記憶の中の京阪電車(1)

10月19日、中之島線が華々しく開業し、関西在住のクローバー会の皆様の中には初日に乗りに行かれた方も多いのではなかろうか。私自身、京阪電車とは昭和35年4月から6年間通学で、昭和54年5月から2年間通勤でお世話になった。毎日乗っている電車は、いつでも撮影できると思い込み、結果的に撮影しないというのが通例と言われているが、私も例外ではではない。とは言うものの、肝心なことは忘れても、些細なことは意外と覚えていることがある。そんなことを時折思い出しながら書いてみた。

 天満橋行

中之島線開業の影で、天満橋発着の定期列車がひっそりと姿を消した。天満橋行の行先板が黄色であったことはよく知られているが、それ以前は通常の行先板の他に向かって右側に「天満橋」の円板を付けていた 写真は昭和39年9月19日土曜日、学校帰りに寝屋川車庫を訪問した時に撮影したものである。

当時、本線の昼間のダイヤは20分サイクルで、淀屋橋~三条間の特急、急行、普通各1本、淀屋橋~枚方市間の区間急行が1本、天満橋~萱島間の普通が1本であったと思う。朝のラッシュ時も基本的に20分サイクルで深草(一部八幡町または三条)~淀屋橋間の準急が1本、枚方市から先は、枚方市始発の急行が1~2本加わった。この急行は白地に赤文字の円板で、時刻表には「大急」と表示され、枚方公園と寝屋川市にも停車した。また、淀屋橋開業以前、枚方市始発の区間急行で、枚方公園、光善寺を通過するものが1本あり、枚方市を発車する時は「臨」の円板を表示し、香里園で正規の区間急行の行先板に差し替えた。 

 

 

 

1300形と1600形の整った4両編成、

 1301は昭和36年3月8日、樟葉駅大阪寄りの渡り線付近で発生した脱線事故復旧時に、雨樋の位置が若干高くなりスタイルが変化した。この事故は23時40分頃現場を通過した三条発天満橋行急行(1306+1657+1658+1301)が脱線、最後尾の1301が築堤から転落したもので、隣の1658との連結器が切れなかったため、宙ぶらりん状態となった。翌日の3月9日、いつも通り中書島7時9分発の急行(1203+1505+1204+512+511)に乗車すると、八幡町で事故による枚方市まで単線運転のため暫く停車、同駅の大阪寄りの渡り線をバックして上り線へ、そのまま枚方市に向けて出発した。樟葉の渡り線は事故のため使用できず、枚方市までの単線運転となったのであるが、列車本数が少なかったのでこのようなことができたのであろう。(車号は当時のメモによるが文字が消えかかっているため誤りがあるかも知れない)帰りは未だ復旧しておらず、枚方市~八幡町間はバス代行であった。ちなみにその3カ月程前にも橋本駅の八幡町寄りで脱線事故があり、この時は八幡町~樟葉間が単線運転であった。

その後、大きな事故に遭遇したのは、昭和55年2月20日の枚方市~御殿山間で発生した置石による脱線事故で、勤務先からの帰宅時であった。萱島から普通に乗り香里園で乗換えた急行がこの列車で、枚方市で座れて一息ついたところで急ブレーキがかかり、大きく2回揺れ、車内灯が消えて停車した。前を見ると電柱が曲がっているではないか。最後部に乗っていたので事なきを得たが、先頭車両に乗っていたらと思うと今でもゾッとする。電車から飛び降りて線路から道路に出て駅に戻ったが、バスターミナルは乗客で溢れており、高槻、茨木方面のバス、運転を始めた代行バスともに超満員でとても乗れそうになく、諦めて樟葉まで歩こうと思い、牧野まで来たところで代行バスが停まり、降りた人がいたので乗ることができた。樟葉からの三条方面の電車はオール各駅停車で、行先札は付けずに「臨」の円板を付けていた。

寝屋川車庫 

事故の話題になってしまったが、当日寝屋川車庫で撮影した画像を紹介する。

1807

 

 

1852

 

1307

601 

651

632 

1659 

309

310 

601の台車

651の台車

【参考】昭和36年頃、朝の中書島発下り電車の編成

 6時48分急行 1000(1100)+1500+500+1500+1000(1100)

7時 9分急行 1200+1500+1200+500+500  (後2両は700+700のこともあり)

7時28分急行 1650+1300+1300+1300+1650

普通は2分、22分、42分発、八幡町で急行退避

3両編成で1000(1100)+1500+1000(1100) が多かった。

準急は16分、36分、56分発、枚方市で急行退避

4両編成で 600+500+1500(160016)+600が多かった。 

何分にも半世紀前の話で思い違いがあるかも知れない。