昭和の電車 改訂版(112)ー京阪500型ー

この500型に関しては西村さんのレポートが出ておりました。

京阪500型の思い出

25 thoughts on “昭和の電車 改訂版(112)ー京阪500型ー

  1. 1966年5月12日八幡町(現八幡市)~淀間を行く三条行き普通列車の後ろ狙いですが、これが500+250+500ではないでしょうか。

      • 「ガイコツ」 なんと懐かしい響きではありませんか。覚えています!
        懐かしの室町BOXを思い出しました。

        • マルーン様
          ガイコツ(500系)とおかちめんこ(1000,1100系)はよく覚えています。阪急はなまず(確か200系)くらいですが、よく言えば人気者、悪く言えばゲテモノにされることがありますが、個性的な車両(顔)ということです。関先生のおっしゃる「懐かしのがらくた編成や」河 昭一郎さんの「N700Sよりも旧型国電単行の方がええ」という名言にはなるほどと思う高齢ファンも多いと思います。お亡くなりになった京阪の名運転士Nさんと話をした時には700系だったと思いますが、こえたんこに突っ込んだと聞いたことがあります。こえたんこと言えばしつこいようですが米手さんの「客車は垂れ流しでないとあかん」という名言も忘れられません。

  2. 米手作市様
    「垂れ流しでないとアカン」って、貴殿が仰った時のタイミングが判らないので断言できませんが、私には良い思い出がありません。

    ①山科の築堤で撮ってる時、ファインダーに数両目の客車からシャ―っと水(実は汚水?)が出てるのを見て、一目散に土手を転がり降りたのに間に合わず、諦めてカメラを抱えて丸こまった背中に「しこたま」汚水のシブキを被った事があります。

    ②撮影で(今では歩けませんが)線路上を移動していたら、千切れ千切れの「後処理ペーパー」が枕木にこびり付いており、所々に茶色のモノが。(匂い迄はしなかったけど。)

    ③京都駅で線路に向って電車を待っていたら、隣(真向い)に止まった客車列車の便所が目の前になりました。
    停車中はトイレを使こうたらアカンのに、通路を歩いた来た「若い女性」がそのままトイレへ。
    床より一段と高い所に上がる「若い女性」の一部始終が、目の前のスリガラスに映し出されるのを見せられました。(夕方の直射日光がトイレ内を明るく照明してました。)
    そして何と、暫くして床下のパイプ?からは水がしたたり落ちました。

    • 河 昭一郎様
      このあたりは手をかえ品をかえてゴネ押しも厭わない京都のトランプさんが何とおっしゃるかお待ちしましょう。

  3. 河 昭一郎様
    このあたりは手をかえ品をかえてゴネ押しも厭わない京都のトランプさんが何とおっしゃるかお待ちしましょう。

  4. 河 昭一郎様、準特急様、
    告発状にお応えします。
    まず、『客車とは垂れ流しトイレと手動開閉の扉がいいのだ』と申し上げましたが、これはあくまで趣味者の立場からのもので、利用者や社会通念上の衛生環境を考慮したものではありません。たとえば準特急さんがいつも取り憑かれたように言っている『電車は吊りかけや』もそのたぐいで、乗客の立場からは空気バネ台車でカルダンのほうがいいに決まっています。また、マルーンさんが自慢するP-6にしても、乗客は正雀構内で10mレールによる激しい上下振動が原因の痔疾発病の危険性や、十三に入る直前に突然起きる暗黒の世界で追い剥ぎに会う危険性より現在の様に明るく滑るような乗り心地がいいに決まっております。
    河 昭一郎証人の証言につきましても鉄道写真を撮る者としては、戦場で矢玉の下をくぐるがごとき武勇伝で有り、ただ“ウンが悪かった”としか言いようがなく、女性がトイレに入った件などは、まさに男子の本懐というべきでしょう。
    と、言うわけで私の発言は趣味者のノスタルジーを代返したものであり、賞賛されこそすれ罵倒されるものではありません。
    これらのことは約五十年前の室町ボックスでの人民裁判でも無罪を勝ち取っており、一事不再理の原則によりやっぱり無罪であります。
    補強証拠として傍聴人が泣けるノスタルジー写真を提出致します。
    法学部法律学科学籍番号457(C57・これ本当!)米手作市

    • 十三の暗黒の世界を行く2814編成7連です。ビームに「これより無電圧」と表示しています。運転士はノッチオフして立っています。
      BOXで、電気代を払わないからこんなことになるのではなく、あっちとこっちの電圧が違うからこうしているのだと聞きました。実際に追い剥ぎが出たという話は聞いていません。

    • 傍聴人の一人として、強く賛同いたします。スミからスミまで本当に泣ける写真です。米手さんはペダル派ですか、ヒモ派ですか。

      • 踏んでもなかなか流れず、流れてもタンクが空なのか?と焦るほどの勢いでしか流れないペダル派です。

        • たしかにいくら踏んでもまともに水が流れない経験は私もよくありました。
          なお、イメージしやすいように「ペダル」・「ヒモ」と書きましたが、用語としましては、「ペダル」はこれで良いのですが、「ヒモ」は「引棒」が正式で、屋根裏に水槽があった大昔の話です。他に「便器洗弁」という装置もありました(「コック」がピンとくるのですが、別の意味の「コック」という用語がありました)。長々と失礼いたしました。

