昭和の電車 改訂版(2)大阪地下鉄100型

この地下鉄には乗ったことがあります。
前回の市電901型でも書いたように、親に連れられて大阪へ出たときに必ず乗りました。リベットだらけの車体が梅田駅へ入って来る時、やたらとガシャガシャうるさく、連結部に柵のようなものがあって珍しかったので覚えています。この柵は、今はJRはじめ私鉄でも使われているのが面白いですね。この車輌が牛に引かれて御堂筋を運ばれたのを見ていたという「大阪通信員」さん、覚えていますか?

昭和の電車 改訂版(2)大阪地下鉄100型」への28件のフィードバック

  1. でてきましたね。大阪地下鉄100型が。子供の頃、天王寺に行くのにいつも地下鉄でした。城東線に乗るのはまれでした。トンネルの中で見えにくいのに一番前で見ていたのです。その時に思っていた地下鉄の不思議、その1は正面についている変なもの・・・そうです。関三平さんの解説にある「安全畳垣」で、なんであんなものがあるのかわかりませんでした。最近の電車でホームから乗客の落下防止柵が電車についているのを見て、あれがそうだったのかと今になってわかりました。その2は天王寺から大国町に着く前に窓を眺めていると、どこからともなく電車が現れるのを不思議に思っていました。御堂筋線のアンダークロスしてから勾配を登って同じホームの高さに来ることになっているのですが、子供の頃はそれが不思議でなりませんでした。その3、終点の梅田駅の向うに延びる線路があるがどこへ行っているのだろうかとよく覗いていました。そして地下鉄の都市伝説と言われていた大阪大空襲の時に地下鉄に乗って逃げたということです。朝ドラ「ごちそうさん」に100型電車を使ったそのシーンがありました。ヘッドライトをつけた電車がトンネルの向うから駅の方へやって来るのがなかなかいい感じでした。走っている車内のシーンもスタッフが電車を押して左右に揺らして撮影したそうです。ながらく証言だけで都市伝説と言われていたのですが、作家山崎豊子さんの日記に当時心斎橋から梅田へ電車に乗って逃げて命拾いしたということが書かれていることが発見されたとテレビで放映していました。多くの人の証言は本当だったのです。

    • あれを『畳垣』というとは知りませんでした。これは正式の名前でしょうか?関先生の命名でしょうか?

      昭和20年3月14日、大阪空襲時の地下鉄運転の話は両親に聞きましたが『しらん』と言うことでした。当日両親は命からがら千日前から日本一を経て八尾まで自転車で逃げたと言うことで、地下鉄が走ったかどうかは知らなかったそうです。

  2. 中間に入っていた104というのを撮っていました。1968年10月30日西中島南方での撮影です。

      • 写真の連結部に安全畳垣の折り畳んだ状態で写っていますね。ただ晩年なのでジャバラではなくなっているかと思います。生まれてから25歳まで住んでいた最寄り駅が地下鉄長居駅で物心ついたときに初めて乗った鉄道はこの車輛でした。市心に行くのにいつも利用していたので記憶に残っています。どですかでん様の2にある大国町でどこからともなく現れ同時発車するとどこへともなく消えていく四つ橋線の車輛には興味津々でみていました、関様の文中にあるあびこ筋のオープンカットの中を走る写真は小学校のときに学校の授業でみたことがありますが物心ついたときにはすでに地下を走っていました。西田辺には一時期車庫があり大人になってからしばらくは保線基地として使用していました、なので西田辺の長居寄りにはなかもず行から分岐して地上にでる線路がありました。現在はバスの車庫になっていたような。子供の頃の梅田、淀屋橋、本町、心斎橋、天王寺の各駅は開業時の面影がしっかり残っていて趣がありました。そういえば近年まで白い百葉箱もありました。今でも通勤で御堂筋線にお世話になっています。

      • ガジャガジャの台座は残っていますね。転落防止柵は良く考えられたもので、四条の東華菜館に残ってる古いエレベーターの柵状扉と同じ理屈です。104は中間車で残ったので半室運転台のまま映っていますね。EXPO70開催一年前の最後の奉公姿が懐かしいですわ。

