発電ダム建設→道路水没→永久補償)には食料等を全く積んでいない。

古地図に見る京都駅

青信号特派員氏とともに研究している京都駅の位置については先日報告のあった通り京都府立総合資料館へ行って明治初年の地図と大正年間の地図を拝見しながら現在の地図と比べました。明治22年京都駅周辺

 明治22年京都駅周辺

その結果、旧線はいまの塩小路通より家一軒分南側を東西に通っていたことが分かりました。
上の地図は明治22年の京都駅周辺です。鉄道記号はまだ白黒になっていませんが中央を横切っています。交差するように縦に流れているのは左が堀川で、見にくいですが西本願寺の南と九条で直角に折れ曲がっています。右に流れているのが西洞院川です。当時は西洞院に川が流れていて、北野線が西に偏って走っていたのもこのせいだと言われています。

次に明治17年の京都駅西方向の地図を掲載します。
この当時は市内と市外に別れて地図が作られていました。市外(郡部)の地図は比較的広域表示ですが市内は町別単位で重なるようには編集されていません。しかも手書きで縮尺もいい加減です。そのため突き合わせに苦労しました。
なお、地図は上が北で統一して表示します。

明治17年志水町

 線路の北側を並行しているのが塩小路通、すこしぐいちになっているところがあわしま堂です。地図の右端に縦に見える青い線は堀川です。今の大宮通はこの地図の西方向ですが大宮通以西は京都府葛野郡で当時は郡部でした。
明治17年御方紺屋町

 明治17年御方紺屋町

 御方紺屋町はいまの堀川塩小路交差点付近にあった町です。左側が堀川で、赤い公道は旧醒ヶ井通、今の堀川通西側歩道にあたります。その東に接しているのは安寧小学校でいまは堀川通りの西側に引っ越しています。当時は堀川に支流が会ったことが分かります。線路のある場所にはリーガロイヤルホテルが建っています。右下の不動堂と道祖神社は別物ですが鉄道敷設に伴い線路上にあった道祖神社が不動堂の北側へ移動してなにやら一体化して戦後は疎開あとに取り残されていて判然としませんでした。

明治17年不動堂町

 明治17年不動堂町

 左下がその不動堂と道祖神社です。赤い公道は油小路通で、当時は踏切があったそうです。右端に見える青い線は西洞院川です。中央下のピンクの部分は駅構内の敷地と思われます。

さて、志水町などの地図で表示されている町名をよく見ると線路は上夷町、南夷町、松明町などに南接しており、金換町やここには掲示していませんが下糀屋町に北接しています。

これを踏まえて次の地図を見て下さい。
昭和10年京都駅付近

昭和10年京都駅付近

 この地図は安寧自治会が数年前に発行した記録誌に載っていました。大正11年に作られて昭和10年に修正されたとあります。線路北側に上夷町、南夷町があり線路が南へ下がったことが証明されます。しかも中央の塩小路通が斜めになるあたりに東西に広大な空き地があります。この位置はちょうど上夷町、南夷町に北接しています。

いまここにはタキイ種苗の本社があり、当時の面影はありませんが塩小路通りの南側の町家は南側が一直線に揃っていました。

さて、では最初の明治22年の地図ではどのあたりが今の鉄道線路になるのでしょうか?
ある一カ所で特定できました。油小路通を注意してみて下さい。油小路通は堀川と西洞院川のちょうど中間にある南北の通りですが、鉄道線路の少し下、道が斜めに西へ振れてまた南へ下がっています。この斜め区間がいま山陰線と堀川通交差地点北側にある油小路通の斜め区間と一致します。元科学技術専門学校の南端です。

今までに分かったことは以上ですが、特派員氏が以前に書いた記事ともほぼ一致していますのでまちがいはないでしょう。
皆様のご意見をお待ちしております。

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