【907】記憶の中の京阪電車 (2)

京阪電車で、まず頭に浮かぶのは「特急」であろう。我々の世代が現役の頃は1900形の全盛期であった。1900形の特徴は、他社の特急車両に固定編成が多かったのに対し、各車単独車両で、自由に編成が組めた点であろう。それ故、○時の特急は「1新車5ピンク」だったとか「4新車2ピンク」だったとか編成そのものが話題になった。「特急」は京阪の看板電車であり、特急を利用できない乗客にとっては「よそ行き」の電車に見えた。私の場合は通学の6年間、通勤の2年間、自宅、通学通勤先の最寄駅共に特急停車駅でないため、急行以下のいわば「普段着」の電車を利用した。その頃の思い出を断片的ではあるが紹介して、同世代の皆様に「ああ、そんなこともあったなぁ」等と思い出していただければ幸いである。

1000系の珍編成

昭和43年10月10日、昼休みにBOXに行くと、京阪で通学していたA君から「宇治行で1100+1000+1200の3両編成を見た。1100と1000は同じ向きに連結されていた」という話を聞いた。午後から授業があったかどうかは忘れたが、直ぐに自宅に戻り、カメラを持って中書島に行き、暫く待つと、1202+1005+1107の3両編成が来た。こんな編成を見たのは初めてで、この電車で六地蔵まで行き、折返しの三条行きを撮影した。

中書島に進入する 1202+1005+1107の3両編成

1005と1107の連結面

木幡~六地蔵間を走る 1202+1005+1107

1107 

市電800形連結車

この日は次のようなオマケが付いた。自宅に戻るため中書島から市電(839)で伏見線を北上し、勧進橋まで来たところで、動かなくなり、乗客は全員降ろされた。暫くすると稲荷から来た(852)を頭に連結、先ほど降ろされた乗客を全員乗せて発車して行った。

当時の伏見線は昼間オール800形、ラッシュ時に500形が応援に入り、たまに600形が入った。最新の700形はまず入ることは無く、900形は正月、節分、初午の超繁忙期のみであった。

 

故障で立往生している⑱(839)の頭に⑲(852)を連結

⑱(839)を牽引して発車


【899】旧満鉄のジテ

[880] 早川昭文氏投稿の3コマ目写真を要望書込をしたところ、田野城氏からお尋ねが出た。これは拙老に花を持たせようとの温かいお気遣いに違いないが、当方は待ってましたとすぐさま反応し、お誘いにのることにして以下の講釈を。

清朝の廃帝溥儀を傀儡皇帝として強引に満州国の建国宣言をしたのが1932年3月1日。南満州鉄道(以下「満鉄」とする)は1930年以来ガソリンカーを導入していたが、1935年に到り、一挙6編成1~6のディーゼル電気列車を登場させた。一端に500馬力ディーゼル機関と発電機、暖房ボイラーを搭載、手荷物室も備えた流線型ジテ、次いでロハフ、ハフ、他端にやはり流線型の端面を持つハフセの4両が固定編成で、ジテ、ハフセの端面側台車に計4個の150馬力電動機。ジテを除く客車部分は3車体4台車の連接式である。ハフセの「セ」とは制御室の意味である。

右からジテ+ロハフ+ハフ+ハフセ

6両中4両のジテにスルザー(スイス)製6LDT25、2両が新潟鐵工所製KD6を搭載し、同じ馬力(標準460、最大550)でも前者が4.2t、後者5.88tの中速(現在なら低速)機関である。定員は2等28、3等260、計286人、製造は6編成とも日車で、電気関係は1~4が芝浦、5、6は日立。

勿論これは我国及び満州国の国威発揚を目的とした猛烈な「背伸び」での大デモンストレーションで、鳴り物入りの華々しい登場ではあったが、運転整備132t、電動機が150馬力×4とあっては、そんなに速度が出るはずがない。定員乗車時の重量1t当り機関出力(馬力)で比較すると、登場時点の特急「はつかり」5.78、キハ43000系が3.88、キハ42000が4.69、キハ41000が3.86という数字になり、これに比しこのジテは3.42だった。江若キニ9~13ですら3.45、出足が悪くラッシュに使えなかった東京横浜電鉄キハ1~8が5.00だったのである。キハ42000はご存知東海道線の試験走行で空車だが108kmの記録(1935年7月16日)があり、キハ41000でも100kmに達した記録がある。

多大の期待を背負いながら、現実にジテが投入されたのは特急ではなく、大連-大石橋間の各停仕業=表定速度47.1kmの運行である。その後日本で出現したキハ43000系も機関の未熟と出力不足(上記数値は3.88)が主因でものの役に立たず、国鉄工作局エリート技術者はすべてを燃料事情に帰してウヤムヤに誤魔化してしまった。

