鉄道少年の時代に戻ってみる  〈8〉

開業直後の新幹線を写す

中学生の頃、鉄道少年の時代の思い出、あと一回載せます。先月になりますが、東海道新幹線が開業して60周年を迎え、JR東海のテレビCFが流れていました。開業は昭和39年10月1日、鉄道少年真っ盛りの時代でした。その翌週には、東京オリンピック開幕と、週替わりで日本が大きく進化を遂げて行くことを中学生も感じていました。

日本の鉄道を塗り替えた新幹線の出現は、各世代それぞれに思い出もあることでしょう。前回の「駅と高校生」ネタも、思わぬ方向に“飛び火”して、コメントで賑わいましたね。皆さんの思い出もお願いいたします。最初の日曜日、10月4日、10円で入場券を買い、さっそく新幹線京都駅のホームに立った。いままで試運転で遠目から見たことはあったが、眼の前で新幹線に接すると、さすがにデッカイというのが第一の印象だった。新大阪発東京行き超特急「ひかり8号」 N5編成

開業時、超特急「ひかり」は、東京、新大阪とも6:00始発、一時間ヘッドで14本(12:00発は無く、11:00発から13:00発まで2時間空白)、名古屋、京都停車で所要4時間。特急「こだま」は両駅6:30始発、一時間ヘッドで12本(10:30発は無く、9:30発から11:30発まで2時間空白)、各駅停車で5時間を要した。

すべて0系12両編成で、1等2両、2等10両(うち半室ビュフェ2両)、全席指定で、東京~大阪2等の運賃・料金は、超特急2480円、特急2280円だった。東京を朝一番の6:00に出た超特急「ひかり1号」が9:34に到着した。多くの客が下車するが、何の感慨も無く、淡々と下車して行って拍子抜けした。ホームには、売店も、ベンチも何もなかった。新幹線ホームに入線する、東京行き特急「こだま108号」。高架ホームから、初めて京都駅構内が見下ろせたのが新鮮だった。「こだま108号」のサボ、まだ幕ではなく、差し込みサボだった。写したのはこの4枚だけ、あとは山陰線ホームへ行ってC57を写していた。在来の東海道線には、まだ急行も走っていて、その後、新幹線に乗る機会はなく、やっと昭和45年になって、初乗車を果たした。同じネガカバーから非鉄で一枚、東京へ向けて、各地からの聖火リレーが行われた。私の住んでいた丸太町通にも、炬火が通り、ご覧のような熱狂的な歓迎だった。

 

  鉄道少年の時代に戻ってみる  〈8〉」への13件のフィードバック

  1. 総本家様 非鉄の写真に反応しました。
    丸太町通りに聖火が通ったのは昭和39年9月29日でした。写真左側がすぐ河原町丸太町で、交差点の角にある春日小学校の私は3年生でした。聖火を見るのに授業は中断して、全員体操着、白帽・白靴・白靴下で歩道に陣取りました。途中ですごい人となり、3年生と4年生は先生の判断で、市電東行きの安全地帯へ移動しました。おかげで聖火は間近で見られましたが、聖火ランナーが通り過ぎてはい、終わりのあっけない幕切れに、拍子抜けしました。ランナーの後ろに非常用の炎を積んだライトバンがゆっくり走っていたのを覚えています。総本家様のカメラがもう少しワイドだったら、私が写っていたかも知れませんね。

    • 勘秀峰 様
      さっそくのコメント、ありがとうございます。聖火が京都を通ったのは新幹線の開業前であることは、フィルムの続きから分かるのですが、日付まで分かりませんでした。9月29日ということは火曜日ですね。私は中学生で、聖火の見学はできず、しっかり授業がありました。そこで母親に頼んで撮ってもらったのが、この写真です。なつかしいパーマ店や靴店の看板も見えます。

  2. 総本家青信号特派員様
    私が初めて新幹線に乗車したのは、開業の翌年の1965年8月21日の静岡から名古屋までの「こだま117号」でした。
    この年の夏の合宿が現地集合、現地解散で小海線の清里であり、大阪市内から大阪市内行きの「東海、北陸、信越、小海、中央、身延、東海、関西、阪和短絡」という経路の乗車券を購入しました。この旅行ではなるべく多くの種類の列車に乗ることを試み、直江津までは「第2日本海」の客車列車、長野からは2両編成のキハ58系循環準急「のべやま」で小海線に入りました。
    復路は、甲府から以前から乗ってみたかった80形4両の準急「富士川」に乗車し、静岡からは新幹線に乗り継ぐ計画でした。折からの台風17号で当日は新幹線が遅延しており、名古屋到着時点で名古屋から金岡(現、堺市)まで事前に買っていた18:40発の特急「あすか」は、名古屋をすでに発車していました。やむなく後続のキハ55系の19:40発の準急「かすが3号」で帰阪することとなりました。以降、「あすか」は2年半という短命だったので、同列車にも阪和貨物線にも乗ることはできなかったことが今でも悔やまれます。
    添付したのはその時使用した乗車券と料金券ですが、この時初めて地方(正確には全国に9カ所あった国鉄の印刷場)により、同じ券種であっても地紋色の濃淡や、活字体、微妙なレイアウトに差異があることを知りました。

