ここはどこ?わたしはだれ?ーGordonDavis氏作品より(3) 投稿日時: 2023年2月6日 投稿者: 米手作市 宮崎繁幹さんからの挑戦状は、まだ20枚ほどが残っています。 準特急さん、マルーンさん、気を抜くことなく、必死のパッチで応えてください。 ㉑ ㉒ ㉓ ㉔ ㉕ ㉖ ㉗ ㉘ ㉙ ㉚ この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: ここはどこ?わたしはだれ?ーGordonDavis氏作品より(2) ここはどこ?わたしはだれ?ーGordonDavis氏作品より ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ③ ここはどこ?わたしはだれ?京都市電編 ① ここはどこ?わたしはだれ?国鉄(鉄道省)編② ここはどこ?わたしはだれ?国鉄(鉄道省)編① ここはどこ?わたしはだれ?京阪電車編 ここはどこ?わたしはだれ?【増3】
㉖ N電堀川線 堀川三条でしょうか? 東堀川三条北東角の三井銀行の場所には、昭和初期から銀行があったようです。現在この付近は堀川が暗渠化され、すっかり変わってしまいました。このあたりをN電が走る写真を見たことが無く、良いものを拝見させていただきました。 今回はマルーン様の縄張りのようですので、頑張っていただきましょう。 返信 ↓
怖い米手作市様! 27、29、30は桂を出て桂川橋梁に向うP-6です。特に29は画面右後方に嵐山線の電柱が見えています。とすると28は桂駅から撮影地までの間で撮った嵐山線の木造車10形と思われます。添付は1966年4月に撮った2321を先頭とする大阪梅田行き急行で桂川を降りて桂に向う姿です。27とほぼ同じ角度です。29、30は桂を出て京都の終点大宮に向う姿です。 返信 ↓
(追加)28の京都よりの車両は300形→1300形→750形で電装予定で製造された制御車ですがこの写真では電動車100形と組んだ1300形当時の姿です。後年運輸省規格型700の付随車となり張り上げ屋根はそのままで京阪スタイルを残していました。時期は阪急がつくった河原町延長よりずっと前です。映画の看板や銀行がないのでよくわかりません。 返信 ↓
準特急さま、お見事です! 小生は、車輌が新京阪→阪急の一党のものであるのは判ったので、阪急京都線沿線だとは推定できたが、それ以上のことは全く判りませんでした。特に㉘の小型車2連は、こりゃ能勢電か?、なんて思って居りました。Davisさんは、長巻のPlus-Xを切り、詰め替え使用していることが多く、現像後は更に6駒分に切断し、ネガケースに入れてありました。㉗~㉚は同一の1本上にあり、京都線を撮ってる最中に、途中で能勢電をひと駒だけ撮影しに行くのは変だなぁ・・・、と頭を捻っていた訳です。種明かしをして頂いて、こう云うことは、地元の方で、更にその頃の年代には、何処そこの線区には、どんな車輌が走っていたのかを知らないと、まったく見当がつかないと思いました。良い勉強をさせて頂きました。御礼申し上げます。 返信 ↓
京都市電はだれも書いてくれないので代わりに書きます。 ㉑塩小路新町交差点南東から北西を撮影。㉒に写っている関電ビルの西隣付近 ㉒京都駅前烏丸線発着ホーム 800型、1000型、600型 ㉓ 同上伏見線八着ホーム 500型、中央扉は使用中 ㉔ 同上 600型原形(ビューゲルを除く) ㉕高倉跨線橋(タカバシ)後の民家は現在京都市立芸術大学が建設中です。 返信 ↓
米手様から気を抜くなとの叱咤激励があり、緊張の毎日を過ごしておりました。 P-6を見てきっと桂付近かなと思ったりしていましたら、準特急様から適確なコメントがなされ、さすがと思っていました。 28番は私の乏しい経験から嵐山線の高架かなと思ったのですが、写っている車両が?でした。その時準特急様から旧1300だというコメント。これが旧1300か!と学習させて頂きました。と同時にファーストインプレッションが間違っていなかったんだとホッと胸をなで下ろした次第です。 ところで、電車の下に写っている荷車はヒョッとして肥タンゴですかね!? 返信 ↓
さすが田舎者、いや、北陸出身者! 私もこれに気がつきましたが、さすがに口の端に載せるのは京都出身者としては憚られるので慎んでいました。懐かしさに涙がこぼれます。むかしこの桶の上に大根や野菜を載せてきて、くみ取らせて貰ったお礼にその野菜を置いて帰った、と聞いたことがあります。 返信 ↓
高倉跨線橋の502は、方向幕が早々と「いなり」に変えられていますが、京都駅に向かっています。 もう少し下ったところに「第一旭」と「新福采館」があります。 昭和45年3月31日、伏見線最終日、塩小路高倉を発車した932です。 返信 ↓
藤本さん、 貴重な写真をありがとうございます。 ところでこの写真はご説明とは反対の位置での撮影ではありませんか?(第一旭の前)。よく似ているのですが北側から南を向いての撮影と思います。従って方向幕は正位置です。左の町並みは現在芸大に建て替え中の町並みです。もし南側からの撮影だとしたら家の向こうに旧京都駅や丸物が見えると思います。 返信 ↓
藤本様 この日は車両班の見学会でしたね。私も撮っていました。隣にあったN25を載せておきます。N25は甲賀カントリー倶楽部ファミリーランドに移されたと思いますが、今はどうなっているのでしょう? 返信 ↓
