やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑤ 

若松機関区(3)  8620 9600 D50 D51

若松機関区、続けます。C55以外の「若」の蒸機となると、8620、9600,D50、その後の転属機としてD51となりました。華やかなC55と比べると、貨物、入換が中心の地味な働き場所でしたが、決して手は抜かず、美しく整備されていたのが、九州の蒸機でした。なかでもD50は、当時でも数を減らしていて、昭和40年代も後半に入るとD51に交代していきますが、私としては、米原の交直接続で、よく整備されたD50に接していて、大正生まれのD50に再会できて心が躍ったことを覚えています。化粧煙突を装備したD50 140  当時、若松区には数両のD50が配属されていたが、その中でも白眉の存在だった。直方へ転属していた時期もあったが、終始、筑豊本線で活躍。その後、まさかこの蒸機が京都へ来て、梅小路蒸気機関車館入りをするとは思わなかった(以下特記以外、昭和44年3月)。

8620 昭和42年3月現在、6両の8620が配置されていた。働き場所は、若松駅などでの入換、そして室木線、香月線での旅客列車の牽引だった。

パイプ煙突に換装されている38634 室木線での逆行運転のため、暖房管が前梁まで伸びてきているのが分かる。その38634が室木線で客車を牽くシーン。逆向運転は室木行きの場合で、室木発は正向となる。形式入りナンバープレート、化粧煙突、デフ装備の88622 同機は後年デフを取り外して、より原型に近づいた。デフの取り外し時期については、本欄でも紫の1863さんからのご教示をいただいた(昭和43年3月)。88622は廃車後、鉄道の無い壱岐市内で保存されていると言う。写真を見ると、屋外ののためかなり荒廃しているが、化粧煙突はそのまま残っていた(昭和43年3月)。

9600 筑豊本線の石炭列車の牽引に、直方区の9600とともに日夜、働き続けた。石炭列車を牽くキュウロクは、いわば筑豊の代表的な鉄道シーンだった。

69614 セフ+ワフの2両を牽いて、折尾~中間の立体交差区間に掛かる(昭和45年8月)。形式入りナンバーの69646が貨物列車を牽く。無蓋車、有蓋車だけで、これは石炭列車ではなく、一般の貨物列車、1両目のセフは緩急車の代用。中間付近(昭和45年8月)こちらも同じく69646が逆向で牽く筑豊本線の貨物列車、本線でもテンダー機の逆行運転が日常的に行なわれていた(昭和45年8月)。

D50 昭和40年代前半には4両のD50がいた。直方区にもD50がいて、相互に交代があったりして推移し、昭和46年にはD51と交代して、配置は無くなった。

珍しくD50 90が牽く旅客列車723レが冷水峠を越える。D60は旅客を牽くことはあったが、D50が牽くのは極めて珍しかった。中間を出て遠賀川鉄橋へ向けて築堤を駆け上るD50 90 右手の線路は香月線。D50 90のデフは大型の切取式K-7型、当時、D50の製造番号2桁は、このD5090だけで、D50のなかでいちばんの若番号だった(昭和45年8月)。冷水峠を下る。1764レをD50 90が牽く。晩年のD50 90 デフのステーが白く塗られている。折尾~中間(昭和45年8月)。高灯山を背景に若松区に佇むD50 140D50 140 ボタ山も見える中間の大カーブを行く。

夕暮れ近い若松機関区で休むD50 140、ギラリが見られるのも九州ならでは。若松には化粧煙突のD50 205もいた。こちらも美しい蒸機だった。デフに点検窓が付いている。ところが翌年に行ってみるとD50 205はパイプ煙突なっていて落胆したが、同機は昭和46年に廃車となり、これがD50として最後の一両となった。折尾~中間(昭和45年8月)筑前山家でD50 231の牽く764レと交換する。パイプ煙突、シールドビームながら、形式入りのナンバープレートを装備していた。D50の最後はD50 318 これも化粧煙突だったが、昭和44年に廃車されてしまい、写せたのは、この一回だけだった。筑前内野~筑前山家(昭和43年3月)

