小春日和の11月25日、商用で京都へ向かうことになり、その前に大長老佐竹翁の写真展を鑑賞すべく烏丸御池駅へと向かう。愛用の日本橋駅から大阪市営地下鉄堺筋線に乗車、乗車券は阪急京都線大阪市営地下鉄堺筋線相互直通40周年記念乗車券と称するスルッとKANSAIカードを使う。大阪地下鉄全線と阪急京都千里嵐山線が一日乗り放題というものです。日本橋駅は地下鉄堺筋線千日前線と近鉄難波線の駅であるが、電車は地下鉄と近鉄のほか阪急も乗り入れていたのが今春から阪神まで走り出しいろんな電車に乗れるし便利になりました。
さて阪急の優等列車に乗り換えるべく淡路へと向かうが、淡路駅の手前では高架化工事がおこなわれており、広い空き地が見えてくる。空き地のむこうに梅田からの電車も淡路駅に同時に入線するのが見える。扉が開くや鶯の谷渡りよろしく新型ロマンスシート電車に飛び移る。幸い車端8席のボックス席の一つが空いていたのでしめたと着席するが、7人はすべて女性で?と思うが調べ物の書類があったのですぐ目を通す。終わってふと貫通扉を見ると女性専用車となっていたのでさっそく茨木市で停まるやまたまた次の車輌へ谷渡り。特派員のほかに20代の男性がもうひとり乗っていたが彼がどうしたかはわからない。茨木市を発車して隣の専用車を覗くとオッサン二人が閉じこめられている。ほんの10分ほどの間に同好の士3人を見受けたが、真っ昼間に女性専用車を走らせる必要があるのか困った社会である。特急が淡路に停車するようになって喜んでばかりいられない、「女性専用車両の社会学」堀井光俊著秀明出版会刊などという本が新聞広告に載っていたが、思いがけなく読んでみたい経験をしてしまった。
帰途は四条烏丸より通勤特急に乗るが、大宮・西院と停まるのでてっきり淡路にもとまると思っていたのに十三まで運ばれてしまう。。綺麗なお姐さんの出勤退勤には合わないし、凡人の退勤には遅すぎるのに21時頃の通勤特急とはこれ如何に。準特急というハンドルネームの投稿者がおられるが特急急行準急各停と分かりやすかったのがなつかしい。
最後に、阪急京都線大阪市営地下鉄堺筋線相互直通40周年を記念した臨時列車が12日5日と6日に運転されます。市営地下鉄車輌が天下茶屋~嵐山を一往復します。往路は天下茶屋~天六がノンストップで、大阪の地下鉄が京都の街を走る珍しい光景が見られる。今秋さいごの紅葉狩りをかねて嵐山へ行ってみませんか。
往路 天下茶屋10:19→11:24嵐山 帰路 16:32→17:36
大市交沿線にお住まいの通信員様に謹んでご案内申し上げます。
元新京阪線も八十路を超えておりますのでなにかとボケが出てきておるように思われます。「くみお君・特急」にご乗車いただく時には、ホーム先端にあるピンクの目印あればお避けになるとよろしいかと存じます。快速急行と通勤急行の判別は難しいと思います。日頃、普通と準急を愛用している老人も、烏丸、大宮、西院と停車したので快速急行だと思っていたら通勤特急で、降り損ねたことがあります。
通信員ご愛用の66系、2両以上置き去りにして嵐山へお越しになるようにお伝え下さい。老人は12/5,6共に東上しております。今回は江戸藩士の皆様と出会うことが叶いませんので、関東連絡網のみなさん、お許しください。
ぜひ嵐山線の66系を拝見したいものです。桂までは何度か「試運転」で見ております。京の紅葉パート2は今夜でお終いのようです。
まったくまったく別のお話しで済みません。お尋ねでがあります。
乙訓の老人さんが昨年祇園・唐船で写真の現像をされていた・・という一文に行きつきました。
実は、10月末大学の同窓会があり、卒業以来37年振りの友人と再会しました。彼には学生時代唐船に連れていってもらったことがあり、そこで初めて食べたアイスクリームの天婦羅に目を見張った事などを思い出し、唐船にもう一度行きたいと思ったのですが見つけられなかったのです。ネット検索で乙訓の老人さんに行きつきました。今どのようになっているのかご存知でしたら教えてくささい。
土肥一代さん。どちらさんか存じませんが、唐船の事にお問い合わせ頂き有難うございます。沖中一族でも風化してしまいました。店は解体され何も残っていません。場所は弥栄中学校(残っているかどうか?)の南裏側。裏小路の中央に南へ下る露地がありますが、その西南が敷地でした。主人が不動産取引に失敗、大変な借財を抱え込み、それで手放したと聞きました。その前に何度目の奥さんか知りませんが、表のバーを任せていたマダムに金を持ち逃げされ、失意の中にあるとき長男(阪大出身の医者)に引き取られたとの話を耳にしました。その後、老人ホームで亡くなり、西方浄土へ旅立ったそうです。老人の父親と唐船の主人との関係は良く知りません。主人の方は幼馴染だと言っていましたが、歳は10才以上離れていたと思います。父親の出生地でも主人に関わる話を聞いたことなく、老人の中学校の頃に主人は当家に出入するようになりました。老人が結婚した時もお祝いを頂きましたので連れ合いと2人でお礼に伺いました。これが唐船訪問最後でした。父親と唐船を舞台とした話はいくつかあります。その中に老人も紛れ込んでいたのです。
キャノン・セレナー50ミリ(沈胴式)は主人に成人祝いで貰いました。
乙訓の老人さま、私は京都産業大学のOGです。
同志社大学鉄道同好会OB会のブログにお邪魔させて頂き、貴ブログに全く関係のないお尋ねに快くお返事を頂戴いたしました事、本当に感謝いたします。
唐船のあった場所・・・路地・・・記憶が蘇ってきます。
唐船が随分前に無くなっていた事は寂しく残念でなりませんが、形あるもの何時かは無くなるのが世の常、老人さまには唐船のご主人との多くの思い出があるようですが、これは何時までの記憶の中に、そして私も唐船のあの天婦羅が今も鮮明によみがえります。きっといつまでも・・・ありがとうございました。
