天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【9】

北陸の私鉄を巡る ③ 尾小屋鉄道

尾小屋鉄道は、北陸本線の小松駅の裏側にあった新小松と、鉱山があった尾小屋を結んでいた16.8km、軌間762mmの非電化鉄道でした。しかし、その鉱山は、昭和30年代には閉山しており、昭和50年代まで残っていたのが不思議なくらいでした。軽便鉄道の最盛期を知らない世代としては、その雰囲気を伝える貴重な鉄道として、廃止前には何度か訪れたものでした(昭和50年8月)。

終点の尾小屋は、鉱山の盛業時には2000人の人口があり、学校や病院、劇場まであったと言うが、訪れた時の駅前は、ゴーストタウン状態だった。裏手の小高いところから駅を見ると、在籍していたほぼ全ての車両が顔を揃えていた。

尾小屋周辺は銅鉱山が知られていて、明治に入って開発された。人力、馬力の輸送から、大正になって鉄道に切り替える機運が盛り上がり、先に尾小屋側から開業し、大正9年に新小松~尾小屋が全通した。沿線に目立った集落もなく、もっぱら鉱石の輸送に専念し、戦時中の統制で、石川県下の小私鉄は統合されて北陸鉄道となったが、尾小屋だけは独立を保った。しかし鉱石輸送は、昭和30年にトラックに切り替えられ、昭和37年には、鉱山の精錬も閉鎖され、従業員も解散した。採掘だけは、別会社で細々と続けられたが、閉山されたのも同様で、尾小屋周辺も一挙に過疎化が進み、その時点で廃止になってもおかしくなかった。旅客営業の最盛期は、昭和36年度の年間113万人で、朝の小松行きは、客車5両をDLが牽いたと言う。結局、昭和52年3月に廃止され、遊覧目的の西武鉄道山口線を除いて、最後の軽便鉄道は姿を消した。

駅の終端部には、小さな木造庫があって、その先に転車台もあって、ひと通りの終着駅の設備があった。転車台はいまも残っていると言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木造庫の横に休んでいたのがC155、昭和24年、立山重工業製のCタンク機で、地方鉄道向け最後の日本製蒸機だった。正式な称号は5号機関車だが、何故かC155のプレートを付けていた。この駅跡は、小松市のポッポ汽車展示館になっていて、5号蒸機、気動車(キハ3)、客車(ハフ1)の3両を移設、保管庫を新築し、平成14年4月にオープンした。

 

 

 

 

当時、尾小屋の主力として活躍したキハ3、前身は遠州鉄道奥山線のキハ1803で、昭和24年汽車製、同線の廃止に伴い、昭和38年に尾小屋に来た。尾小屋にはキハ1、2がいたので、続き番号のキハ3とするため、180を削らずに塗りつぶしただけにしていた。暗くて良く分からないが、ホームの琺瑯製駅名標は「をごや」と書かれていた。

キハ3のこちら側はキハ1803のまま。ネットを検索していると、大正8年の開業から今年で100周年に当たるため、もと尾小屋駅前にある、尾小屋鉄道資料館では「追憶 尾小屋鉄道」展が行なわれていることが分かった。

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【9】」への27件のフィードバック

  1. 高校の鉄研時代、蒸機を求めて北へ南へと精力的に走り回る学友を横目に、SLブームにも辟易していた私は、のんびりとした時間が流れているような、この小鉄道に魅せられたものです。
    北陸線の夜行の急行を利用し、尾小屋、東洋活性白土、立山砂防などを巡りました。思えば、軽便の時代から随分と時を経た1970年代にあって、北陸はナローの聖地だったのかも知れません。これらの路線のささやかな撮影の成果は総本家青信号特派員さまのお世話で出版物に提供させて頂くこともできました。総本家青信号特派員さま、その節はありがとうございました。
    ところで、「この駅跡は、小松市のポッポ汽車展示館になっていて、…」と記されておられますが、ポッポ汽車展示館は旧尾小屋駅から徒歩15分ほど鉱山跡にのぼったところです。

    • 乙訓の老人の甥さま
      懐かしい話をありがとうございました。はい、思い出しましたよ。T出版から軽便鉄道の出版の際に写真を集めるよう依頼があり、乙訓の老人に相談すると「ワシの甥が軽便好きで、ええ写真、撮っとるでぇ」と紹介され、写真をたくさんお借りしたのが、甥さまとの付き合いの始まりでした。改めて当時出版された2冊の本を見ると、なんと、尾小屋のページに甥さまと私の写真が上下に掲載されていました。ほかにも、木曾森林や芦生のトロッコなど、優れた写真を拝見しました。尾小屋のポッポ汽車展示館は、駅前しか知らず、勝手に推測してしまいました。こんな奥にあるとは、知りませんでした。