D51 若松区には、D50に代わり、昭和46年からD51が入線し、旅客、貨物の牽引を始めたが、活躍は3年で終わった。意外にD50よりも短期間で終了した。D51 206 筑前山家を発車する727レ  鹿児島本線の電化で出水区から転属した。昭和49年の筑豊本線の蒸機最終列車(貨物)を牽いた(昭和46年12月)。まだ明け切らない筑前山家駅で待機するD51 542 肥薩線で写して夜行鈍行1122レに乗って原田で降りると筑豊本線の一番列車に接続していて、冷水峠で朝一番から撮れた(昭和46年12月)。D51 542も出水区から若松区に転属した。現在、JR九州の小倉工場内で野外保存されていると言う。筑前内野~筑前山家(昭和46年12月)

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑤ 」への6件のフィードバック

  1. にわかSLマニアの少年にとって筑豊本線は『聖地』で、8620・9600・D60が次から次へと走ってくる、夢のような路線でした。
    若松には思い出も多く、中学生の分際で入った駅前の寿司屋で板前さんが目の前で握ってくれる寿司に大人の気分を味わい、同級生の友人と二人で旅館に飛び込みで泊まり、翌朝には機関区の裏手から高塔山を背景にたたずむ88622をハーフカメラで撮影したことなど、懐かしい記憶が蘇ります。しかし、若松の区名札の書体には気付きませんでした。
    昭和47年の夏休みに筑豊を再訪した時、梅小路にいたはずのD50 140に出会えたのは驚きでした。ネットの無い時代で、蒸機のスジにDLが来てがっかりすることが多かった半面、筑豊に返り咲いたD50を見られた感激は今も忘れません。

    • 紫の1863さま
      若松、いいところでした。蒸機もさることながら、裏寂れた街並みも旅情をかき立ててくれました。お書きの高灯山、掲載しなかった写真の中に、D51の背後に写っていましたので貼っておきます。区の事務所が二階にあり、その通路から、区全体と高灯山が望めたものでした。
      D50140は、たしか昭和46年に国鉄百年の映画の撮影のために、一度、京都へ来ていますね。また若松へ戻り、しばらく稼働してから、蒸気機関車館に来たのでしょうか。

  2. 総本家青信号特派員様
    D50 140は昭和46年4月30日の「さよなら運転」を最後に一休車に指定され、若松区で保管されていました。11月には記念映画の撮影で梅小路に来ましたが、撮影終了後も戻ることはありませんでした。昭和47年3月に小倉工場へ入場し、中間検査Bを受けた後、直方区に貸し出されました。5月から9月までの4か月ほどの期間を、筑豊本線・上山田線で再度のお務めを果たしました。
    昭和47年の正月に、梅小路でC55 1・48635と並ぶ姿を見ています。

    • 紫の1863様
      私も梅小路での映画撮影の時は行きました。別に雑誌や新聞に載った訳でも無いのに、どこからとも無く、各地から蒸機が来ているとウワサが流れてきました。行ってみると、なんとC622やC551、D611、D50140と、彼の地で出会った懐かしい蒸機が並んでいるではないですか! もう夢を見ているような気分でした。

  3. 総本家青信号特派員様
    昭和46年11月に映画撮影のために全国から蒸機が集められた情報は、その頃一緒に撮影に出かけていた友人から聞きました。その友人は「梅小路にぎょうさん蒸気機関車がいたで」と、通勤に山陰線を使っていたお父さんの話を聞いた同級生から仕入れたようです。「国鉄時代」に品川530様が書いておられますが、11月25日の午後遅くに30分間だけファン向けに撮影が許されたとのこと。うらやましい…。私は25日の夜遅くと、26日の早朝に出かけました。
    D50 140はデフの周りが白く縁どられ、筑豊本線でお別れ運転をした時のままでした。
    些細なことですが、D61は2号機が来ておりました。

    • 梅小路の思い出、ありがとうございます。私も11月20日過ぎ(正確な日付不明)に、クラブのメンバーと行きました。D61は2でしたね、C622の横に並んでいました。まだすべての蒸機が揃っていなかったのでしょうか、私のネガにD50140はありませんでした。この映画撮影のことは、鉄道ファンに載っていたはずと、朝から探して、やっと131号の冒頭に折り込み写真とともに紹介されていました。改めて、空前絶後のことを、よく敢行したものと思います。一年後の蒸気機関車館の保存機より、多彩な形式が集まっています。記事を読むと、SLブームのなか、国鉄は、事前に公表せず全く極秘に進めたそうです。ある人が、新宿駅で山手貨物線の貨物のなかに、C622が連結されていて驚いて、鉄道ファン編集部に連絡してきたとありました。

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