なお満鉄と国鉄工作局技術者とは犬猿の仲で、国鉄側はキハ43000に期待をかけたはずだが、結局派手な試験をすると馬脚が表れると知った工作局は、ロクな走行テストもせずに、2両のキハ43000は戦災後浜松工場通勤客車代用に落ちぶれていた。中間のキサハ43500だけは電車の仲間入りし、飯田線で予備、最終キサハ43800→キサハ04301として関西線で生涯を終えている。

なお満鉄では1943年になって、2編成のジテ列車からハフセを外して背中合わせにし、かつ両端のジテの両台車を動台車として試験走行した。すなわち機関出力1000馬力、電動機1200馬力で、ジテは当然スルザー機関搭載車を選んだ筈である。この際は時速100kmを保てたのだが、あくまで試験に止まったのは、到底経済的に成り立つものではなかったからである。

そのジテ列車だが、中華人民共和国になって、ジテを捨て、両端を旧ハフセに、各車3扉と多客化改造し、撫順炭坑の通勤電車に化けていたのであった。ベンチレーターもグローブ式に替えられている。誕生以来実に73年が経過しているから、その長命ぶりというか、保ちの良さ、いや保たせの良さにはホトホト関心嘆息するほかはない。写真で見る限りそう荒れ果ててもおらず、面影は充分に残している。


【880】最新! 中国東北部・韓国駆け足紀行

毎回、DRFC-OBの力作、歴史的遺跡調査研究、掘り出し物、最近のニュース、クイズ等々を拝見させていただいています早川昭文です。パソコン音痴で、米手作市氏、元祖青信号特派員氏並びに小西Jr氏にご教示を賜わりながら、苦手はどうしようもなく、ここに再度元祖青信号特派員氏に助けていただきました。内容は9月20~24日の中国東北部(旧満州)と韓国ソウルに駆け足撮影旅行した時の一部です。
写真1 2008.09.22 調兵山蒸機
中国特派員氏に刺激を受けて瀋陽郊外調兵山の上遊型蒸機を見に行った。ガイドしてくれたのはこの間まで立命に語学留学していた謝さんという若い女性。これは朝の風景だが久しぶりに煙のある活気に満ちた駅に懐かしさを感じた。
写真2 2008.09.22 王千蒸機
これは王千駅に停車中の上遊型蒸機1772号で、この後、2~3分運転をさせてもらった。動いていたのは3両で一部ディーゼル機関車牽引の列車もあった。
写真3 2008.09.23 ジテ
撫順炭鉱砿務局駅に到着した旧満鉄ジテ。最近は殆ど稼動していないと言う事で車庫にでも見に行こうとしていたら幸運にもやって来た。
京阪の複々線を行く流線型1000型を思い出す。この1本前に来た電車は綺麗に塗装され、車内にはテーブルが置かれ、花やご馳走が並んでいたが、大勢の幹部がこの駅で乗り込んだ。公安か職員か忘れたが撮影するなと言われた。

写真4 ハルビン路電
今回、大連では有名な日本製の路面電車を撮影。 他に長春にもあると聞くが今回は素通りして、10年前の厳冬期に訪問したハルビンの松花江を見に行った。この時ガイドにハルビンの昔の路面電車の話をしたら、路上に保存してあると言う。行ってみると結構往来の激しい路上に鎮座しており、この様な保存もあるのかと感心した。
ハルビンでは流線型の単車などが有名であったが、これは本当にハルビンを走っていたのか、何処で製造されたのか、定かではない。


【876】12/6は中之島へ

先日、乙訓老人に引っ張られて、京阪中之島線の終点に聳え立つリーガロイヤルホテルを訪れた。ここで来たる12月6日(日)に「昭和と京阪電車とドイツの路面電車」と題する京阪中之島線開業記念の講座が開かれる。講師の名前を見てほしい。なんと我が乙訓老人である。
この日は、会場の下見をするために訪れ、帰路に「掲示板に載せといてくれ」とチラシを渡されたのである。講座の内容は、老人が三歳のときから京阪に親しみ、「将来は京阪の社長になる」と小学校の卒業文集にまで綴った、京阪への愛惜の思いを吐露し、合わせて電車の母国たるドイツの路面電車も加えた、絢爛豪華なスピーチとなっている。リーガロイヤルホテルと言えば、大阪を代表する格式あるホテルである。乙訓老人の品格と、ホテルの格式が見事に一致した、稀代の講座と言えよう。
大は数百人から小は2、3人まで、老人は多くの講演を経験してきた。ところが、それらはすべてタダであった。今回は、金3300円を徴収する有料のセミナーである。さしもの老人も構えが違う。まだ一ヵ月以上も時間があるのに、老人の顔には心なしか緊張感があふれていた。
3300円が惜しくない会員、あるいはヒマを持て余している会員、12月6日は中之島線に乗ってリーガロイヤルホテルまで足を運んでほしい。

