長老と大老が永年秘匿してきた機密書類の保存期間が解けたのか公開されたようだ。そのなかに鳥羽快速に関する供述があり、そこで小生の写真に関する箇所が出ている。それは昭和38年3月に亀山機関区で撮った、六軒事故の証拠物件機関車の写真である。いまなら考えもつかないことだが証拠品が雨ざらし日ざらしで駅の構内に留置されていたのである。恐ろしい事故の被害者たちの声が聞こえるようで身をすくめながら撮ったのを覚えている。
当時のことを知らないが長老や大老におかれてはどちらの機関車が突っ込んだのか、当時の状況をご解説いただければありがたく存じます。
(上)左側がC51172、右側がC51101
(上)C51101のキャブ
(上)C51101(先輪はない)
(上)C51172キャブが(浮き上がっている)
長老あこがれのc51100のおいど。この日C51100は頭を機関庫に入れていたのでお尻を撮った。ナンバープレートとクロームメッキされたテンダー周りの上部縁がピカピカに光っていた。
当時の状況など身近であったことではなかったので覚えていない。たしか、この日は名古屋~鳥羽間の臨時快速があり、定期の快速・姫路~鳥羽間の機関士が失念したか、通達漏れかで八軒屋通過のつもりで入構、アレヨと言う間なく脱線ポイントを通過して脱線、折れ曲がったところへ対向快速が突っ込んだというお話であったと思います。この反対だったかもしれません。その節はお許し下さい。この後、三河島があり、国鉄もATSに本腰を入れることになったのです。鶴見はまた状況がちがいます。いずれにせよ、昔から3Sが叫ばれながら守れなかったらどうなるか、鉄道事業者のみならず受益者も心することだとおもいます。
参宮線六軒駅の事故のことは、これまで知識でしか知りえませんでした。
事故機が裁判の証拠品のため、解体されず長らく保管されていたことを、かつてピクトリアル誌の短信で知り、この記事から私は関心を持ちました。確か営業用のSLの煙が消えても残骸状態のC51が長く残っていたと記憶します。
今回のトピックで亀山駅を利用する客は、本来「見てはならないもの」を毎回見せられていたことに衝撃を覚えました。ただ当時は太平洋戦争時代の記憶も色濃く、これをどう捉えるかということと、平成の事故のことや映像が繰り返される現在の人間心理への残像率は比較できないかと思います。
鉄道技術と事故の関係は、本来起きてはならないことですが、これをどう捉えどのように分析するかは技術者の役割だと思います。
鉄道に関心を持つ者は、安易な興味でなく冷静に事故の背景などを考える必要があると思います。過去の事故であっても、人間はいつかはミスをすることがあり、いまこの記事から考えることは大切でしょう。
事故直後はどうしても新聞報道の中で言う「社会面雑感記事」の部分、現場中継のことが頭にあるのが普通です。感情的なことに触れてはどうなのかという人間としての理性もあります。
私は六軒の現場を歩いたことはありません。いまこちらのブログの記事
http://d.hatena.ne.jp/TMkun/20081016
を見つけて、遠望写真をみたところです。当時の新聞記事も紹介されています。
そして違う角度から考えてみることが必要かと思いました。
あと、246レの本務機、C57110は修理されて運用に復帰、その後の転属を経て引退後、和歌山の橋本市に保存されているようです。近年この経緯を知る人から事実が明らかになり、犠牲者の出た修学旅行の学校の関係者らが慰霊したというニュースも読みました。
当時は機械として必要だったという事実が前提であり、機関車の過去を調べるのはまた別の次元のことで、こうして一連のことが判るというのが現在の時代性だと思いました。