    • 快速つくばね様
      新幹線の発乗車の思い出、ありがとうございます。当時から、さまざまな経路で、興味深い列車に乗っておられたのですね。新幹線の遅延で「あすか」に乗れなかったのは、返す返すも残念だったと思います。当時の切符の多様性にも着目しました。「こだま」は全車指定と書いたはずなのに、特急券に(自)と書かれていて、調べますと、1964年12月から自由席が設けられたと書かれていました。当時「こだま」の一時間ヘッドでは、とても希望列車に乗り切れなかったと想像され、わずか2ヵ月で、自由席が設けられたようです。

      • 「こだま自由席」の切符に追伸です。自由席なのに「こだま117号」と列車が指定されています。これは過度な混雑を避けるため、2等定員の40%のみの自由席券を発売したそうです。列車指定のため、発時刻も印刷されています。この制度は1965年10月改正から、列車の指定はなくなり、どの「こだま」でも使える、いまに見られる自由席になりました。わずか1年足らずだけの貴重な切符ですね。

        • 総本家青信号特派員様
          貴重な情報ありがとうございます。そういえばそれまでの特急列車は全て指定席でしたね。「こだま」が嚆矢となり、その後のL特急につながる特急列車の自由席が拡大されました。ところが最近JR東日本から始まった検札などの省力化を目的とした特急列車の全席指定化も時代の流れでしょうか。
          今年の3月16日に全廃された新幹線と在来線との乗継割引も新幹線開業翌年の1965年11月1日乗車分から適用されるようになったので、この時は存在しませんでした。この日は東京-新大阪間の「ひかり」の所要時間が4時間から3時間10分に短縮された日です。

  3. 私が初めて新幹線に乗ったのは開業から1年半経った昭和41年の3月でした。それまでは修学旅行用電車を使っていたと思いますが、私の年から新幹線利用となりました。多分家族でも初めてだったのではなかったでしょうか?卒業アルバムを見ると京都駅で乗車するところの写真が載っていました。車中での様子等記憶にあまり残っていませんが、箱根宿泊で小田原で下車する時、同じクラスの一人がトイレに入っていて降りられず、発車してからいないと大騒ぎになりました。幸い次の新横浜で降りて連絡がついたようで、その後何食わぬ顔で合流したのを覚えています。
    ところで行きは新幹線でしたが帰りは在来線で帰ったようです。写真にはホームで撮った写真があり、客車でオハ35系のような感じです。このころ大阪行きの急行は電車ですし、九州行きの急行に乗ったのでしょうか?何に乗ったのかこちらが気になりました。
    新幹線の話題からそれて失礼しました。

    • 大津の86さま
      新幹線初乗車が修学旅行は、われわれ世代でよく聞きます。調べますと、開業すぐに修学旅行で新幹線に乗ったのは、一部の私立校だったそうで、公立校では、昭和41年からと書かれていて、86さんはほぼ最初ではないでしょうか。当時、新幹線を含む優等列車に乗車の場合、修学旅行には全く割引が無かったそうで、片道1000円以上が要るため、片道新幹線、片道在来線が標準だったようです。

  4.  終戦後に弾丸列車計画が進み、実現したのが夢の超特急0系新幹線でしょう。0系100系300系と発展しましたが、皆さんが活躍された年代により夫々の思い出の新幹線があるように思います。私の場合は子育て時期は0系仕事の時期は100系という感じです。東京出張は行きは富士山の見える席、帰りは100系二階建てくつろげる一階席で新横浜過ぎて駅弁というのが決まりでした。新幹線が出来て大阪は徐々に東京に人口を吸い取られ日帰り出張が当たり前田のクラッカーとなり北新地のお姉さんもヒマになりました。今では環状線の電車も三扉車ばかりとなりクロスシート車も混ざる始末。ラッシュもそれで間に合う乗車人数になっています。新幹線のストロー現象はすざまじいですね。
     0系新幹線も2008(平成20)年11月30日に44年間の営業運転を終えて、やがて16年になりますね。古いチラシがありました。

    • 0系のさよならチラシありがとうございました。“超特急”も今となってはなつかしいです。開業の頃、「ひかり」には必ず、“超特急”が冠として付いていたのですね。“企業戦士”として、新幹線を駆使されていた時期の話も聞かせていただきました。以前、大阪通信員さんに切符コレクションを拝見しましたが、実に多方面に出られていることが分かりました。新幹線の切符も、仔細に見ると、変化がありますね。

  5. 新幹線開業の記録、山科の人間国宝さんからも寄せられました。さすがです。なんと開業日当日の新大阪駅へ行かれて、始発「ひかり」「こだま」を写しておられました
    時計は午前5時37分を指し、左が6:00発「ひかり」、右にまだ入線していない6:30発「こだま」となります。

  6. つづいて山科の人間国宝さんからの第二信、10月1日、午前6時、新大阪駅で東京行き超特急「ひかり2号」の出発式が行われます。テープカットするのは、一人はたしか、当時の左藤大阪府知事だったと思います。さらに、この列車を運転されていたのが、いまも鉄道趣味者として、よくメディアにも登場される大石和太郎さんでした。

  7. 午前6時、始発「ひかり2号」は東京へ向けて出発します。なんと、撮影者は、ホームから下りて、レール面から撮影できたのですね。

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