昭和の京阪がよみがえる


【860】おじん2人ヨーロッパ軽便その23-7

マン島鉄道その7 ダグラス馬車軌道とマンクス電気鉄道~リバプール

場所が前後して申し訳ないが、ダグラスの町の蒸気列車が発する高台から急坂を下ると海岸に出、そこから町の北端、ダービー・キャッスルまで、超高級・高級・一般ホテルや貸別荘が切れ目なく連なる海岸線沿いに1.6マイル(約2.6km)、軌間3フィート・複線のダグラス馬車軌道 Douglas Horse Tramway が伸びている。創業は1876(明治19)年というから古い。客車には屋根もない完全オープン車、2階のみオープン車など何種類かが車庫に収まっているようだ。


これは晴天用オープン客車

目隠しをされたたくましい馬が、それも結構な速さ―ギャロップで客車を引く。それも天候や気温で客車を使い分けているようで、オープンカーだったのが、天候急変で何時の間にか密閉式の客車に交換されている。その雨天用車だが、御者の部分は手綱を持つから妻面の風防はなく、向かって右方のみ、3枚窓が1/4円弧を描くようにして客室に雨が入らないようにしてある。



これが雨用車両で御者は雨衣を着ている。バックは高そうな、やたら古そうなホテル

その終点では、同じ3フィート軌間のマンクス電気鉄道と路上で接続する。開業は1893年9月7日で、1、2号電車はその創業以来の車両というから驚きである。勿論木製車体は部分的に木材を交換するから、現実に100年以上経過しているのは台枠、台車、主要電気器具などであろう。直接制御だがエアブレーキは備えている。

これは創業以来100年経過の1号電車。留置してあったオープン付随車を連結し、これから車掌がポールを回す

バックは貸別荘らしい

車体はスネイフェル登山鉄道も同様だが、赤・白に塗られた部分以外ニス仕上げ、乗降は妻面向かって左側から行う。随分長い車体だが、ポールは1本で、終点では車掌が回す。


スネイフェル登山鉄道との接続停留所

古風な石積陸橋

終点ラムゼイ駅

先回のスネイフェル登山鉄道のサードレール方式手用ブレーキの構造・動作が説明不足でさっぱり分からんとお叱りが。写真を撮っていないので、また 「The Railways and Tramways of the Isle of Man 」から借用してお目にかける。運転席で小さな丸いハンドルを回すと、ネジが菱型状の枠の頂点角度を狭め、下方のブレーキシューがサードレールを締め付けるという、到って単純(野蛮)な仕掛けである。

我々は2泊3日のマン島滞在最終日、猛烈な霧で撮影をあきらめ島を1周。こんな狭い島の、しかも通常道路でマン島自動車レースは行われているのである。空港でレンタカーを返却し、4発プロペラ機でリバプールへ。この飛行機では食事は出なかった。

リバプールは小規模でボロッちい田舎空港で、通常の路線バスが30分毎に空港にまで足を伸ばし、住宅地をぐねぐね曲がって45分かかって市内中心部へ着くのは、伊丹市バスと同じである。相棒=先達のツアコンが予約していたのは国鉄リバプール駅隣接のホテルで、窓から列車がバッチリ見える。これが気に入って、数日後再泊の際も同じ部屋番号を指定し予約。

夕食の外出時、河底トンネルを抜け東岸に渡る、狭く複雑でややこしく迷いそうな自動車専用道路を外周から視察し、一生懸命この標識で右に曲がって次を左に、と記憶し明日に備えた後とてつもなくでっかいビヤホールへ。ビールの銘柄が10種以上、夫々値段が違い、各銘柄専用の(当然だが)サーバーを備えたカウンターが何箇所もあり、皆の衆男女共大方は丸テーブルで立って飲んでいるが、こっちはやはり椅子がいい。エビフライナゲットがややこげ気味だったが意外に旨く、ビールを3パイントお代り。


【846】天然色写真で巡る40年前の九州 (5)

日豊本線の撮影を終え、また夜行に乗り大分に着いた。早朝の到着のため列車に乗って時間を潰したあと大分区で写し、午後には中津にやって来た。中津からは守実温泉まで大分交通耶馬渓線36.1kmの路線が伸びている。山国川に沿って、青の洞門などの名所もある耶馬溪へ向かう鉄道である。
大分交通にはほかにも、日豊本線杵築から国東まで国東線が、同じく宇佐からは豊後高田・宇佐八幡へ宇佐参宮線が伸びている。3線とも非電化で、緑とクリームに塗り分けられた気動車には、それぞれ愛称が付けられている。現在、紀州鉄道に残るキハ603は、耶馬溪線用として昭和35年に製造され、同線の廃止後、紀州鉄道へ転じたものである。
さらに大分と別府を結ぶ軌道の別大線も大分交通である。もちろん出自は様々だが、戦後の陸運統制で大分交通に一元化された。その後、大手バス会社に成長した大分交通は、鉄軌道部門の経営意欲を失い、昭和40年には宇佐参宮線、同41年には国東線が廃止となった。この2線の廃止で、在籍していた車両のほとんどがここ中津の車庫に集められ、写真で見られるような光景が出現した。DCあり、客車ありと、すごい数の車両が車庫を埋め尽くしている。建屋の中にはクラウス社製の蒸機1444号機も保存されていた。

