京阪と近鉄の相互乗入で盛り上がっていますが、元墨染の住人として興味深く拝見しています。諸先輩方も数多く記録されていると思いますが、私も相互乗入の晩年を少しだけ撮影していますので恥ずかしながらご披露致します。まずは1900生さんのコメントにある三条駅4番線の「チョコンと」から。
1時間に1本はあったのでしょうか、運転頻度は記憶にないのですが 大学からの帰りに 少々の待ち時間はいとわずにわざわざこの準急を選んで稲荷まで乗って帰ったことがよくありました。
東福寺あたりで市電を撮っていた際に ついでに撮った1枚がありました。遠景ですが720+820の2連が国鉄奈良線をまたいで行きます。
何かがなくなるとわかってからバタバタするのは今も変わりがないのですが、相互乗入の最終日にあわてて撮った数枚がありました。湖畔の大先輩がコメントされていたように、昭和43年12月19日が最後でした。昭和43年は私がDRFCに入学した年です。この日はカレンダーを調べると木曜日です。もう冬休みに入っていたのか、自主休講にして カメラ片手に丹波橋界隈をウロウロしたのか全く覚えがありません。
宇治発近鉄京都行きと奈良発京阪三条行きが同時に丹波橋を発車していったようです。湖畔の大先輩のおっしゃるように京阪の運転士がそのまま近鉄に乗り入れていたことがわかります。
今では何も珍しくないというか当たり前になった相互乗入ですが、当時は珍しい光景だったことを改めて感じています。
お~っ、懐かしい写真ですね。あの頃が懐かしく思い出されます。何気なく写した写真が貴重なものになるのは写真の魅力ですね。
小生も撮ってはいましたが、多分に1900に偏っていたのと、ネガの整理が悪くてすぐに出てこないので、コメントだけで申し訳ありません。末期のダイヤでは乗り入れ列車双方を丹波橋で隣り同士で接続させ、宇治線→三条の旅客にも乗り換えは生じるものの、通常のダイヤと同様に利用できるように考えられていました。乗り入れは10時~16時くらいの昼間時一時間毎の設定でした。
運転士は持ちきりで相手線内まで入って行ってましたね。あるとき三条で目撃したのですが、通常4番線に着発するところを、何かの都合で疎水上の1番線か特急用の2番線に入れる必要が生じたようで、四条寄りの渡り線手前で一旦停止し、車掌が前面貫通ドアを開けて確か赤色の信号旗を振りながら渡ってきたことがありました。つまり下り本線を支障しながら入線するため、入替えの手順に従ったのかもしれません。それを見た京阪の乗務員があんなことしとるというみたいにニタニタ笑いながら見ていたのを覚えています。因みに京阪では通常宇治行普通と特急は支障しながらの入線は常態であり、乗入れ車は近鉄での取り扱いに従ったのでしょうが、湖畔のヒマ人さま、この取り扱いについてご教示賜りたく、よろしく講釈をお願い致します。
ところで深草で2000系淀屋橋行普通が近鉄車を退避していますね。珍しい光景です。当時は20分ヘッドで、三条を2分おきに特急に続いて急行~普通という順に発車、普通は八幡で次の特急を退避するまで先着だったはずです。1時間に1回だけ高性能車を入れて深草で退避していたのかもしれませんが、どなたかご存知の方がおられましたらお教え下さい。
確かに近鉄車は「三条駅4番線のチョコンと」停まってました。
相直は私の記憶では昼間だけ相互に1時間に1本ずつだったと思います。
本線を支障しながらの入選、三条ではフツーにありましたから、特に京阪特有の運転規則はなかったと思います。
(近鉄では特別な定めがあったのかも・・・!?)
深草で京阪が待避して近鉄が抜いていく、これは知りませんでした。
他社線を(特別な訓練や教習もなく)運転するなど、今となっては考えらえないことばかりだったですねえ~!
湖畔のヒマ人さま
近鉄車の入駅方法にコメント頂き有難うございました。よく考えてみると京阪・近鉄に限らず、終端駅(ターミナル)駅では絶えず反対方向を支障しながら行き来しているわけですよね。やはりわざわざ旗を振っての入駅には何か別の意味があったのかもしれません。
また深草での追い越しもやはり通常は無かったですね。たまたまダイヤが乱れたとか、今となってはもうわからないですが。
本線を支障しながらの入選、「入線」の打ち間違えです。
すみません(+_+)
丹波橋駅の真横には岩田組がありましたか今は岩田組はありますかとのことですが、