守口の廃車体 ほか1点

拙老の投稿に早速反応があり、気をよくした老人は時間に追われ多忙中(極めて稀にそんな時もある)にも拘らずいそいそと次なるスキャンに取り掛かった。今度は住宅でなく、京阪守口にズラリ並んでいた廃車体である。番号は控えてあるが、二重三重に記されたものもあり、落書き?と思しきインチキ番号もあった。禿筆を以っていい加減な事を書くより、解説はそれこそ乙訓老人の出番であろう。撮影は1955年9月22日。

もう1枚。これは京阪と全く関係がないが、1958年3月27日伊田、ハ2618だったと思うのだが、こんな廃車体があり、半世紀たった現在でも印象深いので押し付けご紹介に及ぶ。これは2本通ったロッカーレール(縦梁)のみが鋼材、端梁は木材で、車体は鋼材上に根太を組み、隅柱、間柱を立て、その上部は長桁で押さえ、と全く当時の木造建築物同様の構造車体である。廃車時売れる鉄は外し端梁を残したが、その高さ分下に古枕木でもかましておけばいいものを、宙ぶらりんにしたから、当然ながらかくも見事に湾曲した、と推定。ごく当たり前の、但し屋根は食パン風ダブルルーフ(雨漏防止で多少加修している)の側戸式3等車である。

守口の廃車体 ほか1点」への2件のフィードバック

  1. 出たぁー。次はこれだ!と楽しみにしていた。老人も大人の3年後に撮っている。守口工場東南隅を探検?していた時に見つけた。標準レンズでは全景が入らず、兄が2度目のボーナスで購入したセレナー25ミリを借りて撮ったが、NEOPAN SSのため哀れな八ツ橋となってしまった。それだけに嬉しい。ダブルルーフは100形の達磨さんである。原則は70形に台車や機器を転用された抜けがらである。207の車号のものがあるが、207は200形として撮影当時、現役でかくしゃくたる姿であったから、ひょっとして70形対象車と車体を取り換えたのかも知れない。深草車庫にあった100形車体も70形の種車になった筈だが、原車体は土佐に送られていたことになっていた。公式には121と118(共にⅡ代目)のみが車体交換したことになっていた。この207号は1917年名古屋電車製作所製で、208、219と共に書類上は最長老木造車体であった。シングルルーフ車は有蓋営業用貨車であった1913年製(201、202→500、501→1001、1002→5001、5002)のものである。1925年に荷扱い人室を設け合造電動客車とした。つまり魚菜車で、1928年にはPR制御器化、沿線住民の食糧運搬の一翼をになった。戦中、終戦直後に廃車となった。こんなことで須磨さん許して頂けるかな?こちらも忙しい!

  2. 嗚呼、湯口兄に火をつけてしまいました。(爆)
    これでもかのじゅうたん爆撃。
    M鉄の血がうずきます。
    腐肉に群がる禿鷹のようといえばあまりにも失礼か。
    木造廃車体に群がる・・・

    最後のは“スウェイバック”っていうんですよね。

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