河原町線廃止前の市電・市バス
つぎは市電河原町線の廃止(昭和52年9月末)の時に見られた市電・市バスの共存です。(1)(2)の時代と比べると、車掌の乗ったツーマンカーは3つの系統が残るのみで、あとは多区間車にもワンマンカーが占めるようになります。また3両のみですが、市バスにも試作冷房車がお目見えしたのも、この時期です。車両全般のナンバーで言うと、昭和44年5月までの会社ごとの割当式の登録ナンバー車「京2い」バスが次第に少なくなり、以降の届出制の登録ナンバー「京22か」が多数を占めるようになります。
▲河原町丸太町停留場から北を見る。市電5系統1920号と、市バス200乙系統京都駅前・西大路九条行きワンマン。車両は、「京22か14-55」で、昭和51年式の日野RE100で、前年の市電丸太町・白川・今出川線の廃止時の代替バスとして、大量に製造された大型の低床バス、冷房つきで、方向幕も格段に大きくなった。系統番号の窓は、従来は正面左だったが、よりバス停留場に近い位置のほうが視認しやすいとして、右側に移動された。背後に見える建物は、以前は立命館大学恒心館、当時は救世教の救世会館だったが、1週間ほど前に通ったら、きれいに更地になっていてびっくりした。
▲河原町丸太町で、市電5系統2609号と、4系統京都駅前行きワンマンの珍妙な市バスは、以前にも紹介の電気バス「みどり号」、排気ガスによる空気汚染が社会問題化していた頃、電気バスの研究・開発が各都市で進められ、京都市では、廃止後に保管されていたトロバスの車体を再利用、地元の日本電池で電気バスに改造され昭和47年10月にデビュー、「みどり号」の愛称が与えられた。形式はTB13で、「京22か・689」がナンバー、八条車庫に配置されて、京都駅八条口~深泥池の4系統専用で、一日2往復した。実用化された電気バスとしては、大阪、東京に次いで、3例目だった。
▲河原町二条で、市電5系統1839号と、市バス3甲系統の北白川仕伏町行きワンマン、車両は「京2い・958」で、昭和45年式の日野RE100、系統の「甲」「乙」の意味は、もともと市電時代では、車庫から見て、右へ出る系統を「甲」、左へ出る系統を「乙」と呼ぶ局内呼称があったが、代替市バスでも200、220、222など循環系統には同様の意味を持たせて、系統番号にも付していたが、次第にその意味が薄れ、本来の系統を、延長、短縮、一部経路の変更など、本来の経路とは異なる系統に「甲」「乙」を付して、区分するようになった。最近は、語感の古さを払拭するため、「特」などと表示されるようになった。
▲河原町二条~河原町三条、御池の交差点で並ぶ、市電5系統1863号と、市バス3系統梅津車庫行きワンマン、車両は昭和43年式の日野RE100、ボディは西日本車体工業製だが、二灯であり、当時では最古参の部類だった。背後の島津製作所も懐かしい。▲河原町三条を北へ向かう、市電5系統2609号と、市バス5系統岩倉操車場行きワンマン、紺色の円板は多区間のワンマンカーであることを示しているが、現在は岩倉地区が均一区間になったため、5系統も単区間となった。車両は「京22か10-93」で、昭和49年式ふそうMR410、米手さんの支店のほか、背後の看板類に当時の活気を感じる。▲早朝の河原町三条~四条、市電13系統1800形と、市バス215系統烏丸車庫行ワンマン、200番台系統は、市電の代替バスで、200を差し引いた「15」が市電の系統となる。車両は「京22か・966」、昭和49年式ふそうMR410で、前掲のバスと同じ年式・形式だが、ボディは呉羽自動車工業製になっていて外観は異なる。▲四条河原町新京極に停車の市電5系統2609号、信号待ちするのは市バス10系統祇園行きワンマン、いまも経路を変更して系統は存続している。