デービスさんの貴重なカラー写真をたびたび見せてくださっている宮崎繁幹さんから“折り入っての頼み”が来ました。
それは宮崎さんの大先輩に当たる鶴田裕氏に関するものでした。一部をご紹介します。
《大先輩である、鶴田裕さんが 東京の池袋にあるギャラリ路草で、写真展を開催しています。
昭和30年頃の鉄道をカラーで記録した全50点位。大部分がコダクロームでの撮影で、まさに圧巻の記録です。 この写真展は2週間行われた後、5月6日~17日に場所を大阪・天満橋にあるリコーイメージングスクエアに移し、関西の 皆様にもお目にかけるとのこと。 そこでお願いと云うのは、添付の南海の駅が何処なのか、デジ青で取り上げ、教えて頂けないか、と云うものです。
何分、65年も前の話で、ご本人も記憶が怪しくなり、取り巻きも関東人ですので、南海に詳しい者が居りません。 本日、会場で質問されたが小生も判らず、では関西の方々に伺ってみましょうということで、引き取って参りました。 誠に勝手なお願いですが、新島精神を御発揮頂けないかと存ずる次第です。
現在この写真は、 駅名不詳で、展示されていますが、天満橋では、駅名を 明らかにしてお目に掛けたいとの希望だそうなので、 なにぶん宜しくお頼み申し上げます。》
“新島精神を発揮してくれ”とのご依頼なら、受けざるを得ません。
そこで最近無聊を託っている「デジ青探偵団」の皆さんに出動をお願いしたいのです。
では写真をご覧下さい。
写真が少し不鮮明ですが、昭和30年頃のカラー写真がすばらしい精度で残されているのは驚きです。
一緒に送られてきた展覧会の案内状も貼りますので行ってみてはいかがでしょうか?
お久しぶりです。88年度生の子パンダの保護者でございます。
直感ですが、みさき公園かなと思いました。
手前の切り欠きホームが、支線っぽいこと。
電車が和歌山の方向に向いていることから、海側へ延びる支線であること。
高師浜線の羽衣はちょっと考えにくい(町の中であることから)。
加太線は逆方向に分岐することや、11000系の貫通型なので、切り替え前の可能性もあります。
そうなると、多奈川線が分岐…かなと感じました。
「みさき公園」(あるいは「南淡輪」)でしょうか。
乗り場案内も、支線から本線への乗り換えの人向けのような雰囲気ですが…。
何せこの頃にはまだ生まれていませんので間違っていたらご容赦ください。
はやっ!
ありがとうございます。
エラそうに言いましたが、南海は「昭和の電車」でも書き込みはなかなかありません。
ここまで絞ってくださったことに感謝致します。
子パンダの保護者さんが言われるように「みさき公園駅」だと思います。「みさき公園駅」で検索すると岬町のHPにある「思い出の写真がラリー」の中に1980年代の改修前の駅の写真がありました。木造の信号取扱所が写っているので間違いないと思います。背後の大阪側に写っている切通斜面も昔の写真にあったのでほぼ間違いないと思います。だれか写真を持っていないのでしょうか。淡路島へ運行していた客船に乗るために通っているのですが、写真は撮っていませんでした。
どですかでんさん
探してみましたがこの写真でしょうか?
米手作市様
出発信号機の位置などからも間違いないでしょう。それにしても、「みさき公園」駅の写真がすぐに出てくるのがすばらしいですね。
お恥ずかしいが、どですかでんさんが書いている「岬町公式HP」にありました。配線図はwikiからの流用です。
それにしても「これが証拠や!」と会員が撮った当時の写真が欲しいものです。
駅配線図
そうです。この写真です。ところで私のコメントで切通斜面が写っている写真は米手さんが投稿された写真のことです。岬町のHPには1960年代のみさき公園駅正面の裏側の丘が削りとられた斜面が写った写真があります。投稿された鶴田さんの写真には切通のような感じでしたが、実際は切通ではなかったようです。ところで鶴田さんの写真のホーム高さは低いようですね。1980年代の写真にあるホームは何かかさ上げされたように思います。ところで朝日新聞が5万号記念で別刷りであった「カメラが見つめた私鉄の歴史」に1941年の南海難波駅写真と解説文で「・・74年から行われた改良工事でホームの位置は高くなり、・・・」とありました。ところでなんで低かったのでしょうか。客車と同じような感じだったのでしょうか。
米手さま、そして「デジ青探偵団」の皆様有難うございます。本日、会場に出向き調査結果をご報告して参りました。えぇ~もう判ったんですか!、と云う感じでしたよ。当方の勝手なお願いを快くお聞き届け頂いたうえ、かくも迅速に解明頂いて、心より感謝申し上げます。撮影者の鶴田裕さんは、ピク誌を中心に、ときどきカラー作品を発表されておいでですが、今回の写真展では、初見のものが多く、びっくりでした。大阪会場でのお披露目まで、未だ日がありますが、是非ご覧になり、お楽しみください。
どですかでん様
子パンダの保護者です。
「・・74年から行われた改良工事でホームの位置は高くなり、・・・」
ですが、おそらく、難波駅のホームが2階から3階に移転したということではないかと思います。
元から高架でしたが、10連化することやなんばCity(ショッピングセンター)を作ることから、ホームの位置が高くなっています。
子パンダの保護者さん、位置が高くなったの意味がよく分かりました。ありがとうございます。ちょっと変だと思いながら、かつてのドーム屋根であった頃の難波駅高野線の写真を見たら低くなっていないし、どうしたもんかと思っていました。しかし、子パンダの保護者さんのみさき公園駅かもしれないという洞察力は大したものだと思いました。
宮崎繁幹さん
お役に立ちましてなによりです。
我が優秀な探偵さん達の実力が発揮できてうれしい限りでした。
今後ともご利用をお待ちしております。
私は展示会に行かせて頂きます。
宮崎さんは来られますか?