  2. 乙訓の老人の甥殿がおっしゃるように、北陸路は私鉄の宝庫でした。尾小屋鉄道の雰囲気は、特に印象深いです。昭和48年7月23日金平駅での交換風景です。ホームで列車を待つ子供達も、今では40歳過ぎのおじさん、おばさんですね。きっと幼い時代の記憶の隅にこんな風景が残っていることでしょう。

    • 西村様
      金平駅の交換シーンの写真、拝見しました。ありがとうございます。真夏のホーーム、こんなたくさんの母子が集まったのですね。夏休み、みんなでプールでも行くのかなぁ、まさに昭和です。腕木信号機、向こうから来るキハ1、こんな時代に戻りたいなと思わせます。眼福でした。
      ところで、前稿の京福越前線の資料を漁っていると、写真のような本が出てきました。表紙をめくった扉の写真が、西村さん撮影の、旧色+新色の2連が九頭竜川沿いの未舗装区間を行く写真でした。ほかにも下荒井六呂師口付近の写真もあり、楽しませてもらいました。

      • 総本家特派員殿
        なぜ京福の本に私の写真が載っているのか覚えがありません。キツネにつままれたとはこのことですね。

        • なんと、西村さんの手許には届いていなかったでしょうか。奥付に平成15年発行とあり、十数年前も前のことで、記憶が薄れていますが、地元・福井のファンの方が、京福福井支社の回顧写真集を作りたいと依頼があり、クローバー会として写真協力しました。その際に西村さんから写真を預かったと思います。ところが、一向に発行された気配がなく、責任者のファンの方に尋ねたところ、奥さんから連絡があって、本人が大病を患い入院中なので、しばらく待って欲しいと手紙があり、それから相当たってから、私の手許に完成本が届きました。写真協力者には本を送るようにお願いしたはずですが、確認ができておらず、申し訳ありません。本文にも数枚あり、今度お会いするときに持参します。

          • 特派員殿
            クローバー会を通じて提供したのだろうとは思っていましたが、写真集は見た記憶がなく、今度お会いする際が楽しみです。

  3. 尾小屋鉄道の雰囲気は良いですねえ。
    高校鉄研時代は国鉄の蒸機に夢中で、地方の中小私鉄は眼中にありませんでした。もっとも時すでに遅く、関西で生きた蒸機が見られる路線は少なく、関西本線無煙化後は北海道遠征の資金を稼ぐため、学業そっちのけでアルバイトに精を出しておりました。
    尾小屋鉄道は昭和51年に訪問予定でしたが、何を考えたのか小松を通り過ぎ、金沢から「立山」に乗ってさっさと帰ってしまいました。結局1枚の写真を撮ることもなく、何のために行ったのやら…。
    年齢を重ねて好みが変わったのか、今となっては悔やむばかりです。何とか間に合ったのは京福電鉄永平寺線の晩年だけでしたが、訪問直後に例の事故があって、それきりとなりました。
    関係のない話に終始し、すみませんでした。
    尾小屋鉄道の写真を見ると、Uターンした日を思い出します。

    • 紫の1863さま
      尾小屋の悔しい思い出、聞かせていただきました。私も“なんで、あんな行動をしたのか”と、今でも悔やむことはありますよ。せっかく行ったのに、時刻表を読み違えて撮影できなかったり、急に気持ちが萎えてしまって、結局何も撮らなかったり‥‥と悔やむことはいろいろですが、今となっては、これも楽しい思い出です。
      ところで、文中に5号機がなぜC155のプレートを付けているか不明と書きましたが、これは「Cタンク15トンの5号機」のことと判明しました。

  4.   昨年、明延鉱山を訪ねる機会を作ってもらい、一円電車に乗ったり、鉱山跡を見学することが出来ました。その前に、近くですが能勢電沿線の多田銀山跡を見学する機会がありました。
     鉱山が開発されると、人力が主体の時代は、一獲千金を夢見る人や、高い賃金に惹かれ沢山の人が集まり、その家族も含め、鉱山町が広がり、賑やかな時代が築き上げられる、そして鉱脈が掘り尽くされると、潮が引くようにすたれていく、あぁ無常と感じ入った次第です。九州や北海道の炭坑町も然りですね。金属は重いから、鉄道や船がなくては運べなかったのでしょうね。
     尾小屋鉄道、隣りの県だったので、懐かしい響きを感じています。
     

    • マルーンさま
      最近は“鉱山鉄”に転向されたのでしょうか。昔は各地に鉱山があって、それを運搬するための鉄道が多く敷かれましたね。私にとって鉱山跡で印象的だったのは、四国の別子銅山跡でした。深い山の中で、かつての繁栄の跡を見られたのは感動的でした。年齢を重ねたせいでしょうか、城跡、鉱山跡など、“強者どもが夢の跡”を訪ねる旅も好きです。