          • 言われてトイレの上から細い棒(針金より太い)が下がっているのを思い出しました。揺れてもブラブラしないようにとのことでしょう。

  5. 黄害問題については、我々世代には共通の思い出でしょう。特に積雪の犬走のカラーリングは、動物の足跡とともに当たり前の光景でしたね。さて本題のガイコツのお伴ですが、寝屋川車庫の片隅に254の車体が休憩室か何かで残っていました。貴賓車16号の車体もありました。昭和43年6月15日 DRFCの寝屋川車庫見学会のひとコマです。

  6. 米手作市様
    撮ってましたか! 見れば見る程懐かしい? 
    さて、次は利用した時の経験談ですが・・・待てヨ、この記事のタイトルは「京阪500型」でしたネ。
    脱線も甚だしいと皆様からお叱りを受ける事必定なので、涙を飲んで此処で退場する事に致しましょう。(笑)
    しかし、貴殿の仰る通り「吊り掛けとカルダン」「P-6と7000系」は、正に
    小生の「N700Sとクモハ43の単行」と並んでノスタルジー賞賛の最たる物。
    貴殿が言うカツテの「垂れ流しトイレ及び手動開閉扉」へのノスタルジーと
    通ずる物が有るのも事実ですネ。

    • さすがは鉄道の第一人者の河 昭一郎様、私が無罪であることをご理解いただき感謝致します。
      当会の伝統として、議論は「時と場所を選ばず、声の大きさと語彙の多さを以て勝ちとする」ので、場所が京阪500型だろうが阪急のP-6だろうがかまいませんのでお続けください。
      当会の“グエン・カオキ”氏もこれで納得されたはずです。

  7. 河 昭一郎様
    私の「保存蒸機」も不人気でノーコメントでしたが、米手さんから本題そっちのけで横軽対策の質問があり、いろんな方から古い写真や図面を使ってのコメントで盛り上がりました。私は本題から脱線して外れていくのは結構なことだと思っております。今回の客車トイレ垂れ流しは伝統あるデジ青の品を落としたのかどうかいろいろあると思いますが、我々の学生時代のDRFC仲間は授業にも出ずに昨日のトランプさんのように一方的に話しまくり贔屓の会社や車両を自慢して相手を黙らせるのが流行っていました。米手さんはあの当時のままで毒舌は衰えていません。それより今年のデジ青大賞にしてもいいような迷コメントだと思いますが、十三の暗黒の世界やグエン・カオキ氏など知らん人もおられるでしょうね。河さんもいろいろおありのようで経験談をお聞かせ願えれば幸いです。

    • 準特急さま
      確かにそうですネ。 「ピフ」は本当に「人生初耳」でしたが、大変勉強になりました。 しかし、何でも「歴史」が有るんですネェ。

      • 河 昭一郎様
        河さんも知らなかったのですね。ピフなんていきなり出てくると困ります。浅学菲才の私はいつもおろおろしています。米手さんはいろんなこと知っています。だから、尊敬する一方、いつも参っています。

  8. 今回の関先生の画は、まさしく私の鉄道趣味の原点です。というのも、複々線を毎日間近に眺めて育った私にとって、物心ついたころの満3歳の年に1650型が登場。その後しばらくしてからこのような混色編成が頻繁に走るようになったのですから。ただ先生の記事にもあるとおり、MTM3連の場合両端Mが新色で中間Tが旧色、あるいはその逆のケースが多く、また250型や16号は比較的遅くまで旧色だったように記憶しています。(学齢前なのであやふやですが)さらに細かく考察すると、混色編成が盛んに走っていた昭和33年から34年頃のダイヤでは、三条直通の普通列車はラッシュ時を除き複々線内側(A線)を走る「橙色枠付き標識」だったのではとか、またその編成も正月など特別な場合以外は通常2連だったとかいったこともありますが、「可能性」としてはこんな列車もあり得たということでしょうか。

    500型については、更新前の車も当時まだ残っていたはずですが、残念ながら私はその記憶はまったくありません。2枚窓と少し後ろ寄りのパンタから、私は何となく猫(それも招き猫のように眼が大きくデフォルメされた)のイメージを感じておりました。大型車体に更新されて昇圧前日まで活躍を続けた600系に比べると、いかにも中途半端な更新だったと思われます。そのため木造車廃車後は、支線運用が主体でした。交野線での4連の写真を添付します。
    1974(昭和49)年2月9日、私市駅手前の陸橋からの撮影です。この日の交野線は、500系、1300系、1700系の各4連という、吊掛車ばかりの運用でした。

    • まほろばの鉄趣味住人 様ご紹介のカーブを過ぎると、切通しがあって終点私市だったと思います。私の写真は昭和48年8月頃だと思われますが、複線化のために切通しの拡幅工事中でした。中間に550,580をはさんだ4連です。

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