手前はガソリンカーを客車化したハフ16 2・3両目は木造Wルーフのホハフ101・102

客車は宇佐参宮の団体列車など波動用として多くを保有していた。ボキーあり、二軸あり、片ボギーありで、そのほとんどが木造車である。この時代でも、木造車は地方のローカル私鉄に辛うじて残っている程度で、これほどのズラリ並んだ木造車は、たいへん珍しい光景だった。しかも、訪問するつい4年ぐらい前までは、これら二軸車が現役で走っていたというから驚きで、今も整備状態も良く留置されている。ほとんどの車籍はなかったが、男子更衣室、女子更衣室といった札が各車両に掲げられ、有効に活用されている様子だった。
その後、この耶馬溪線も昭和46年に山間部の野路~守実温泉が部分廃止され、残る中津~野路も昭和50年に廃止、軌道の別大線も昭和47年に廃止され、大分交通から鉄軌道はすべて消えてしまうのである。

オープンデッキ、木造、Wルーフ、二軸のハフ27 新宮鉄道の開業時に造られ、鉄道省に買収された後、耶馬溪線に転じた

 


【826】記憶の中の京阪電車(1)

10月19日、中之島線が華々しく開業し、関西在住のクローバー会の皆様の中には初日に乗りに行かれた方も多いのではなかろうか。私自身、京阪電車とは昭和35年4月から6年間通学で、昭和54年5月から2年間通勤でお世話になった。毎日乗っている電車は、いつでも撮影できると思い込み、結果的に撮影しないというのが通例と言われているが、私も例外ではではない。とは言うものの、肝心なことは忘れても、些細なことは意外と覚えていることがある。そんなことを時折思い出しながら書いてみた。

 天満橋行

中之島線開業の影で、天満橋発着の定期列車がひっそりと姿を消した。天満橋行の行先板が黄色であったことはよく知られているが、それ以前は通常の行先板の他に向かって右側に「天満橋」の円板を付けていた 写真は昭和39年9月19日土曜日、学校帰りに寝屋川車庫を訪問した時に撮影したものである。

当時、本線の昼間のダイヤは20分サイクルで、淀屋橋~三条間の特急、急行、普通各1本、淀屋橋~枚方市間の区間急行が1本、天満橋~萱島間の普通が1本であったと思う。朝のラッシュ時も基本的に20分サイクルで深草(一部八幡町または三条)~淀屋橋間の準急が1本、枚方市から先は、枚方市始発の急行が1~2本加わった。この急行は白地に赤文字の円板で、時刻表には「大急」と表示され、枚方公園と寝屋川市にも停車した。また、淀屋橋開業以前、枚方市始発の区間急行で、枚方公園、光善寺を通過するものが1本あり、枚方市を発車する時は「臨」の円板を表示し、香里園で正規の区間急行の行先板に差し替えた。 

 

 

 

1300形と1600形の整った4両編成、

 1301は昭和36年3月8日、樟葉駅大阪寄りの渡り線付近で発生した脱線事故復旧時に、雨樋の位置が若干高くなりスタイルが変化した。この事故は23時40分頃現場を通過した三条発天満橋行急行(1306+1657+1658+1301)が脱線、最後尾の1301が築堤から転落したもので、隣の1658との連結器が切れなかったため、宙ぶらりん状態となった。翌日の3月9日、いつも通り中書島7時9分発の急行(1203+1505+1204+512+511)に乗車すると、八幡町で事故による枚方市まで単線運転のため暫く停車、同駅の大阪寄りの渡り線をバックして上り線へ、そのまま枚方市に向けて出発した。樟葉の渡り線は事故のため使用できず、枚方市までの単線運転となったのであるが、列車本数が少なかったのでこのようなことができたのであろう。(車号は当時のメモによるが文字が消えかかっているため誤りがあるかも知れない)帰りは未だ復旧しておらず、枚方市~八幡町間はバス代行であった。ちなみにその3カ月程前にも橋本駅の八幡町寄りで脱線事故があり、この時は八幡町~樟葉間が単線運転であった。

その後、大きな事故に遭遇したのは、昭和55年2月20日の枚方市~御殿山間で発生した置石による脱線事故で、勤務先からの帰宅時であった。萱島から普通に乗り香里園で乗換えた急行がこの列車で、枚方市で座れて一息ついたところで急ブレーキがかかり、大きく2回揺れ、車内灯が消えて停車した。前を見ると電柱が曲がっているではないか。最後部に乗っていたので事なきを得たが、先頭車両に乗っていたらと思うと今でもゾッとする。電車から飛び降りて線路から道路に出て駅に戻ったが、バスターミナルは乗客で溢れており、高槻、茨木方面のバス、運転を始めた代行バスともに超満員でとても乗れそうになく、諦めて樟葉まで歩こうと思い、牧野まで来たところで代行バスが停まり、降りた人がいたので乗ることができた。樟葉からの三条方面の電車はオール各駅停車で、行先札は付けずに「臨」の円板を付けていた。