大坂通信員さん、本3日、松尾駅で66系001編成と出会いました。2両置き去りではなく、中抜きでした。14:20ごろ桂へと思いホームに上がりましたら、若者その他とり鉄がウロウロしています。手じかな学生らしき男に「なにごとや?」と尋ねましたら「大市交の乗り入れ列車の試運転です」「そら面白いな、私もチビのために撮ってやろう」とポケデジを取り出しました。学生らしき男は「前のほうにようけい固まってるし絵にならへん」とぶつぶつ。「人や自動車がおるほうが自然でええがな」「一般の人はそれでええかもしれんけど、鉄はそうはいかんのや!」
老人は一般人らしいのでホッとしました。66系は14:30、ろみお君と交換して嵐山へ、折り返し14:43には再びろみお君と交換、桂へ。老人は66系に乗れず14:47発のろみお君で桂へ向かいました。
ところで通信員さん、京産大のOGの方の素性はどんな方なのでしょうか、唐船は値が張る店で庶民向きではなかったのです。アイスクリームの天婦羅だけでもOK
でしたが、その時はカウンターで、老人は一度も払ったことなく、人気のあったアイスクリームがいくらであったか全くしりません。父親、それにつながる商学部の教授の月給では払えるような店ではなかったのです。松竹京都撮影所の高収入者が利用していました。東宝の森繁久弥が来ると、主人が車を廻してくれ、あこがれの俳優さんの席の隅っこで話を聞いたことがあります。今は昔です。
私は京都祇園「唐船」の倅として呼び戻された過去があるものです。
当時 「弥栄中学」3年生で登校しながら「唐船」で丁稚の衣装を着せられて
玄関左横の「田舎家」で店番をさせられていました。
下記私の個人ウェブサイトにわずかではありますが今は亡き親父と「唐船」の写真を掲載
しております。
http://www.asiandbjapan.com
[Late father and KARAFUNE] をクリックして下さいませ。
Webの検索でこちらの記事にたどり着きました。
私が高校生の当時(1975年頃)、京都BALの中に”我手吾手”というお店がありました。京大の近くにもお店があったそうですが、なぜか記憶の片隅にずっと残っていました。
何気なくパソコンで”我手吾手”と検索していたら能勢さんの書き込みに偶然たどり着きました。
ずいぶん前の事で、間違っているのかも知れませんが、もし何かご存じでしたら、お返事いただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
松尾 伸治
1975年から10年間京都に住んでいた者です。BALの我手吾手、良く知ってますよ!
私は全く祇園には縁がありませんが親友に祇園の住人がいまして「唐船」を知っているか?と尋ねたところ、親父さんには小さいときからかわいがってもらったとか中川さんは同志社の1~2年上だったとか言っています。
ご主人はなかなか風流な方らしく、映画に出たりされていたとか。縁とは不思議なものですね。
米手作市 様へ
「同志社の1~2年上だった」のは私のひとつ上の実の兄「敬一」です。
当時敬一は同志社岩倉で演劇部でした。
私も当時親元を離れ大阪の新劇「テアトロQ」に在籍しクライスト作「壊れ甕」で
主人公の親父役を務めました。
以後、兄も、私も親元を離れそれぞれに事業を始め会社を設立し親とは
独立していました・・・・・
一番上の兄は親父の本家の大阪で開業医でしたが親父より先に
病により死去、親父がなくなる時には「敬一」が看取る事となり「唐船」を
継ぐべく期待されていましたが兄も、私もどこか親父と似た
向こう意気の強さが別の道を進む結果となり、
今思うに親父を支え切れなかった2人共に親子としての何かが親子3人共に
欠けていたものがあったのだと悔しい思いです。
子供として振り返るに 祇園「唐船」は何にも勝る親父だけの宝でした。
彼に伝えておきます。
彼とは通称「ブル」といいまして祇園では「武ちゃん」と呼ばれていました。
同志社大学がラグビーで前人未踏の全国三連覇をしたときの監督でした。
「乙訓の老人」「土肥一代」様に、お尋ね致します。
親父と一つ屋根の下で暮らしたのは1960年、前後約3年ほどの記憶しか残っておりません、親父と女将さん(百合子)、お初つぁん、板場の「半さん」、兄の敬一、私「弘」その他仲居さんと通訳出来る女性の方が居た記憶があります。
親父が老人ホームに居たことも、そこで亡くなったことも、全く誰からも教わっていませんでした。
兄から病院に見舞いに行った時親父が泣いていたとまでは聞きましたが、それ以上の
詳しい経緯については聞かされずにいましたので「乙訓の老人」様の一文を見て驚いている次第です、出来ればも少し「唐船」の終盤に至る下りをお聞かせ頂きたいと思いますが、宜しくお願い致します。
お葬式の日取りを聞き兄の会社「我手吾手」と私、弟の会社「LUCY」で葬儀を致しました
「唐船」も今は会館の様な建物になっていますが、
下記私の個人ウェブサイトにわずかではありますが今は亡き親父と「唐船」の写真を掲載
しております。(未掲載ですが親父の写真等他にも唐船にまつわる沢山の個人資料があります)
http://www.asiandbjapan.com
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2009 年 12 月 24 日 3:27 PMの訂正
http://www.asiandbjapan.com/keiichi/karafune1.html