京阪電車で、まず頭に浮かぶのは「特急」であろう。我々の世代が現役の頃は1900形の全盛期であった。1900形の特徴は、他社の特急車両に固定編成が多かったのに対し、各車単独車両で、自由に編成が組めた点であろう。それ故、○時の特急は「1新車5ピンク」だったとか「4新車2ピンク」だったとか編成そのものが話題になった。「特急」は京阪の看板電車であり、特急を利用できない乗客にとっては「よそ行き」の電車に見えた。私の場合は通学の6年間、通勤の2年間、自宅、通学通勤先の最寄駅共に特急停車駅でないため、急行以下のいわば「普段着」の電車を利用した。その頃の思い出を断片的ではあるが紹介して、同世代の皆様に「ああ、そんなこともあったなぁ」等と思い出していただければ幸いである。
1000系の珍編成
昭和43年10月10日、昼休みにBOXに行くと、京阪で通学していたA君から「宇治行で1100+1000+1200の3両編成を見た。1100と1000は同じ向きに連結されていた」という話を聞いた。午後から授業があったかどうかは忘れたが、直ぐに自宅に戻り、カメラを持って中書島に行き、暫く待つと、1202+1005+1107の3両編成が来た。こんな編成を見たのは初めてで、この電車で六地蔵まで行き、折返しの三条行きを撮影した。
中書島に進入する 1202+1005+1107の3両編成
1005と1107の連結面
木幡~六地蔵間を走る 1202+1005+1107
1107
市電800形連結車
この日は次のようなオマケが付いた。自宅に戻るため中書島から市電⑱(839)で伏見線を北上し、勧進橋まで来たところで、動かなくなり、乗客は全員降ろされた。暫くすると稲荷から来た⑲(852)を頭に連結、先ほど降ろされた乗客を全員乗せて発車して行った。
当時の伏見線は昼間オール800形、ラッシュ時に500形が応援に入り、たまに600形が入った。最新の700形はまず入ることは無く、900形は正月、節分、初午の超繁忙期のみであった。
故障で立往生している⑱(839)の頭に⑲(852)を連結
⑱(839)を牽引して発車