寝屋川車庫 

事故の話題になってしまったが、当日寝屋川車庫で撮影した画像を紹介する。

1807

 

 

1852

 

1307

601 

651

632 

1659 

309

310 

601の台車

651の台車

【参考】昭和36年頃、朝の中書島発下り電車の編成

 6時48分急行 1000(1100)+1500+500+1500+1000(1100)

7時 9分急行 1200+1500+1200+500+500  (後2両は700+700のこともあり)

7時28分急行 1650+1300+1300+1300+1650

普通は2分、22分、42分発、八幡町で急行退避

3両編成で1000(1100)+1500+1000(1100) が多かった。

準急は16分、36分、56分発、枚方市で急行退避

4両編成で 600+500+1500(160016)+600が多かった。 

何分にも半世紀前の話で思い違いがあるかも知れない。


【776】CRHの旅Ⅱ Part7 京津城際鉄路 335km/h!

翌日は、中々乗車できないシーメンス社製の、CRH3の乗車を目指しました。

オリンピックのおかかげで、天津中心部から天津駅までの交通アクセスは、道路の拡張、橋の新設等があって飛躍的に早くなりました。以前、ラッシュ時は、タクシーに乗車して、30分ではとても行けなかったのですが、約10分で到着です。

天津駅は、1888年開設から120年を迎えました。駅構内の本屋に記念切符が売られていたので、早速購入しました。

新しくなった天津駅は、北京南駅とは異なり、CRH以外の列車も発着します。切符売場は、他の駅同様に、全国各地へと向かう長距離列車の切符を買い求める客で、混雑していましたが、北京南駅と同じ自動券売機が、設置されていまして、難なく購入できました。

CRH3を期待して、ホームに降りましたが、停車中の全列車は、京津城際鉄路の主役CRH2-300(略称;CRH2C)です。唐山で製造されているCRH3は、登場も遅く、製造が間に合っていないのでしょう。

昨日の最高営業速度324km/hは、本当だったのか、乗車すれば分かります。8両 編成の62Aは、満席で、定刻の9:55に静かに発車、北京南駅を目指しました。6分後には、200km/hを突破、隣駅の武清駅を通過すると、300km/hをオーバーして、やがて335km/hに到達しました。

北京近くまで、連続300km/hオーバーの走行を続けました。北京南駅には、定刻の10:25到着。到着後、車内視察をしました。CRH2との違いは、4M4Tから6M2Tに性能アップされ、パンタにはカバーが、設置されました。半室食堂車は、固定椅子に変更されて、スタンドも設置されました。

内装では、洋式トイレ2室から、1室は中国式に変更されました。洗面所は、2室から1室に減らされ、温風乾燥機付き洗面器はなくなり、普通の洗面器に変更されていました。前の方が便利でしたのに、サービスダウンです。

ふと、向かいのホームを見れば、CRH2の16両編成が発車待ちです。上海へと向かうCRH2のD31列車です。前回、上海から乗車した際は、8両編成でした。よく見ると、どこか違っています。

CRH2の16両固定編成です。今まで、16両編成がありましたが、8両固定編成を2編成連結した16両でした。これは、興味深い。

先頭車は、CRH-300と同様のマスクですが、パンタ設置車は、2台が搭載されています。パンタカバーもありません。8号車には、全室食堂車です。これは、新種です。公表はされていませんが、このCRH2は、高速型のCRH2Cに対して、CRH2Bと呼ばれています。

ホーム移動は、できます。行ってみました。まだ、乗客は乗車前でしたので、じっくりと見学しました。先頭の1号車は、CRH2で初めてのクロです。1号車から3号車までは、1等車が続きます。早くもCRH2は、バリエーションを増やしているようです。1等車3両、2等車12両、そして食堂車1両の編成です。そして全車の天井部分には、液晶TVが設置されていました。食堂車の椅子は、固定式で座り心地の良いシートに変更されていました。
一旦、出口から出て、再度入場しました。CRH3には、特等席があると聞きました。いったい、どんな席なのか見てみたい。乗ってみたい衝動にかりたてられました。しかし、自動券売機には、特等席の選択がありません。係員のいる窓口で聞く事にしました。

すると、CRH3には、各列車8席があるとの返答です。買いたいと申し出て、列車を探してもらいますと、13:40発車のC2041が見つかりました。2時間以上の待ち時間ですが、苦になりません。コンコース内のレストランで昼食をして、ゆっくりと待ちました。