これらの写真が撮影されたのは、昭和31年2月ではないかと思います。以前のコメントに宮崎様が書いておられますが、Davis氏は同時期に山科でC59 127を撮影されてます。市電の写真に写る人々の服装や、阪急桂駅付近の風景も冬場のように見えますので、そのように考えました。 27~30は阪急(この頃は京阪神急行時代ですね)桂駅付近です。 27は池尻踏切道から西京極駅の方向を向いて撮影。 29は27と同じ場所で桂駅の方向を向いて撮影。右手に28の鉄橋が見えます。 30はもう少し桂川寄りに歩き、桂駅の方向を向いて撮影。 28は嵐山線で、29の電車後方の踏切を右へ歩いた場所にあたります。こ嵐山線の西側から東を向いて撮影され、鉄橋を境に右はコンクリートの高架橋、左は築堤になってます。桂駅は右手の方向になります。また、右手の民家は現存しており、ストリートビューで確認できます。 マルーン様がおっしゃる通り、私も「ハニーバケット」が気になりました。桂付近は農地が広がっていて、このような風景は日常的に見られたのでしょう。そういえば昭和30年代の後半、京都市北区の我が家にも農家の人が回収に来たことを思い出しました。遠い昔の話です。 藤本様のN電21号は、河原町御池に保存されている車輌ですね。廃止後間もなく保存されたと思っていたのですが、昭和44年の時点で九条車庫に保管されていたとは知りませんでした。ひとつ知識が増えました。 返信 ↓
28の写真、私も少し気になっていました。すぐに場所の想像はついたのですが、29の右端に写るガーダーと28のガーダーの下に写る京都線の架線柱の距離感に、今一つ違和感がありました。 当のガーダーではないのですが、一つ南側のガーダーの写真を貼付いたしておきます(1983年7月3日撮影)。 返信 ↓
マルーン様 米手作市さんの叱咤激励は強迫に感じました。28の嵐山線の車両は10形木造車でP-4、P-5とか言われていました。昭和30年代後半に能勢電に集結したと思われます。1300形はマルーンさんがハンドルを握った元特急用ではなく京阪設計でできた張り上げ屋根の車両で電装されずP-6デイ100の制御車として使われていたのが27の京都大宮寄りの車両です。300→1300→750と形式ナンバーが変わりましたが神宝線との番号重複を避けての処置と思われます。付随車750になってからは700の間に入っていたのでマルーンさんもよくご存知と思います。強迫に焦ってマルーンさんの思い出の地を先回りしてすみません。紫の1863さん、四方誠さん補足説明ありがとうございます。 返信 ↓
㉖ N電堀川線 堀川三条でしょうか?
東堀川三条北東角の三井銀行の場所には、昭和初期から銀行があったようです。現在この付近は堀川が暗渠化され、すっかり変わってしまいました。このあたりをN電が走る写真を見たことが無く、良いものを拝見させていただきました。
今回はマルーン様の縄張りのようですので、頑張っていただきましょう。
怖い米手作市様!
27、29、30は桂を出て桂川橋梁に向うP-6です。特に29は画面右後方に嵐山線の電柱が見えています。とすると28は桂駅から撮影地までの間で撮った嵐山線の木造車10形と思われます。添付は1966年4月に撮った2321を先頭とする大阪梅田行き急行で桂川を降りて桂に向う姿です。27とほぼ同じ角度です。29、30は桂を出て京都の終点大宮に向う姿です。
(追加)28の京都よりの車両は300形→1300形→750形で電装予定で製造された制御車ですがこの写真では電動車100形と組んだ1300形当時の姿です。後年運輸省規格型700の付随車となり張り上げ屋根はそのままで京阪スタイルを残していました。時期は阪急がつくった河原町延長よりずっと前です。映画の看板や銀行がないのでよくわかりません。
すみません。28でなく27の京都大宮よりの車両が300→1300→750と変遷した車両です。お騒がせしました。
準特急さま、お見事です! 小生は、車輌が新京阪→阪急の一党のものであるのは判ったので、阪急京都線沿線だとは推定できたが、それ以上のことは全く判りませんでした。特に㉘の小型車2連は、こりゃ能勢電か?、なんて思って居りました。Davisさんは、長巻のPlus-Xを切り、詰め替え使用していることが多く、現像後は更に6駒分に切断し、ネガケースに入れてありました。㉗~㉚は同一の1本上にあり、京都線を撮ってる最中に、途中で能勢電をひと駒だけ撮影しに行くのは変だなぁ・・・、と頭を捻っていた訳です。種明かしをして頂いて、こう云うことは、地元の方で、更にその頃の年代には、何処そこの線区には、どんな車輌が走っていたのかを知らないと、まったく見当がつかないと思いました。良い勉強をさせて頂きました。御礼申し上げます。
㉘は阪急嵐山線の桂ー上桂です。
京都市電はだれも書いてくれないので代わりに書きます。
㉑塩小路新町交差点南東から北西を撮影。㉒に写っている関電ビルの西隣付近
㉒京都駅前烏丸線発着ホーム 800型、1000型、600型
㉓ 同上伏見線八着ホーム 500型、中央扉は使用中
㉔ 同上 600型原形(ビューゲルを除く)
㉕高倉跨線橋(タカバシ)後の民家は現在京都市立芸術大学が建設中です。
米手様から気を抜くなとの叱咤激励があり、緊張の毎日を過ごしておりました。
P-6を見てきっと桂付近かなと思ったりしていましたら、準特急様から適確なコメントがなされ、さすがと思っていました。
28番は私の乏しい経験から嵐山線の高架かなと思ったのですが、写っている車両が?でした。その時準特急様から旧1300だというコメント。これが旧1300か!と学習させて頂きました。と同時にファーストインプレッションが間違っていなかったんだとホッと胸をなで下ろした次第です。
ところで、電車の下に写っている荷車はヒョッとして肥タンゴですかね!?