  5. ホーロー製駅名標の写真がありました。しかも、カラーで・・・撮った覚えがないのですが、これも一緒に行った父が撮影したものだと思いますが、定かではありません。越後は春日山のふもとから帰る途中に立ち寄った時に撮ったものであることは間違いありません。尾小屋鉄道新小松駅の写真に父が写っているのですから。

    • どですかでんさま
      お~っ、撮っておられましたか、これです、これです。私も撮っているのですか、モノクロで、色まで分かりませんでした。やはり琺瑯製のようですね。でも、背後は「おごや」なのに、なぜ「をごや」なのでしょうね。それに消して書き直したような跡も見られます。新かなづかいの時代、「ぎおん」を「ぎをん」と書くように、ちょっと気取った書き方をしたのでしょうか。

  6. 北陸本線沿線が私鉄の宝庫であることはなるほどと思いますが私などは常磐線沿線がそれだと思い込んでいました。何でも屋の私は大雪の次の日にまたも逗子のTさんと夜行急行列車でこの地に降り立ちました。1974年1月20日でした。夜が明ける頃キハ2を撮ったのがこれです。この後に近くの北陸鉄道も撮り、次に福井鉄道東古市に向かいました。尾小屋がおごやと呼ぶことや軽便762ミリであったこともあまり気にしていないいい加減な趣味者です。当然総本家さんの説明の尾小屋鉄道が鉱山鉄道であったことなど全く知りませんでした。この時はディーゼル機が1両の客車を牽引したり、ラッセルらしきものの走行写真も撮っていますが、列車には乗っておらず従って終点のことはわかりません。カラー写真を拝見するといい雰囲気であることはよく理解できます。

    • 準特急様
      写真も添付していただき、ありがとうございました。冬の北陸らしさを感じる写真です。バケット付きのキハ2は、キハ3とともによく使われていて、私も乗ったことがあります。撮られた場所へは、新小松から歩かれたのでしょうか。1974年と言えば、私も、よく準特急さんやTさんらと連れだって、いろいろなところへ撮影に行きましたね。これから発表するカラーにも、その際のものがありますので、またご覧になってください。

      • 逗子のTさんとは客車急行「越前」で小松に着いたと思います。夜が明けて雪の中をトボトボ歩いて撮ったのがキハ2の写真です。そのTさんとは先日お互い大人の休日旅行で新青森でバッタリ出会いました。これからも総本家さんの名作に乱入させていただきます。

        • 準特急様
          尾小屋終点写真、箱庭のようでね。1974年1月準特急さんと小松を訪れたときは、前日会社からスーツ姿のまま夜行急行に乗り込んだと記憶しています。3年前青森でバツタリお会いしたときは、行先が同じ蟹田で愉しくご一緒することができましたが、今回の新青森でのバツタリは帰りで残念でした。準特急さんの雨天決行の精神は変わらずですね。

          • 逗子のTさんがスーツ姿とは全然知りませんでした。猛烈サラリーマンだったのですね。尾小屋のあと京福に行きましたが志比堺という駅の近くで雪に埋まったことを覚えていますか。あの時は元京王2400形の261+262を撮っています。

          • 逗子のTさま
            準特急さんと尾小屋のあと、京福へも行かれたそうですが、上記に載せました京福の記念誌に、Tさんの写真も載っていましたょ。雪山をバックに単行の18号が走るシーンです。Tさんらしい写真ですね。これもクローバー会として投稿したようです。

    • 雪の止み間の黄昏時でしょうか?積雪もそれ程ではなく、前照灯が北陸の夕方の雰囲気を盛り上げてくれているようです。
      いろんな事に想いを巡らせることが出来る白黒写真の良さを再認識させてもらいました。
      急行「越前」懐かしいです。

      • マルーン様
        「越前」は在来型客車で最後まで残っていたうちのひとつと思います。福井行きですから小松到着時はまだ真っ暗であったように思います。従って尾小屋は夜明けの一番列車あたりです。

        • (1974年1月の話の続きですが)この日のは尾小屋鉄道と北陸鉄道小松線を撮ったあと、京福東古市(現永平寺口)でドカ雪の中で撮りましたが、志比堺の件はその写真がないこともあって覚えていません。東古市は永平寺線が健在で電車が到着すると乗換客で賑わいのひとときを迎えていたことを思い出しました。寅さん「男はつらいよ」のマドンナ吉永小百合の作品で寅さんが尾小屋鉄道のバケットカーにあわてて乗るシーンがあり、また京福東古市駅でマドンナら女性と寅さんの夕暮れどきの別れのシーンがあります。木造駅舎とホームがいい雰囲気を出していました。

