老人は同志社中学校2年(1952年)の夏休み、はじめて汽車による一人旅をしている。電車では小学校3年(1948年)以来、折に触れ奈良電、近鉄橿原線、同大阪線経由で父親の出生地(奈良県宇陀市古市場)往復を一人でしていた。汽車の旅となると母親の出生地(島根県吉賀町六日市)となり、小学2年の時の往路は父母同行、復路は9歳上の兄の迎えによるもので、以後なく寂しい思いがしていた。小学校の頃から地図を見るのが好きで、父の本棚にあった冨国書房・大日本帝国地理体系を引っ張り出していた。地方鉄道の電化線が赤線となっており、どんな電車が走っているのか、電車少年には興味そそられるものであった。中学2年の社会は地理中心で、フォッサマグナ(中央構造線)なる言葉を知った。その北端が北アルプスと知り日頃、標高1000m以下の山に囲まれての生活だけに高い山が見たかった。
この年は初めてアルバイトをしている。先のアイキャン屋の長女が従兄と結婚、縁類になることにより「たぁちゃん、みたらし団子づくり手伝って」となり、日給200円12日分、2,400円の大枚を手にしたのであった。これをどう使うか、かねて汽車の旅がしたいと願っていた老人は北アルプスと電車(松本電鉄と長野電鉄)、更に東京電車見物の旅の許可を父母に願い出た。父は即座にOK、長野で旅館を手配してくれた。善光寺参道東側”宮林旅館”であった。母は東急沿線大岡山駅近くの従兄に連絡してくれた。
さて中学2年生は盆明けに中央西線の夜行で先ず松本に早朝到着した。駅ホームで洗顔後、2食目の焼きおにぎりをほおばり、関西と違い丸味の少ない高床木造ボギー車で島々線往復をした。外部塗色は濃い茶色一色だった。次いで浅間線、ここは正面幕板(額)が広い高床木造ボギー車で、運転台を兼ねた出入口部が一段下がっているN電並みの車体構造であった。外部塗色は上高地線と同じ、この2線に乗ることが出来た。北アルプス連峰はどうだったか、全く覚えがない。昼飯は多分コッペパンを牛乳と共に腹へ流し込んだのであろう。午後は長野に移動、着いた善光寺の宿では米2合を差し出している。
松本で思い出したのはこの程度だが、実は結婚の翌年(1965年)盆休みに新婚夫婦は浅間線廃止を知らずに松本に来ている。野辺山荘で一泊、翌日は浅間線に乗って八方尾根を望見の後、上高地線で上高地帝国ホテル泊りのコースを画いて松本駅に到着した。駅前に松電の姿がない。この頃は今のように廃止と言って大騒ぎをしていなかった。ぼろ電に乗る楽しみが消えてギャフンとなった。上高地線は全て鋼製車体に更新され、上半薄いグレイ下半水色の塗り分けとなっていた。浅間線の外部塗色も末期は上高地線同様であったのだろう。
ところで老人は「鉄」復帰2年後(1988年)、河原町六角に移った駸々堂地方刊行物コーナーで信濃毎日新聞社・「信州の鉄道物語」を見付けた。趣味界の大御所、小林宇一郎監修とある。即座に買った。そこで松電島々線→浅間線→布引電鉄1~3号となった木造単車の布引時代の写真掲載【①】を見付けた。台車はブリル21E、写真に装着してみれば全体像は想像できる。浅間線時代は写真に見えるステップの下に更に1段、露出型のものがついていた。また別書では浅間線のダブルルーフ2,4号車の竣工時(ホデハ4,5)の図【②】も見付けたので紹介する。車体と台車は九州小倉にあった東洋車両(1924年7月)製で、台車は庄内交通1型と同型であった。いずれお目にかけることになるだろう。最盛期(昭和初期)の時刻表では、浅間温泉初発午前4時48分発から12分毎で終発午後11時48分まで、駅前初発は午前5時10分から12分毎で終発は午前0時10分まで、上り下り共に所要時分は22分、浅間温泉折り返し時分4分、駅前は着発のピストン運転となっていた。廃止直前は早朝、昼間、夜間は24分毎になっており、朝夕最混雑列車の前に横田-駅前間では続行車もあったようだ。
さて長野では長電乗り回し、「牛ではない電車に牽かれて善光寺参り」を果たし、夜行列車で早朝新宿到着となったのである。待合室で少憩後、西口から出て東京で最初に見た私鉄電車が京王電車であった。この時の印象は強烈で今に至るも残っている。25年ばかり前、高橋弘師匠にこの話をしたら師匠も同じ印象を持たれたようで、次にお伺いしたとき、1950年5月撮影の甲州街道上の写真をプリント【③】して待っていて下さった。その時貰った一景を紹介しよう。最古参車2000型である。「京王電車は2扉が似合う」とおっしゃった。
その京王電車の現在の姿、本年7月2日ふと思い立ち中央特快、高尾で下車した。跨線橋から見える京王線ホームには4扉20m車10連が見える。北野から奥は始めてでその昔、中央線から見えた時は確か2連だった記憶がある。長い連絡道?を急いでみたが発車した後のまつり。時刻表を見れば10連は「準特急」であった。次発は10分後の高幡不動行普通。北野で八王子発準特急に連絡とあり、山下りは7000系6連。次いで10連の9000系準特急で調布へ。乗り換えた普通8000系8連で下高井戸へ。いずれも20m4扉車。14m弱の車体に2扉が似合う姿ははるか彼方の物語。この「準特急」は如何なる列車か京都人には分らない。「準特急」氏の解説を待つ。
最後に須磨の大人出題のクイズ、3人は旦那、トオルちゃん、新兵の3人である。わっちゃらは同行していない。浅間線廃止(1964年3月31日)以前のことで、野辺山集合とならずだから3人は木曽森林辺りに行った時ではないだろうか。
おまけに恥ずかしながら自家現像失敗の巻。準特急さん笑ってやって下さい、1959年9月の庄内電鉄モハ7号の姿【④】である。初めての汽車一人旅ではカメラなしであった。
乙訓の老人様
高橋弘さんも凄い写真を撮られていますね。準特急は他の私鉄でもあった様に聞いた事がありますが、私の知るのは小田急ロマンスカーの補助的使用でできた2扉セミクロスの2320形を使用した準特急くらいです。京王は高尾線乗り換えの北野と南武線乗り換えの分倍河原に特急停車の要望があったことと相模原線にあった特急を廃止して急行を相模原線系統に集約した結果、特急に北野、分倍の2駅停車追加をした準特急ができたいきさつがあった様に思います。何れにしましても特急よりも遅く、地味で派手さはなく私によく似ています。明日5時半に起きでデジ青巻頭専属写真家と群馬、磐西に出張しますのでまた、コメントさせていただきます。