本日また鶴田さんの写真展へ行って参りました。というか、お隣の部屋では、慶応鉄研三田会の写真展が行われており、そちらを見る序に、再た寄ったと云う訳です。教えて頂いた南海の駅のキャプションが、直っているかな?、と見てみます。ボールペンで追記してある程度かと思ったら、札そのものが作り変えてありました。本気度が知れると云うものです。写真を撮って、デジ青の皆様にご報告したいと申し出たところ、OK。更に皆様には、感謝の向きを宜しくお伝え下さいとのことでした。
お役に立って何よりです。
これをご縁にして協力していきましょう。
鶴田様によろしくお伝えください。
宮崎様
きちんとキャプションが作り替えられているのはさすがですね。撮影日からして「南淡輪駅」と記され、さらに翌年みさき公園駅に改称と書かれているのもすごいです。
「みさき公園」そのものは南海のレジャー施設が昨年閉園となりましたが、跡地は引き続き町営公園として残るようですので、駅名は当分変わらないでしょう。しかし「♪き~りん、ライオン、お~友だち」の語句も入っていた、「♪なぁ~ん、なぁ~ん、南海電車」のCMソングが懐かしく思えるのは私だけでしょうか。
米手作市さま
よくぞこんなのを!なんぼしぶちんとはいえ、これを持っておられたとも思えず、発掘技術と不屈の精神に感服いたします。
既述のように京阪ソングはよく知っていましたが、南海の歌は〆の「♪なぁ~ん、なぁ~ん、南海電車」の降りは何となく記憶にありますが、「♪き~りん、ライオン、お~友だち」は全く知りませんでした。
南海電車は母の里帰り時に天王寺駅に出入りする天王寺支線を眺めていただけでしたが、小学校卒業前に父の出張に付いていった際、難波から和歌山市まで2扉クロスシートの急行に乗ったのが最初でした。歌詞にもありましたが、何となく遠くの南の海へ行くような気がして、クロスシートの電車と共にちょっとした憧れをもった時期もありました。
余談ですが、父は和歌山で仕事を終えてからキハ20型3両の椿(当時)行で白浜へ向かいました。なぜか乗車したキハ20 247の車番を覚えています。翌日の帰路は当時の紀勢西線の最優等列車だったキハ55系全車指定席の準急「きのくに」に乗りたかったのですが満席のため、スハ32系を主体に編成された臨時週末準急「くろしお」になりました。微かに覚えているのは東和歌山(当時)からEF52に牽引されたことです。当時既にED60が居たはずですが、臨時のため古老機が当てがわれたものと思われます。東和歌山までは勿論SLだったはずですが、形式等は全く認識していませんでした。
お言葉ですが、私は“渋ちん”でも“ケチ”でもありません。
物持ちがいいのと記憶力が「ところどころ」いいのが長所です。
“不撓不屈の精神”とおほめくださいましたが、貴兄のように駅弁屋に命の危険を顧みず、「清姫一夜寿司」を取りに行かせるような“ゴウマン”さは持ち合わせておりません。
そこのところをヨロシク!
1900生さんが乗りたかった列車
ED60牽引の準急
米手作市さま
いやあ驚きました。ちょっとコメントするとパッと写真が出てきますね。色んなストックをお持ちなのですね。まるでドラエモンの何でもドアのようです。いや鉄道アーカイブの「神の手」かな。
2両目はスロハ32でしょうか。田辺に何両か配置がありましたね。右のクハ76も加わり、これだけ揃うとここは東和歌山ですね。