その結果、旧線はいまの塩小路通より家一軒分南側を東西に通っていたことが分かりました。
上の地図は明治22年の京都駅周辺です。鉄道記号はまだ白黒になっていませんが中央を横切っています。交差するように縦に流れているのは左が堀川で、見にくいですが西本願寺の南と九条で直角に折れ曲がっています。右に流れているのが西洞院川です。当時は西洞院に川が流れていて、北野線が西に偏って走っていたのもこのせいだと言われています。
次に明治17年の京都駅西方向の地図を掲載します。
この当時は市内と市外に別れて地図が作られていました。市外(郡部)の地図は比較的広域表示ですが市内は町別単位で重なるようには編集されていません。しかも手書きで縮尺もいい加減です。そのため突き合わせに苦労しました。
なお、地図は上が北で統一して表示します。
線路の北側を並行しているのが塩小路通、すこしぐいちになっているところがあわしま堂です。地図の右端に縦に見える青い線は堀川です。今の大宮通はこの地図の西方向ですが大宮通以西は京都府葛野郡で当時は郡部でした。
御方紺屋町はいまの堀川塩小路交差点付近にあった町です。左側が堀川で、赤い公道は旧醒ヶ井通、今の堀川通西側歩道にあたります。その東に接しているのは安寧小学校でいまは堀川通りの西側に引っ越しています。当時は堀川に支流が会ったことが分かります。線路のある場所にはリーガロイヤルホテルが建っています。右下の不動堂と道祖神社は別物ですが鉄道敷設に伴い線路上にあった道祖神社が不動堂の北側へ移動してなにやら一体化して戦後は疎開あとに取り残されていて判然としませんでした。
左下がその不動堂と道祖神社です。赤い公道は油小路通で、当時は踏切があったそうです。右端に見える青い線は西洞院川です。中央下のピンクの部分は駅構内の敷地と思われます。
さて、志水町などの地図で表示されている町名をよく見ると線路は上夷町、南夷町、松明町などに南接しており、金換町やここには掲示していませんが下糀屋町に北接しています。
この地図は安寧自治会が数年前に発行した記録誌に載っていました。大正11年に作られて昭和10年に修正されたとあります。線路北側に上夷町、南夷町があり線路が南へ下がったことが証明されます。しかも中央の塩小路通が斜めになるあたりに東西に広大な空き地があります。この位置はちょうど上夷町、南夷町に北接しています。
いまここにはタキイ種苗の本社があり、当時の面影はありませんが塩小路通りの南側の町家は南側が一直線に揃っていました。
さて、では最初の明治22年の地図ではどのあたりが今の鉄道線路になるのでしょうか?
ある一カ所で特定できました。油小路通を注意してみて下さい。油小路通は堀川と西洞院川のちょうど中間にある南北の通りですが、鉄道線路の少し下、道が斜めに西へ振れてまた南へ下がっています。この斜め区間がいま山陰線と堀川通交差地点北側にある油小路通の斜め区間と一致します。元科学技術専門学校の南端です。
今までに分かったことは以上ですが、特派員氏が以前に書いた記事ともほぼ一致していますのでまちがいはないでしょう。
皆様のご意見をお待ちしております。
米手作市さま
永年に渡る旧京都駅付近の地図研究の成果を拝見しました。意外と知られていなかった旧京都駅の位置や前後区間のルートがこれで解明されましたね。とくに地籍図のなかに描かれた鉄道記号が、これほど大きな縮尺で見られたのは、まさに新発見です。色刷りで、百年前の京都駅が目に浮かぶようです。
昔の研究がノーベル賞として日の目を見る時代、作市さまの成果は後世に受け継がれていくことでしょう。