車両は「京2い・316」、昭和43年式いすゞBA30、ボディは川崎車体、雨樋を鉢巻状にして前面にも巻いている。いすゞ専門に供給していた。▲四条河原町下ル付近、市電5系統1921号と、市バス43系統の東土川行きワンマン、三条京阪発で河原町通を経由して東土川へ向かっていた。現在では、四条烏丸を始終発とする経路に変わった。車両は「京22か12-76」で、昭和50年式いすゞBU04、ボディは川崎車体。背後の四条河原町阪急は、華々しくオープンしたばかり。しかし絶好の立地なのに業績は下降線、代替わりした京都マルイも、輪をかけて不振で、わずか9年で閉店、この春、三代目となる京都河原町ガーデンがオープンする。
バスファンという訳でもないのですが、この時代は市バスの利用も多く、見覚えのある車体ばかりです。
中学生の頃から気に入っていたバスの車体は、どうやら西日本車体工業製だったようです。他にはないシャープなデザインと、下端にRのついたアルミサッシの窓に魅力を感じておりました。ところが、記事を拝見しますと複数の形式があって、シャーシとボディが別々のメーカーによって製造されていたことを知りました。同じ形式でもボディメーカーが違うと、全く別物に見えるだけでなく、製造された年度によっても違いがあるなど、一筋縄ではいきません。そういえば、同じボディのように見えても、後部扉が折り戸と引き戸の違いがあったことを思い出しました。
昭和50年代になると、系統番号と行先の表示も、ずいぶん大きく見やすくなりましたねぇ。ただ、市電河原町線廃止の頃に免許を取り、市バスに乗る機会が少なくなったのは、皮肉なことです。
河原町通りの写真を見ると、あまりの変わりように戸惑うばかりです。大型の商業ビルが増え、看板が消えた街並みは殺風景に見えて仕方がありません。書店やカメラ店、飲食店の看板を見ると、河原町通りを歩いた若い日を思い出します。
荒神口の救世会館が更地になってましたか! 西側にあったカメラのミヤガワ、東側の福助を思い出しますが、ずいぶん変わったことでしょうね。
紫の1863さま
バスと京都の思い出、聞かせていただきました。バスは、鉄道車両と違って、ボディーとシャーシは、別々の製造になり、現在でこそ、系列の純正ボディーが造られていますが、少し前までは、数社のボディを架装していて、同じ型式でも、見た目は全く違うバスになりますね。これが、バスの面白さでもあるのですが、私などは、なかなか入り込めないところです。
西日本車体工業のボデー、いいですね、私も好きです。東京では例外を除いて供給がなく、あの尖ったデザインを見ると、西日本にいることを実感します。
救世会館が跡形もなく無くなっているのは、私も驚きました。つぎは何の施設ができるのでしょうか。ミヤガワも福助も、確かにあったと思いますが、もともと繁盛している様子は無く、この時期、どうなっていることでしょうか。
懐かしい写真にビックリ!
今はあのビルも更地となっています。久しぶりに河原町通をあるいてみましたが、かつてあった老舗のお店はほとんどなく、東京や大阪のチェーン店やカラオケ、携帯電話店などばかりで、子供の頃に「京宝で映画を見て河原町を散歩しようか?」が楽しみだったことが思い出されます。朝日会館、四方さんの画材店、中華料理のハマムラ、大和民芸店、文房具の今中壺中堂、北山時計店、京劇、イレブンビルとヒロタのシュークリーム、名前は忘れたがその南側の本屋、家邊徳時計舗、京都書院、オーム堂、みんなさようなら!
米手さま
私も改めて写真を並べて見て、その変わりように驚いています。いまは米手さんのおっしゃるとおりで、品格が感じられない通りとなりました。私の通っていた公立中学の通学区域に当たり、知人もたくさんいたのですが、みんな散り散りになりました。それにしても、よく店名がスラスラ出てきますね、その当時は、相当ブイブイ言わしておられたことと思います。
ブイブイ!