しかし、購入した切符をよく見ると、天津方面の先頭側ではなく、最後部の8号車です。再度、窓口に行き、先頭部1号車の切符に変更を求めましたが、没有(ない)の一言です。執拗に聞くと、販売していないと言います。なぜなのかを聞いても、意味がさっぱりと、分かりませんでした。
それでは、乗車してから変更すればと良い思い、改札が始まって直ぐに1号車に行きましたが、特等席は、パソコンが設置されて、係員が何やらデータを取っています。どうやら、走行データ等を取っているのでしょう。

そもそも、京津城際鉄路は、全線試運転を1ケ月しかしていません。日本では、考えられない事です。オリンピックに間に合わせるために営業運転を急いだので、まだ、さまざまな走行データを取る必要があるのでしょう。これでは、変更はダメと言われても、仕方ありません。最後部の車両からの走行を楽しむ事に気持ちを切り替えました。

特等席は、運転席後部の2+1の座席です。席は、運転席後でした。走行向きにセットされていた座席を1回転して、ガラス張りの運転席仕切りからの、走行中の車窓を見る事にしました。

北京南駅を出ると、どんどんスピードを上げていきます。200km/hは、約5分で到達、8分後には、300km/hの世界に入って行きました。広い大地です。ほぼ直線を走ると思っていましたが、結構、曲線もありました。

試験運転では、394.3km/hを計測したCRH3でしたが、この日の最高営業速度は、332km/hでした。帰国時にも乗車したCRH-300も335km/h走行でした。ネットでは、開業当初は、347km/hを出した様子が動画で出ていましたので、何らかの事情で、335km/h以下に走行するよう制限を受けていると思われます。

しかし、遅延なしの余裕の走行でした。京滬高速鉄道では、このシーメンス社製の車両が、主役となると報道されました。北京南駅で展示されていた上海虹橋駅のパースにも、発着する車両は、CRH3のみでした。

ちょっと残念な気がしますが、損得勘定にかけては、世界で最もたける中国人です。性能優秀で安いとなると、直ぐに方針を変更するでしょう。
30分はあっと言う間でした。車両視察は、天津でゆっくりと決めていたので、乗客が降りてからにしました。
車幅は、CRH2とほぼ同じ、天井の高さも十分あって、車内の快適さは、甲乙つけがたいのですが、デッキの内装は、九州新幹線と同様な木目調で、落ち着きがあります。

何と言っても、運転席後ろに特等席があるのは、鉄ちゃんには、大感激です。次回は、是非に、前方からの350km/h車窓を、味わってみたいと思いました。

座席は、半室食堂車が、テーブルを挟んでのお見合い席ですが、他の2等車は、CRH2と同様の回転式です。ピッチもまずまずですが、窓との間隔が合っていません。窓なし座席があるのは、欠点です。1番の問題点は、CRH1、CRH5と同様に狭いトイレです。専用洗面所もありません。

日本では、JR大阪駅の有料化粧室が、大ヒットになったり、どこかの大学にも少子化対策で、女性専用化粧室が完備されたりしています。勿論、女性対象の百貨店は、言うに及ばず最近は、飲食店等にも、化粧室に力を入れる所が多くなってきています。

行く度に街が変わっていく中国です。女性のファッションも大きく変わってきています。列車内の洗面所の設置は、大いに求められてくると思います。

京津城際鉄路は、その後、9月18日にも時刻改正が行われ、57往復に増発されました。途中駅の武清駅も開業されて、全列車の内6本が停車(所要時間;35分)するようになっています。専用線ではありませんが、天津から開発区の塘沽(所要時間;55分)まで、往路6本、復路4本が延長運転されています。また、深夜は、D列車ですが、北京南~天津西(所要時間;40分)、2往復が、新設されました。

10月の国慶節の際は、1週間前でも切符が買えないほどだったと聞きました。中国で初めての、高速旅客専用鉄路、京津城際鉄路の開業で、飛躍的に伸びた輸送力は、これからも益々の増発で、両都市の発展に大いに寄与できる事が、容易に予測できます。

そして、2年後に万博を迎える上海周辺にも高速鉄道網が建設中です。国家経済発展には、なくてはならない高速鉄道網の整備にようやく気付き始めた中国です。中国鉄路の益々の発展を願い、また見ていきたいと思う中国特派員です。


【758】おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-6

マン島鉄道その5 SNAEFELL MOUNTAIN RAILWAY


マン電気鉄道がダグラスの東端(馬車鉄道と接続)を発し、ラムゼイに到るほぼ中間にラグゼイという町が川口から1.5kmほど引っ込んだところに展開しており、道路も電車も川の両岸を深い馬蹄形というか、U字型に迂回している。そのラグゼイからスネイフェル登山鉄道が分岐しているが、マン電気鉄道が軌間3フィートなのに、なぜか3フィート6インチである。どうせなら同じにすればと思うが、別段貨車がある訳でもなく、電車が直通もしないから、強いて同じにする必要もないのは確かではある。尤も建設時はマンクス・ノーザン鉄道の蒸気機関車の軌間を6インチ拡げて借り入れたそうだが。