      • 連結部に安全畳垣のようなものが写ってますね、晩年なのでジャバラではないように見えますが・・・。生まれてから25歳まで住んでいた最寄り駅が長居駅で物心ついた頃から市心に出掛けるときはいつも利用していました。どですかでん様の2にある大国町のどこからともなく現われて同時発車して暫くは並走するのにどこへともなく消えていく四つ橋線の車輛には興味津々でした。また関様の絵や文中にあるあびこ筋のオープンカットの中を行く地下鉄の写真は小学校の授業でみたことがあります。イラストの頃の終点が西田辺で近年まで当時の車庫が保線基地として利用されていました。大学に通っている頃はまだ天王寺、心斎橋、本町、淀屋橋、梅田の各駅は開業当時の雰囲気をよく残していました。その頃は方向幕に万博行がまだ残っている車輛もありました。そういえば近年まで駅の白い百葉箱も残っていましたね。今も毎日通勤で利用しています。

  3. 私も時々乗っていました、親に連れられて買い物に行く時、天王寺から心斎橋まで、また高校へは天王寺から大国町まで地下鉄を利用していました。以前四ツ橋にあった「電気科学館」には100型(多分)の、今で言う運転シュミレーターがありました、現代のようなビジュアルなものではなく車両の模型がかざってあり、その前でコントローラーを回すと模型の車輪が回りだすという単純なものですが、夏休みに行くのが楽しみでした。ある時、梅田から天王寺への帰りに100型に乗り合わせましたが、発車と同時に「バーン」と大きな音がして動かなくなってしまいました。後で考えるとブレーカーが飛んだのかなとも思われます、その時運転再開されたのか?よく覚えていません。とにかく重そうな大きな車体であったことが思い出されます。それとこの100型が運転されていた頃、地下鉄には独特の匂いがありましたね、今は全くありませんが。

  4. 大阪市交の100型いいですね。大阪市交の吊掛車は憧れの車ですが、大阪万博ATC化の前に全廃されたため、私には全く想像の世界です。それだけに阪急920に比肩しうる170Kwモーターや今なお通用しているドーム型天井の大きなホームなど開業時の遠大な構想は、新京阪電鉄や参宮急行と並ぶと思っていましたので、昭和の電車で、高級~と取り上げられたのは嬉しく思いました。先輩諸兄におかれて大阪市交吊掛車の写真を取り上げていただけると有難いです。

  5.  コメントの諸兄、お若いのに色々と良く覚えておられます。角ばった車体に銀色の平らで浅い屋根、正面窓上の通風口と下部のアンチクライマーと古き良き電車の条件を持った100型地下鉄。転落防止柵は半世紀を経てまた登場とは正に歴史は繰り返すでしょう。車体色は当初ブルーにクリームがオレンジとクリームに変わったのは国鉄気動車が同じ経過だったのと似てますね。
     四つ橋線終点の住之江公園近くの緑木検車場に105が大阪市文化財として保存されて、秋に公開されることがあります。見ものは室内灯が白熱灯のままだということです。

  6. 『畳垣』って言うんですか。
    小生も幼少時に地下鉄に乗る度に『変なもんが付いとるなぁ』と気に成っていた記憶があります。
    しかし、昭和30年代にはジャバラを広げていたのは見た事がなく、常に折り畳んだ状態でしたので、『何んのための物ヤロウ?』と毎回首を傾げたものです。
    それが、10年位前?に転落防止柵としてJR西にデビューし、改めて大阪地下鉄の先見の明に感心したものでした。
    そうそう、確かに夏場に窓を開けた地下鉄に乗っていると、表現するには難しい独特の匂いがしましたネェ。

  7. 牛に牽かれての写真がありますので、お目にかけましょう。でも牛は、トラクターの御手伝いです。こんな狭い通りが御堂筋の訳はないと思いますが、どこなのでしょう? この写真は宮松コレクションにあったものですが、複写かもしれません。

    • 宮崎繁幹様
      厳しい米手作市審査委員長も大粒の涙を流して喜んでおられることと思います。宮松さんと言えば西の西尾、東の宮松と言われた趣味の世界での大先輩ですが、よくぞ発見していただきました。牛が地下鉄を牽いたことは全く知りませんでしたが知る人ぞ知る話だったのですね。有難うございました。外野席からアンパイヤ―に近い指定席にお座り下さい。相撲なら砂被りです。