さすが田舎者、いや、北陸出身者!
私もこれに気がつきましたが、さすがに口の端に載せるのは京都出身者としては憚られるので慎んでいました。懐かしさに涙がこぼれます。むかしこの桶の上に大根や野菜を載せてきて、くみ取らせて貰ったお礼にその野菜を置いて帰った、と聞いたことがあります。
高倉跨線橋の502は、方向幕が早々と「いなり」に変えられていますが、京都駅に向かっています。
もう少し下ったところに「第一旭」と「新福采館」があります。
昭和45年3月31日、伏見線最終日、塩小路高倉を発車した932です。
藤本さん、
貴重な写真をありがとうございます。
ところでこの写真はご説明とは反対の位置での撮影ではありませんか?(第一旭の前)。よく似ているのですが北側から南を向いての撮影と思います。従って方向幕は正位置です。左の町並みは現在芸大に建て替え中の町並みです。もし南側からの撮影だとしたら家の向こうに旧京都駅や丸物が見えると思います。
昭和45年2月14日、勧進橋、502です。
昭和44年12月7日、九条車庫で保管中の21です。
藤本様 この日は車両班の見学会でしたね。私も撮っていました。隣にあったN25を載せておきます。N25は甲賀カントリー倶楽部ファミリーランドに移されたと思いますが、今はどうなっているのでしょう?
これらの写真が撮影されたのは、昭和31年2月ではないかと思います。以前のコメントに宮崎様が書いておられますが、Davis氏は同時期に山科でC59 127を撮影されてます。市電の写真に写る人々の服装や、阪急桂駅付近の風景も冬場のように見えますので、そのように考えました。
27~30は阪急(この頃は京阪神急行時代ですね)桂駅付近です。
27は池尻踏切道から西京極駅の方向を向いて撮影。
29は27と同じ場所で桂駅の方向を向いて撮影。右手に28の鉄橋が見えます。
30はもう少し桂川寄りに歩き、桂駅の方向を向いて撮影。
28は嵐山線で、29の電車後方の踏切を右へ歩いた場所にあたります。こ嵐山線の西側から東を向いて撮影され、鉄橋を境に右はコンクリートの高架橋、左は築堤になってます。桂駅は右手の方向になります。また、右手の民家は現存しており、ストリートビューで確認できます。
マルーン様がおっしゃる通り、私も「ハニーバケット」が気になりました。桂付近は農地が広がっていて、このような風景は日常的に見られたのでしょう。そういえば昭和30年代の後半、京都市北区の我が家にも農家の人が回収に来たことを思い出しました。遠い昔の話です。
藤本様のN電21号は、河原町御池に保存されている車輌ですね。廃止後間もなく保存されたと思っていたのですが、昭和44年の時点で九条車庫に保管されていたとは知りませんでした。ひとつ知識が増えました。
28の写真、私も少し気になっていました。すぐに場所の想像はついたのですが、29の右端に写るガーダーと28のガーダーの下に写る京都線の架線柱の距離感に、今一つ違和感がありました。
当のガーダーではないのですが、一つ南側のガーダーの写真を貼付いたしておきます(1983年7月3日撮影)。
マルーン様
米手作市さんの叱咤激励は強迫に感じました。28の嵐山線の車両は10形木造車でP-4、P-5とか言われていました。昭和30年代後半に能勢電に集結したと思われます。1300形はマルーンさんがハンドルを握った元特急用ではなく京阪設計でできた張り上げ屋根の車両で電装されずP-6デイ100の制御車として使われていたのが27の京都大宮寄りの車両です。300→1300→750と形式ナンバーが変わりましたが神宝線との番号重複を避けての処置と思われます。付随車750になってからは700の間に入っていたのでマルーンさんもよくご存知と思います。強迫に焦ってマルーンさんの思い出の地を先回りしてすみません。紫の1863さん、四方誠さん補足説明ありがとうございます。