例えばスイスのインターラーケン・オストからユングラウ・ヨッホへは、まず1000mm1500Vリンゲンバッハ方式ラックのベルナー・オーバーラント鉄道(BOB)、次いで800mm1500Vリンゲンバッハのヴェンゲルン・アルプ鉄道(WAB)、もう一度1000mm1125Vシュトルプ方式のユングラウ鉄道(JB)を乗り継がねばならないのに比べれば、何ということはない。

右はマンクス電気鉄道(軌間914mm)、左がスネイフェル登山鉄道(1067mm)

最初は蒸気動力で計画された由だが、1895年1月建設開始し、4マイル53チェーン(7.5km)の完工が8月というから驚きである。1/9(111.11‰)の急勾配だが、電車は粘着力だけで上れることが判明し、軌間中央に敷設されたサードレールは本来ロッヒェル式(水平両側ピニオン)の粘着版だったのを、下りのブレーキ用のみに使うように変更されたそうな。軌間に3フィート6インチを選んだのは、元来このサードレールの為なのであろう。同年12月鉄道全線は建設費を超える額で Isle of Mann Tramways & Electric Power Co. に、のち更に Manks Electric Railway Co.に売却された。

電車の窓上端は一見イスラミックで、しかも窓は左右引き違いと、木曾森林鉄道等、地元大工が作った客車並。集電器の形態が独特である。これでもビューゲルというんだろうか。外国電車屋さんの解説が欲しい。乗降口は妻面向かって左角で、ステップが2段ある。

外側は綺麗に塗装され、有名なマヨルカ島の電車のようにニス仕上げだが、車内は外ほどでなく、ダブルルーフの下屋根、間柱部分に相当の補強がされている。座席は木製=古い教会の椅子のようで、背摺りは古い米国の客車のような「一応の」転換式である。

上りだすとすぐ濃い霧の中に突っ込んで、速度は遅いがともかく上り続け。地図で分かるように、等高線を斜めに横切り、かなり思い切った路線選定だが、一度主要道路を横切る踏切以外景色は何も見えず。最終地点では621mの頂上をぐるりとほぼ一周して終点である。登山道は等高線と直角で、一気に上る。

頂上は天気さえよければ眺望絶佳の由だが、ご覧のように濃霧の中。折り返す間建物に入ると、嬉や、ビールのポスターが貼ってあるではないか。ところが飲み物はジュースの類だけとは、馬鹿にするにも程がある。責任者出て来い!といいたかったが、語学力の乏しさでそれも叶わず。ただただ辛抱して発車を待つのみ。

このクラシックな電車はエアブレーキが無く、ハンドブレーキのみ。それも急勾配区間は車輪の踏面ではなく、サードレールの左右を運転手の人力で締める。その構造は写真を撮り洩らしたが、到って素朴単純。濃い霧で車輪がスリップし、砂が無くなって運転手が顔色を変え、運転席を離れて客室内の予備砂を取りにいったのにはいささか驚いた。以前ご覧頂いたオーストリーはリンツのペストリングベルクバーン(105‰)電車のように、普通ならカーボンランダムブレーキやマグネットブレーキを備えるところだろうが、ユニークなブレーキ専用サードレール方式が、この電車のウリなのである。

ともかく無事下界に到着。ラグゼイの接続地点はマンクス電気鉄道と隣接だが、レール配置を控えるのを怠り、どうなっているのかよく分からん。サブロクと3フィートがあたかも接続されているように見えるが、当然そんなことはない。おじん2人+1人の1人氏は、万難を排し寸暇を惜しんで線路配置を克明にメモする特技と熱意の持ち主だが、このときはいなかった。


右スネイフェル登山鉄道、左マンクス電気鉄道


【738】EF551 営業運転終了か

10月17日、JR東日本から冬の増発列車の発表があり、その中で、12月13日と14日に高崎~水上間に「さよならEF55みなかみ」、1月17日に上野~横川間に「さよならEF55碓氷」が運転されることが判明し、EF551はこの列車で営業運転を終了する見通しとなった。思えば昭和61年、長期休車から奇跡の復活を遂げ、以降イベント列車を中心に運転されていたが、ここ数年は運転回数が減少していた。また、平成16年3月25日から4月3日までの間、交通博物館の閉館記念イベントの一環として神田川沿いに展示され注目を浴びたことは記憶に新しい。

復活当初の画像から当時を振返ってみたい。

(1)   復活営業の一番列車

復活営業の一番列車は昭和61年7月25日に高崎~水上間で運転された「EF55復活記念列車・GOGOTRAIN」であったと記憶している。この列車を水上駅で撮影したが、EF55もさることながら、もっと感激したのは最後尾の戦災復旧3軸ボギー車「スエ7815」で、この車を見た瞬間思わず絶句した。当日の編成は次の通りであった。