    • 宮崎繁幹様
      よく見つかりましたね!ありがとうございます。
      証拠がなければ口撃されるのはイランも当会も同じ。

      この写真は私もどこかで見た記憶がありました。
      たしか、大阪通信員氏も写っているのでは?
      場所は拡張前の御堂筋とあったような記憶があります。『畳垣』の台座か格納部かがよく見えますね。

  8. 御堂筋も、こんな狭かった時代があったのですか、勉強になります。同じ機会に撮ったと思われる写真が、一緒にありました。これを逃すと、御覧いただくこともないかと存じ、貼っておきます。落語の地下鉄は何処から、運び込む?の一幕ですね。

  9. ちょっと調べていたのですが、以前地下鉄梅田駅の事で「鉄道史料」の地下鉄に関する記事が載っている本を買った中に地下鉄搬入のことが書いてありました。それによると搬入場所は南御堂の前で運んだルートは御堂筋は通っていないようです。これには当時に大阪朝日新聞の記事によると「十八日午後一時梅田驛に着いた住友製鋼所製作の車台が頑丈な車に載せられトラクターで田蓑橋から土佐堀線、西横堀を信濃橋に出て東區南久寶寺町四丁目南御堂前にたどりついたのが夕方の六時」と書かれてあります。また、問題の車体の方は同じく大阪朝日新聞の記事によると別の運搬車に載せて阪神前から南北線(今の四ツ橋筋を南北に走っていた市電路線)を通って新町橋で休憩してから南御堂前に着いたとあります。ということは御堂筋ではないようです。しかし、最初の牛に引かれている写真はどこかよくわかりません。よく見ると地面に右に曲がる線路らしきものが写っていますが確認できません。市電の線路だとしても道の狭いことから複線ではないようですが、昭和初期であれば市電はすべて複線のようですし、街灯の形から商店があるところだと思うのですが思いつきません。どこなのでしょうか。なお、トンネル内に運び込んでいる写真は「鉄道史料」に1933(昭和8)年4月21日大阪朝日新聞の記事が掲載されていましたが、同じ写真がありました。カメラで複写されたものだと思います。ちょっと調べるつもりが・・・とにかく、大阪地下鉄は梅田駅といい、ほんまにややこしい。

    • どですかでん様の綿密な調査に励まされ、私も少し調べてみました。牛に牽かれた車輌の左にある店舗は、岡本洋行と云う楽器商の大阪支店であると判明。当時の住所は、東区南久宝寺町四。私は大阪の地理に不案内ですが、この住所は、ほぼ目的地の南御堂のそばであるようです。ご参考まで

      • 宮崎様 左の店舗は岡本洋行という楽器店だったのですね。〇本洋行と楽器という字が読めたのですがわかりませんでした。宮崎様の情報で、だいたいわかってきたのですが、新町橋を渡ってからの南御堂への搬送ルートがちょっと謎めいています。それに大正14年の大阪市街図の復刻版を持っているのですが、昔の南久宝寺4丁目は、現在は3丁目となっています。改めてまとまり次第投稿したいと思っています。あくまで推測となるようですが。

        • どですかでん様
          四ツ橋筋を南下してきて東へ曲がると新町橋(江戸時代にあった日本三大遊郭のひとつ新町遊郭へ通う船場の町衆が往路胸をときめかせて渡った西横堀川にあった橋)があり順慶町通に入り東に向かい、まさに建設中の御堂筋に左折して入らんという場面の画像では。さらに今度は北上し南久宝寺通を越すと南御堂(真宗大谷派難波別院)が西側にあり、その前に露天掘りの穴があったのではと推測します。
          車台は信濃橋を渡ったとありますが、車体とは別の経路で運んだのは何故、予備のトラクターあるのに牛がいたのは?まとまり次第の報告楽しみにしています。

  10. ちょっと見ないうちにたくさんのコメントが寄せられていて、さすが大阪地下鉄と言った感じがします。私もトンネルを2個越えるような僻地に住んでおりますが、叔父が本町で歯科医院を開業していた関係で、虫歯に悩まされた小学生時代(昭和30年代中頃から40年代初めにかけて)梅田-本町はよく利用していました。乗った電車が100型だったのかは定かではありませんが、記憶と異なるのはクリーム色と青ではなくて、クリーム色とオレンジのツートンだったと思います。これは100型ではなかったのでしょうか?それともある時期から塗装色が変わったのでしょうか。
    この時代、車両と共に思い出すのは梅田の駅のあちこちにいた切符売りのおばちゃんでした。回数券をばらして売ってその差額を儲けにしていましたが、手際が良いのと元気いっぱいだったので皆さん結構買っていましたね。おばちゃんがいなくなったのは万博の時でしたか?話がそれましたが大阪の地下鉄、市電にはいろいろな思い出と思い入れがあり、懐かしく拝見しました。

