ユースで巡った鉄道旅 -12-

今回のユース巡りは、東北の被災地近くにあったユースに目を転じました。
大震災からの復旧の端緒が見えないJR線の中で、原発事故も重なった常磐線北部は、最大のダメージ区間でしょう。現在、久ノ浜~亘理間は、全く復旧の見込みが立っていません。この常磐線北部、45年前には、日本で唯一、C62の牽く特急が撮れる区間として、賑わっていた場所でした。
私も高校3年の時、一度だけ撮りに行きました。撮影で利用したのが平ユースホステルでした。ここは少しの記憶が残っており、平駅からバスに相当乗って、最寄バス停で下車、海岸へ向かって田んぼの中の一本道を行った先に、目指すユースはありました。訪れたのは、夏休みも残り少ない時期で、宿泊客もほとんどなく、食堂からは海岸風景が望めました。今も健在な公営のユースですが、震災の影響で当分の間、休館とのことでした。津波の影響があったのかもしれません。

「ゆうづる」のC62牽引区間は仙台~平、夜行列車なので、撮影地は限定される。平から二つ目の四ツ倉がもっとも行きやすいところだった。これを撮るためのアクセスは、上野22時24分発の常磐線経由の青森行き、夜行鈍行227レに乗り、四ツ倉4時12分着で行くのが、唯一最上の手段で、227レの編成前部は、カメラを持った人間にほぼ独占されていた。
四ツ倉に着いて撮影地へ向かうが、もう完全に電化が完成している。もう少し早く来ていたらと悔やまれるが、今から思うと、高校3年生の身で、京都からよくぞ行ったものと思う。「ゆうづる」が通過する前に何本かの蒸機列車の通過があり、テストが出来る。カーブの外側から、C6237の牽く普通列車を狙う。当時は、周囲を入れようという意識はなく、とにかく蒸機の迫力を表現するため、画面ギリギリに入れるのが好きだったが、予想より煙が出すぎてしまい、爆煙が切れてしまった。

本命の「ゆうづる」の四ツ倉通過時刻は、5時50分ごろ。まだ光量が十分でないことを考慮して、初めて高感度のトライX一本を購入し、うやうやしく詰めたカメラを構える。四ツ倉から久ノ浜方面に歩き、鞍掛山トンネルまでの間を探すも、編成全体を見通すことは架線柱に阻まれてかえって不利と考え、ここでもC62と20系数両だけを切り取ることにした。下からあおると、半逆光線にC62の動輪やボイラーが輝いた。牽引機は、ゆうづる専用機に近い23号機だった。

当時の常磐線の非電化区間の平以北では、旅客がC62、C61、C60、貨物がD51が使用されていた。ハドソン三兄弟が揃い踏みしていたのは常磐線だけだった。C62が余りにも有名で、C61、C60は影が薄かった。とくにC61は、平区に1両だけの配置だった。近頃のC6120の動態運転の記事を見ても、過去の写真は奥羽本線や日豊本線ばかりで、常磐線は見たことがない。仙台行き223レを牽くC6121、動態運転中のC6120とは1番違いのカマは、この年に廃車されてしまった。

常磐線は、東北本線より距離が少し長いが、線形が良いため、東北へ向かう優等列車が多く運転されていた。伝統の特急「はつかり」も設定当時から常磐線経由で、昭和35年12月から、それまでのC62牽引の客車編成から、キハ81系に替わった。運転当初は、事故や故障が続発したが、その後に誕生したキハ82と同様に改造してからは順調になり、キロ2両、キサシを組み込んだ、東北唯一の昼行特急に相応しい編成となっていた。もちろん初めての撮影であり、よくよく見ると何とも愛嬌のある顔をしている。翌年の東北本線完全電化により、「はつかり」は581系化されることになり、キハ81系は、昭和44年から「ひたち」「いなほ」に転用される。


四ツ倉駅に到着する226レ、一日の撮影を終え、この列車に乗って、平まで行ってユースへ向かった。浜通りと呼ばれる、福島県の常磐線沿線にはかつて多くの専用線が分岐し、古典蒸機が活躍していた。四ツ倉もそのひとつで、住友セメント四倉工場専用線が駅の裏側から八茎鉱山へ向かい、ナスミス・ウイルソンの600形が動いていた。昭和40年代が全盛時代で、蒸機に代わったDLが24時間運転していたようだが、昭和57年の工場閉鎖とともに専用線も廃止されたが、今でも廃線跡は残っているらしい。現在では福島原発の避難地域が久ノ浜以北となり、いわき~草野~四ツ倉~久ノ浜は、特別ダイヤで運転されている。