EF551+スハフ422173+オハ472261+オハ472266+オハ472246+オハ472239+スハフ422071+スエ7815

 

 水上駅に進入する復活営業一番列車 昭和61年7月25日

折返しの上り列車 渋川~敷島間の利根川鉄橋

スハフ422173

オハ472261

思わず絶句した スエ7815

絶句したのは私だけ? 他の人はEF55に夢中

(2)   8月2日の列車

この日は最後尾の客車に「GOGOTRAIN」のテールマークが付けられていた。また、高崎機関区の一般公開が行われており、高崎到着後機関区で展示された。EF58172、EF15165、EF621、EF631、ED7539、EF8063等が展示されていた。

上牧~水上間を走る下り列車

上の列車の後部より(上牧は「かんまき」ではなく「かみもく」)

 

折返しの上り列車  上牧~後閑

高崎機関区にて

ターンテーブルで方向転換

(3)   8月6日沼津機関区

「東海道本線全通100年」の記念行事として行われた、沼津機関区の一般公開で展示された。他には、EF15184、EF538、EF6095、EF653、EF3017、DD161等と10月のダイヤ改正から運転される「するがシャトル」用の119系が展示されていた

沼津に出張  沼津はEF55の所縁の地である。


【705】乙訓老人の誘いに乗って



乙訓老人の[668]「仙台市電あれこれ」で拙老にチョッカイが出た。すぐ反応するのは沽券にかかわるから、しばらく待とうかとは思ったが、そこがこらえ性なのなさ、軽佻浮薄、おっちょこちょい、ヒマなどで、すぐ古いアルバムを探すため押入を引っ掻き回し、後始末もしないまま、いそいそとスキャンに取り掛かったのであった。

秋保電気鉄道(1959年7月1日以降仙南交通自動車と合併し仙南交通は1914年12月23日軌間762mm、秋保石材軌道として、動力馬力で開業。名の通り石材搬出が目的だが、終点湯元(後秋保温泉)は素朴な秋保温泉と川を隔てただけで、湯治入湯客も運んだ。1922年秋保石材電気軌道と改称、1067mm改軌及び600V電化し、1925年8月21日秋保電気軌道と改称して電車に。貨物は可愛い凸型電機EB101が牽引。

1944年7月20日運輸通信省鉄道総局業務局長、内務省国土局長連名の依命通牒「軌道ヲ地方鉄道ニ変更スルコトニ関スル件」=要は当局の事務簡素化のため、多くの軌道が地方鉄道に変更指導(強制)されたが、ここもそれにより1945年1月1日軌道から地方鉄道に変更した。


但し実態は何等変わらず、のんびりした1本ポールの田舎電車で最後まで終始した。言葉を変えれば、主力の電動車が車体をそのまま、2軸からボギーに改良された以外エアブレーキもなく、「近代化投資」は一切なされじ、2軸電動車は410、411以外予備役。すべて専用(新設)軌道で、道路併用区間はない。






拙老幼少のみぎり、親父が転勤族のため2年半仙台で暮らし、東二番町国民学校初等科に入学。この電車にも乗った覚えがあるが、長ずるに及び1955年再見。こんな超ちっちゃな電車だったことを確認した。幼少の記憶ではもっと大きい電車だったから、正直かなりのショックで、裁判での幼少者の記憶証言が本当に信頼できるものかどうか、本気で考えたこともある。


軌間は確かにサブロクだが、車両定規は狭く、軽便と大差ないのは、例えば静岡鉄道秋葉線等と同じで、カーブもきつく、そのためボギー化したのである。終点でのポール回しは、我々が見た時点では他に和歌山電気軌道市内線ぐらいであろう。ただ路面乗降はなく、すべてプラットホームがあった。1956年4月1日改正ダイヤでは15往復、16.0kmに53分程度を要し、昼間でも大体中間で離合する。長町-月ヶ丘間には30~60分毎でローカル列車が運行され、もっぱら半鋼製の410、411が当たっていた。

乙訓老人が黙ったいる筈もなかろうから、余計な写真説明講釈は省く。はるか後年、「おじん2人」の先達=相棒が仙台に単身赴任していた折、彼の車で何十年ぶりかで早朝秋保を訪ね、地元民用の質実剛健な共同浴場で朝風呂に。その折いいものを見せてやると、酒屋の車庫に案内された。これ何と、かつての超素朴な秋保温泉駅の上屋=1407の車掌がポールを回している背後の小屋そのもの=で、よく数十年も残っていたものだ。
写真で分かるように、左側に狭いプラットホーム、電車の線路は1本突っ込み。小屋の間口は4メートル程しかないから、自動車車庫と化しても2台並んでは入れられない。奥の壁にシルエット様の電車の断面を描いてあったから、酒屋の親父も洒落ている。

廃止は1961年4月13日許可、5月8日実施であった。