作並から山を下り仙台市電となった。tsurukame君の2年前に1日半うろついている。その話に入る前、作並機関区の区宝となった筈の物をご披露申し上げる。
仙台2日目、11時前に北2番丁車庫を訪問した。2階事務室に案内され、佐藤技師さんから仙台市電30年史を下に講義を受けることが出来た。昼食も御馳走になった。この時のメモ中心にあれこれ話を展開しよう。
1.都電の中古車:モハ70形(70~79)10両
1948年4月、東京都より4輪車10両を譲り受け、改造(整備?)を東京鉄道工業に発注、10月に完成、同年11月1日付で竣工届が出されている。帳簿価格は300,000円。1949年4月6日付で車両設計変更の認可を得て、台枠(ベスチビュール部分か)改造と共に折畳扉設置、窓構造、車内照明を始め外部灯具などの改造も施工している。窓はこの時、70号を除き2段窓になった。1957年5月18日付で73~75が廃車、配置は北2番丁に70.71.77、長町に72.76.78.79.となっている。76は衝突事故で休車、これと70~72の4両は次期廃車予定。可動車は予備車的存在で、市内の本線上で見ることは出来なかった。
2.都電、その他の中古車:61~69、形式称号なし。
(61、62)モハ70形の原型である都電400形の車体を購入、61は鶴見臨港の4輪車11号の、62は当局の撒水車の台車と電装品を転用して1941年7月竣工した。簿価は14,500円
(63、64)江ノ電11、21、22を購入、22の車体に11の台車を組み合わせ63とした。その台車はドイツ・マイネッケ社のものであった。64は都電から譲渡された予備台車を組み合わせた。こららは1942年12月竣工した。以上4両は東京三真工業所が改造した。簿価は16,100円
(65、66)1942年10月、竹鼻鉄道(1943年3月名古屋鉄道と合併)から木造4輪車2両(7、8)を購入した。車体幅が狭いため座席を食い違いにしたタイル張の床を持つ車両であった。これを改造、改修の上、1945年竣工した。このタイル張とはどんなものであったのか、気になる。この頃はアスタイルやPタイルは未だ世になく、あるとすれば高級品のリノリュウムタイルぐらいである。元貴賓車ならわかるとして、庶民の電車にタイル?となったのは当たり前のことである。まさか瀬戸や常滑のタイルを使ったのではなかろうと思うが……。後にこの2両は美濃電岐阜市内線のものであることが、廃車後の解体の時に判明したとか。
(67~69)1942年6月、都電400形3両の譲渡をうけた。日本鉄道自動車で整備され1947年5月竣工となった。65~69の簿価は記載なし。
以上9両は1948年8月:61、63、65、66を秋保電鉄に譲渡、1949年2月:62、64が廃車、1955年1月:67~69も廃車となった。NEKO RM90には62、68の写真が掲載されている。
3.流線形:モハ43形(43~45)3両
これがお目当てであった。1955年、初めて松山に行った時、古町車庫に留置されていた鋼製4輪車、なにか曰く因縁があるに違いないと思っていた。それがTMS78、86号で解決したのだが、仙台に行けばその原型に出会えると期待に胸を膨らませていた。初日に仙台駅前で出会い宿願を果たした。
因縁については、佐藤さんから聞くことが出来た。メモでは1938年、18両(43~60号)増備の認可を得た。この年の8月に3両、梅鉢車両で完成した。簿価は16,800円であった。43号は北2番丁、44、45号は長町所属であった。
次の年は製作割り当てがなく、1940年3両、1941年1両の割当てを得た。当初、製作は木南車両担当であったのが、1941年には日本鉄道自動車に変更となり、1942年9月竣工の筈が実現しなかった。結果として60形が代替車となった。1946年に購入を断念した結果、日鉄自で完成していた鋼体を秋保電鉄が引き取り、2両を電動車として完成させたが、1両は伊予鉄道に譲った。過去に仙台市が財政難に陥り購入を断念したと紹介された記述もあるが、佐藤氏は原の町線建設が急務であり、市は路線延長に資金を投入したのだ、とおっしゃった。東京から中古車400形購入の目途が立っていたからだろうか。戦中、終戦直後、物資不足に振り回された姿が垣間見える。
秋保電鉄の本社は市電長町車庫の南隣で、線路は繋がっていた。北2番丁車庫で撮れなかった70型をキャッチするや表通りに出て302号を待つことにした。300形は前日、仙台駅前で一度キャッチしたのだが他車と重なり、そのことを車庫で言ったら「間もなく帰って来るよ」と教えてもらったからだ。301号は北2番丁所属、302号は長町所属のため動静が掴めたのだ。長町駅前で土佐でも話題となった4輪車の連接車化の姿を、無事にキャッチ出来たが乗ることは出来なかった。それは秋保温泉までの一往復を頭に入れていたからだ。
15時20分過ぎに秋保電鉄長町駅ホームにモハ411号が到着、伊予の兄弟と対面出来た。当車は1946年12月竣工時マハ10と名乗っていた。同型410号は当初マハ8号であったが後にモハ408を経て現番号になった。こうしたことはピク誌369号:和久田氏の記事の受売りである。本社へ行って形式図拝見と、居座れば最低1時間粘ることになるから明るい内に沿線観察とはならない。
411号は高校生を10人ばかり乗せ、折り返し月ヶ丘行きとなり直ぐに出て行った。16時10分発の温泉行きに乗車するため待つうちに、単車をボギー車に改造したモハ1407号が到着。乗り場の奥に引き上げ、代わって乗り場向かいの車庫からモハ1408+サハ406号が出て来て乗り場に横付けになった。乗ったのは4輪車のサハの方である。市電からの乗り換え客のほとんどは高校生で、サハはゆったりした車内で出発した。16㎞を60分ぐらいの行程、田舎電車そのものである。25馬力×2でトレーラー牽いてだから最大速度は25㎞/hがやっとか。田圃の中をがったんごっとんと走る。そのうち山裾に取りつくや車内灯は一段と暗くなってきた。東北の秋の夕暮れは京より早いなぁーと思っている内に終点到着。
温泉駅は川べりで、温泉街は川の対岸のようだ。電車は入換作業をして直ぐ長町へ戻ると言う。今度はモハの方に乗って温泉電車とはお別れにした。
以上で車号が出てきたのが電動車4両、付随車1両だが、和久田氏の記事では4輪車をボギー車にした開業以来の1401、1403、4輪車のままの402の3両に1938年に名古屋市電譲受けの405の電動車があり、付随車はいずれも4輪車のサハ401~404が1959年には在籍していることになっている。車庫で見かけたのはモハ1403とサハ402のみで後は分からない。本稿が誘い水となり、須磨の大人のお出ましを期待している。
かって1994年夏、35年ぶりに栗原電鉄へ行ったことを紹介したが、秋保温泉へは1995年秋に行くことが出来た。泊まったのは「勘助」で、翌朝ベランダから川を見下ろす内、対岸はかっての温泉駅であることに気付いた。フロントの年寄りに尋ねてみるとやはりそうであった。朝食前に行ってみたが36年前は夕闇の中でのこと故、何も記憶に残っているものはなかった。平泉へ移動するバスは左側の座席を確保、温泉街を出て名取川を渡ってから山裾を注視した。電車用地とはっきり認められる個所があり、バスはそれに沿うルートを辿っていた。茂庭バス停を過ぎると東北高速道路に入り、一路北上であった。