平駅。8月の終わり、残暑の厳しい時期だった。駅舎、自動車の姿を見ると、今昔の感がする。駅の所在する、いわき市は、訪れた前年に、平、勿来、磐城などの14市町村が合併して、当時日本一大きな面積を持つ、いわき市が誕生した。平駅も、平成6年に「いわき」に改称されてしまい、名実ともに「平」の名は消えてしまったが、ユースの名称だけは今も平を堅持している。その後、この駅を訪れる機会は無いが、ネットで現状を見ると、再開発の大型ビルが林立しているようだ。

ユースで巡った鉄道旅 -12-」への4件のフィードバック

  1. 常磐線の蒸機と言えば吉谷先輩の富岡日記を思い出します。昨夏は1900生さんにダイヤをご教示いただき木戸付近にED75を撮りに行き、拙作をデジ青にのっけさせてもらいましたが、あのあたりは今人が住めないのではないかと心配してます。
     さて、総本家さんご乗車の上野発227レは私も一度だけ乗りました。平でEF80からC60にバトンタッチする頃先頭車両はカメラ持った人が何人か居ました。ほとんどが四ツ倉で降りて待合室で夜が明けるのを待っていました。ハドソン三兄弟なんて懐かしい言葉ですね。私の行った時は66年3月でして架線はまだ張られていなかったですが、ゆうづるは編成全部を狙ったものの絶気で通過。実につまらない結果でした。総本家さんの高校生にして既に計算された撮影技術は凄いですね。大体撮影初期の頃はシッターを切るのが早過ぎて車両が思ったより小さくて不満が残るものですが、総本家さんのは架線のあるところで逆光でもよくひきつけてうまく撮られていますね。それにやはりこの頃から列車到着や駅舎などをよく撮られているのに感心します。私は広野の木賃宿に泊まり翌日平機関区に寄りました。三兄弟以外に臨時列車用C5720、C5754が扇形庫に居ました。平は先日ご一緒しました丹波と同じく化石が有名な所ですね。平からは磐越西線のD50を撮るため郡山経由で川桁の駅前木賃宿に投宿しました。駅前に沼尻鉄道の客車は居ました。あれから半世紀近く経ったのですね。

  2. 準特急様
    いつも速攻で、暖かいコメントをいただき、ありがとうございます。
    確かに撮影初期は、心が早ってシャッターを早く押し過ぎになりますが、私は妙に落ち着いたところがあって、逆に“まだまだ”と心の中で叫びながら、結局シャッターチャンスを逃してしまう失敗が多々ありました。
    平機関区には、ハドソン機だけでなく、書いておられるC57もいました。形式入りのキレイなカマでしたが、何の目的で配置されているのか分かりませんでした。臨時用だったのですね。
    列車の進入や駅舎は、その当時からも撮っていましたが、単に時間つぶしの域を出ません。湯口さんのように、あたかもストーリーを描くように写真を撮られている姿勢には敬服しました。

  3. キハ81のブルドッグ顔に思わず懐かしさが込み上げてきましたので一文。
    小生、このキハ81に吹田試運転線で初めて対面した時『えらい複雑なデザインでスッキリしてへんなあ』が第一印象でした。
    当時この手のデザインには、登場時には度肝を抜かれた『こだま』形があり、この時期には既に見慣れた感じになっていましたので、『こだま』の向こうを張って『無理して変えんでもエエのに・・・』等と思ったものです。
    蒸機の写真1枚目のC6237は迫力がありますネ。煙がフレームに収まりきらなかったのがむしろ良かったような気がします。
    小生は電車屋で、中でも国電派だったので撮影地域が限られていたため、余り遠征の記憶がなく、せいぜい夜行日帰り位しかありませんが、蒸機の場合は北海道だ、九州だまでを含めての文字通り『遠征』にならざるを得なかったんですネ。

  4. 河様
    暖かいコメントをいただき、ありがとうございました。
    また、個人的にも、いろいろとご無理なお願いを聞いていただき、感謝申し上げます。
    北海道だ、九州だと、ずいぶん全国を飛び回っていたと思われるかもしれませんが、最近の一部の撮り鉄のように、カネも時間もすべて撮影に捧げる、というような偏執なことはやった記憶がありません。学生時代はちゃんと勉強もして 社会人になってからは、仕事も目一杯して、家庭を持ってからは、家庭サービスもして(でも、勉強だけはしなかったなぁ)、余った時間を初めて鉄道撮影に費やす、というのがスタンスでした。
    それだからこそ50年も鉄道写真を続けて来られたと思っています。
    “たかが趣味、されど趣味”が私の信条です。

    今後とも、よろしくお願いいたします。

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