          • 逗子のTさま
            またまた、くだんの本からの転載です。「男はつらいよ 柴又慕情」は、京福の京善駅でロケされたとの写真つき解説がありました。

          • 山田洋二監督のポリシーでしょうか寅さん映画には長崎あたりの小島とか城下町とか田舎電車や蒸気機関車がよく出てきましたね。寅さんの地元京成電車は当然毎回出てきましたが東横線や阪急神戸線は縁がないようでした。ワンパターンでしたが私もよく見ました。

        •  そうでしたか。失礼しました。
           日本海側は、山があるのが東側ですものね。冬の朝の雲の切れ目から、珍しく光がこぼれている情景なんですね。
           北陸の空はすぐ変わりますね。納得!

  7. またタイミングのずれたコメントで失礼します。小生も昭和51年の秋に尾小屋を訪ねていました。DRFCで活動した仲間数人と一緒に出掛けたのですが、残念ながらメンバーは後述のお一人を除いて想い出せません。尾小屋までキハ3に乗り、終点で数枚、復路途中の池の横でも写真を撮りましたが、それ以降の記憶がありません。それはこの尾小屋日帰り旅が小生の対外信用を失うかどうかの、かなりの瀬戸際旅行だったからでした。
    往路小松までの雷鳥号特急券は勧進元の小生が手配し、京都駅1番線で集合して一緒に乗り込むという手筈でした。ところが人生での大事な時に皆無だった朝寝坊というのをこの日に限ってやらかしてしまったのでした。もちろん目覚ましはかけていたのですが、ご丁寧にベルを止めてまた寝入ってしまったようで、気が付いたのは7:45でした。本来は山科から一旦京都へ行って皆さんと合流する予定でしたが、この時間ではもうとても8時過ぎ発の雷鳥には間に合いません。ただ一つだけ間に合う(小生が雷鳥に乗れるという点に限って)方法がありました。たまたま先行の湖西線普通電車が西大津(現大津京)で雷鳥を退避するため、これも数少ない同駅に停車する乗車予定の雷鳥に乗ることが可能というものでした。とにかく予定の雷鳥に乗るにはこれしかないということで、洗面着替えを手っ取り早く済ませ、山科駅まで走りに走って駆け込みました。走りながら考えたのは、これは小生が雷鳥に乗れるだけのことではないか、京都駅集合の皆さんが切符が無いからと乗車を諦めて乗らなかったら、もう一巻の終わりだと。山科駅に着くや否や直ぐに駅務室に飛び込み、京都駅1番線の皆に予定通り雷鳥に乗るよう放送してくれるよう依頼しましたが、しかしこの時点ではもう雷鳥が入線するかどうかの時刻になっていて、駅の返事も手配はするがもう間に合わないかもというものでした。とまれこれで手を尽くしたのでホームまで走って先行電車に飛び乗りました。あと唯一の望みは皆さんが乗って来てくれることでしたが、ひるがえって思うに自分ならまず乗らないだろうなあと気づくと、最悪の結果に愕然としたものでした。西大津までの間に参加者のお一人で日旅にお勤めのF島さんに予め指定席情報をお伝えしていたことを思い出し、一縷の望みを持ちました。その添乗員経験をお持ちのF島さんのご判断で、小生が合流しないにも拘わらず、とにかく乗ろう、西大津で合流できなければ車掌と掛け合って何とかしようというご判断だったようです。
    肝心の尾小屋はこのような出来事のあとでは殆ど印象はなく、従ってF島さん以外のメンバーも残念ながら記憶にないというありさまです。F島さんのご決断で事なきを得たわけですが、もしこの旅行が中止になっていたらと思うと、今でも冷や汗ものです。おそらくDRFCの連中からはアイツは信用ならんやっちゃとの非難中傷はおろか、退会勧告を受けて今こうしてのうのうとコメントして居れなかったかもしれません。改めてあの日にご一緒した皆さんにお詫びと、F島さんにはお助け戴いたことに感謝申し上げたいと思います。尾小屋本題からズレたコメントで申し訳ありませんでした

    • 1900生さま
      今まで溜め込んでおられた思いを一気に吐き出すような長文の思い出、ありがとうございます。たしかに、携帯電話のなかった時代、今では考えられないような失敗がありましたね。私も、撮影の約束をしておきながら、寝過ごしてドタキャンした思い出が、2、3あります。相手は、F島さんではなく、私の場合は決まってF本さんでした。ただ、約束場所に現れなければ、そのまま出発するという暗黙の了解もあったように思います。約束や責任に対して、今よりもっとゆるい時代だったと思います。

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