  11.  子供のころ、田舎から大阪へ遊びに連れてきてもらった際に乗った地下鉄はこの車両だったと思います。懐かしいですね。車内にアナウンスが流れることが、田舎者には不思議でなりませんでした。
     回数券のばら売りのおばちゃんたちのことも、覚えています。子供のころの、「大阪の思い出」の一つです。

  12. オレンジ色とクリームの塗り分けは、昭和33年、初の両扉車1200型からです。以降、100型も含め従来車も全てこのカラーに変更されていきました。私もこの塗り分けなら記憶にあります。回数券のバラ売りのオバちゃん懐かしいです。平成2年の大阪花博で消えたと記憶しております。

  13. 大阪通信員さまの記述中に、「さらに今度は北上し南久宝寺通を越すと南御堂(真宗大谷派難波別院)が西側にあり、その前に露天掘りの穴があったのではと推測します。」、とありますが、それがこの穴でしょうか?既にお目にかけた2枚の近くにあった乾板ですが、車輛がないので大阪地下鉄のものか判じかねていました。しかし通信員さまのご説明(西側=
    左側とすれば)通りの場所に、大きな御堂のような建物が見えます。「鑑定、宜しくお願い致します」(何でも鑑定団みたいになってきましたが!?)

    • 宮崎繁幹さま
      初めまして。玉手箱からまた出ましたね。この画像は左上隅に寺院風の建物が見えるので、宮崎さまのご推測どおり南御堂の前の穴から地下へ降ろされる100型の台車でしょう。別の穴から吊り下げた車体の下へ押し込むということですね。いい仕事してましたねと誉めてあげましょう。

      • 大阪通信員さま、御挨拶もせず、いきなり鑑定をお願いし、失礼を致しました。これからも玉手箱の出番があれば活用し、デジ青の皆様に楽しんで頂くよう努めますので、宜しくお願い申し上げます。

  14. 牛に運ばれた地下鉄100型に関しても関三平先生から補足説明が来ておりますので下記に代理投稿させていただきます。

    『大阪地下鉄100型は通勤用ゲタ電ですから最高速度は70kmと低く抑えられていますが、デイ、モヨ以上の先進性を盛り込んだ高級車であり、170kw(約230HP)の強力モーターの採用は、戦前において実質的にはこの大阪地下鉄だけだったと言うことができます。(阪急神戸線920型も170kwの東芝SEモーターを採用していたが750V定格のものを600Vで使用したから実効出力は80%)尤もモーターの個数はオールM運用の大阪地下鉄は2個で、1車当たりの出力としては大きいものではありません。制御システムは新京阪、阪和と同じデッカーシステムの東洋電気伝導カム軸でしたが、モーター自体は東洋電機のものより東芝や川崎のが多かったようです。ブレーキは勿論AMU、台車には他で使用例のない住友の一体鋳鋼KS63Lが使用され、乗り心地は抜群でした。なお、大軌の小型車500型の最初の4両にはKS63Lのトレーラー用KS66L(車体に合わせて小型)が採用されていました。全電気指令ブレーキ等の先進メカの後輩30系のゴリゴリの乗り心地には、あまりの落差に驚いたものでした。30系当時の大阪市の設計陣は、乗客にとってのアメニティーなど全く考慮してなかったように見えます。いま、大阪メトロになって、やっとアメニティーにも気を配りだした様ですが、なれぬ悲しさで、いろいろスカタンもやらかしておられるようで、ま、長い目で見てやらねばなりますまい。
    さて、どなたかが書いておられたように、昭和30年頃までの地下鉄の空気(?)はすこぶる心地よいものでした!当時はトンネル内がまだ涼しく、全面まで伸びたロングシートに座り、窓を開け放って前方注視のひとときは、誠に悦楽のひとときでした。』

宮崎繁幹 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください